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量子の視点から、持続可能な未来社会の実現を図る/量子科学技術研究開発機構理事長 小安重夫氏

次世代重粒子がん治療装置『量子メス』

――個別テーマについて少しお伺いします。重粒子線によるがん治療は、従来の治療法と一線を画す方法として高い期待が寄せられています。

小安 放射線によってがん細胞を殺すという原理は、他の治療法と同じです。従来の治療法として使用されてきたX線やガンマ線は、人体を透過してがん細胞に到達するものの、透過過程で人体の他の組織にも影響を及ぼしてしまいます。それに対して前身となる放射線医学研究所が1994年に世界で初めて開発した重粒子線治療装置は照射ビームのエネルギーをコントロールすることで、他の組織への影響を抑制しつつピンポイントでがん組織を攻撃することが可能です。しかし、従来の加速器は非常に大きく、千葉地区で研究用に設置整備した重粒子線がん治療装置の加速器HIMACはサッカーコートほどの大きさで、一般の病院に設置することが難しく、治療する患者の数も極めて限られてきました。

 そのため2016年度より、より小型化・高性能な次世代重粒子がん治療装置『量子メス』の開発・普及に向けて、超伝導技術を活用して装置全体の小型化を目指し、現在は大きさも建設費も従来の3分の1ほどにすることに成功しました。また、標的とするがん細胞に高精度、高確度で最適な線量を照射することが可能になるマルチイオン源による治療法の開発に取り組み、骨軟部腫瘍への治療を開始、現在、予後良好です。QSTでは、1万4000名を超える患者への重粒子線治療に取り組むとともに、さらに保険診療適用となるがんの拡充を目指しています。

――量子コンピュータへの関わりについては。

小安 開発自体は理化学研究所を中心に取り組んでいるのですが、コンピュータに使われる素材や通信技術の開発を、QSTをはじめ他の国立研究開発法人等で担っています。半導体でも同様ですが、膨大なデータを通信するには多大なエネルギーを要するため、通信の新規技術により必要なエネルギーを低減させるというのが大きな命題になっています。これをさらに発展させるとコンピュータ同士、あるいは量子暗号の通信へと、テーマが広がります。

――では、国に対するご意見やご要望などありましたら。

小安 QSTが有するような世界最先端となる唯一無二の大型研究基盤施設は、一定期間ごとに高度化・アップグレードを行うべきだと思います。私はこれを、〝式年遷宮〟と表現しております。

――伊勢神宮などで一定周期ごとに本殿を建て替え、移動させることですね。施設のアップグレートはそれと相似していると。

小安 はい、ご指摘の伊勢神宮では今から約千年も前に式年遷宮を始めていました。これは20年に一度、各社殿を造り直す過程が、関わる宮大工の技術継承に役立つという大きな意義があります。まさに20年に一度という間隔が世代の更新となり、次代の宮大工が伝統的な技術やノウハウを習得し、後継が育成されました。同様の仕組みが、大型研究基盤施設にも必要なのです。

 大型放射光施設を例にとると、理化学研究所が播磨に整備している大型放射光施設SPring-8やSACLA の技術が活用され、QSTは仙台に世界最先端の大型放射光施設3GeV高輝度放射光施設Nano Terasuを設置整備することができました。次はSPring-8のアップグレードを行うSPring-8-II 計画が始まろうとしています。これはまさに技術の継承の成功事例であり、将来の新たな施設整備に繋げていく必要があります。Nano Terasuは、本年4月から新たな枠組みとなる官民地域パートナーシップにより運用を開始しています。

 一方、核融合、フュージョンエネルギー研究のための核融合超伝導トカマク型実験装置については、初代装置「JT -60」が1986年から2008年にかけて稼働、その後の解体を経て、現在の「JT-60SA」を整備、昨年、ファーストプラズマを実現しました。装置が停止している期間、研究人材の育成技術の継承も難しい状況でした。国として科学技術人材育成と技術の継承を具現化していくためにも、長期に及ぶことのない一定の期間毎に、大規模な研究施設、実験装置を整備する、国によるプロジェクトの設定が不可欠であると、私は確信しています。

退職金制度が人材流動化を阻害

――分野を問わず人材不足と育成は大きな課題ですが、その解決のためにも国はプロジェクトを構想すべき、ということですね。

小安 はい、特に科学を志す若者の育成を重視するのであれば、〝式年遷宮〟の発想と具現化は欠かせません。さらに、人材に関しては日本独自の課題があると感じています。近年、人材の流動性確保が掲げられることが多いですが、実際には産学問わず日本の社会、組織は流動性を高める構造になっていません。

――具体的にはどのような点でしょう。

小安 日本における退職金制度が、人材流動化を阻害する主要因だと私は思います。日本の退職金制度は、組織に長期間在職することを前提に成り立っており、在職期間が短くなると不利益を被る場合が多いです。従って退職金制度や企業年金制度が社会に定着している限り、人材は次の仕事や職場へ動くということを躊躇すると思います。私自身、現職就任まで4回転職し、退職金や年金支給という点では毎回損をしてきました(笑)。少子化、労働人口の減少が進み海外から人材を招致することが求められる時代に、退職金という日本独自の制度が障害になる可能性があると思います。

 退職金の増額や年金支給を重視して人材の流動性が滞るようでは、社会全体の損失になると言っても過言ではありません。人材の流動性促進と雇用システムの改革は表裏一体だと考えています。科学者にとっては環境が、技術者においてはプロジェクトが、新たな舞台に移るモチベーションとなるので、前述した〝式年遷宮〟方式の新規プロジェクトは、技術継承だけでなく人材の流動化促進にも役立つと言えるでしょう。Nano Terasuのプロジェクトには、唯一無二の新しい挑戦の機会と捉えて前職を辞して参画してくれた研究者や技術者もいます。こうした新しい挑戦は、常に必要とされているのです。

――では、先ほどお話に出ましたフュージョンエネルギー分野の研究の進展については、どのような状況でしょう。先達からの技術が継承されていない、というご指摘もありましたが。

小安 それでも技術面では、日本は依然として世界のトップを走っていると私は認識しています。というのは、人類初の核融合実験炉の実現を目指して現在フランスで進めている国際プロジェクトITER(イーター:ラテン語で「道」を意味する)において、最も難しいと言われるトロイダル磁場コイル、つまり超伝導磁石を日本は作製して納入しています。その他にも日本は、重要な部品をいくつもITERに納めています。いずれも、世界が認める最高水準の品質であり、日本が世界に誇るべき技術力です。

 また、ITERの建設、整備に先駆け、日欧共同で整備し、那珂フュージョン科学技術研究所でプラズマ生成に成功した実験装置JT-60SAでは日本はITERに調達した以外の部品を製作しました。従って、日本には必要な技術の全てがあると言っても過言ではありません。JT-60SAで得られた研究成果は、今後ITERの成功と核融合発電の実用化に大きく貢献します。日本は世界でも最も早い時期から核融合関連技術の研究開発を行ってきた歴史があります。特に、強力な磁場でドーナツ形状のプラズマを閉じ込める「トカマク方式」に関しては、日本が最も進んでいるでしょう。

 しかも、JT-60SAも高さ16メートル、直径20メートルと奈良の大仏くらいの高さがある巨大な装置で、非常に大きな超伝導コイルなどで構成されています。巨大な部品全てを、文字通り寸分の誤差なく組むことで、始めて稼働することが可能になります。まさに、高い精度が求められる技術力の結集であり、この実績は今後、確実にITERへ生かされることでしょう。

――このまま研究開発がスムースに運ぶことが期待されますね。

小安 科学の世界では個人による着想、つまり、誰かの頭の中に、ある日突然、これまで発想し得なかったアイデアが閃く場合も多くあります。核融合の研究においても将来的には現在のアプローチとは全く異なる方法が生み出されることもあると思います。日本としては、これからの人類社会への貢献のために、これまで培ってきた研究技術力を生かしつつ、積極的にさまざまな方法を受け入れてサポートするというのがフュージョンエネルギーの実現に向けた戦略ではないかと私たちは捉えています。

基礎研究の重要性について再認識を

――量子技術は近年、半導体やAIと並び、国の経済安全保障の観点からも重要視されています。他方、科学の発展には各国間の連携も必要とされるなど、多様な観点からの捉え方が可能と思われます。この点のお考えはいかがでしょう。

小安 これは非常に難しい問題で、おそらくは誰も正答を導くことはできないでしょう。もちろん国として考えたときには技術や情報は守る必要があり、携わる研究者、技術者も留意せねばならない点は多々あろうと思います。一方で科学技術の立場から捉えると、科学の成果は人類全体の共有財産であるのも事実です。この折り合いをどう付けるか、各国の関係者皆が頭を悩ませている難題です。例えば米国でも最近NSF(米国国立科学財団)が、米議会から強く要請され、セキュリティをどう考えるべきか議論を始めたと報道されていました。英国でも同様の展開に基づいて議論をしているようです。日本でもこうした議論は必要であり、やがて高まっていくのではないかと想定されます。

 しかし現実としてITERは、日本、EU、米国、韓国、中国、ロシア、インドという7極が参画し、共同で開発を進めています。国際的な政治情勢が複雑化した現在でもこの枠組みは維持されています。

 このように、共有できる部分、共有すべき部分は共有し、個別に守るべき部分は守っていくことで進めていくほかはないと考えています。

――最後に、誌面を通じて各方面へのメッセージなどございましたらお願いします。

小安 このような多様な課題に囲まれた時代ではありますが、やはり人類社会への貢献、国民生活を向上させていく上で、科学技術力の強化は欠かせません。特に基礎的な科学研究は非常に重要で、国が経済成長やイノベーションにやや政策の比重を置いている現在であっても、それを支えているのは基礎研究であると私は捉えています。いわゆる〝選択と集中〟は有効ではありますが、選択するものが無くなればもはや集中もできません。科学の発展を図る土壌が荒れ地となるような政策があってはなりません。基礎研究の重要性を再認識し、推進、支援する体制を再構築しなければ、遠くない将来、それを支える人材も枯渇する恐れがあります。

――やはり、人に帰結する部分は大きいですね。

小安 大きいです。それ故に人材の枯渇を私は最も危惧し、人材の育成、技術の継承の重要性を強く訴えています。

――本日は、ありがとうございました。
                                                 (月刊『時評』2024年8月号掲載)