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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第80回】

「平成」あと半年 改めて問う 不毛の根源(中)

 前号で、平成も末に迫った現在、マスコミを中心にいまや「論より証拠」ではなく「〝証拠〟より論」が必要になっている、と述べた。今回はその例として一連のモリ・カケ問題を取り上げたい。さらに、先の自民党総裁選、『新潮45』においても同様の傾向が見られることを指摘しておく。

コミュニケーションの病理現象出現 

 前回のこの稿の(上)で筆者は、本誌の今年2月号から4月号までの3回にわたり「平成」と「昭和」を比較し、「昭和」が苦難と苦渋と苦闘に彩られた「光輝と成就の時代」だったのに対して、「平成」は自身の努力・勤勉の欠如を棚に上げて不平・不満を並べたてる「怠惰とミーイズムの時代」だといわざるをえない、と指摘したと述べた。
 また、「昭和」の終焉ではマスコミの各分野がさまざまな視座・視点に立って「論」を競ったのに対し、「平成」はテレビやSNSが垂れ流した映像や音声の山から思いつき的に拾い出した「絵」や「音」をかき集めた安易・安直極まるものになるだろうし、新聞もそれと大差ない低調なレベルの雑多な記事の集積に終始するに違いない、と予測した。
 そのうえで「平成」の30年は、国際政治で見ればソビエト崩壊・東西冷戦終結に始まり、アメリカ一国覇権体制から多極化・米中相克へと変遷する過程だったし、世界経済で見れば中盤の〝リーマン・ショック〟に象徴される日本を含む先進国経済の低迷と、中国を筆頭とするチープ・レイバーを競争力とする軽工業消費財生産新興国の進出が目立った時期だった、と要約した。さらにそれと平行して、エレクトロニクス技術の急速な発展に伴い、映像処理・通信・コンピュータがそれぞれの分野で目覚ましい進化を遂げたのに加えて、それら相互間のネットワークが整備され、拡大されたため、世界全体の情報環境が根源から大きく変化・変容したと指摘した。
 そうした政治・経済・社会のさまざまな局面に現れた状況変化には、必然的に混乱と摩擦が伴わざるを得ない面がある。しかしイロハ歌留多でいう「論より証拠」をまさに地でいく形で、まず映像や音声などの〝証拠〟が先行して世の中に溢れ、それらが作り出す刺激的な先入観や固定観念に寄り掛かって、世論が精密な検証を欠落させたまま盲動・暴走し、それが政治・経済・社会にも改めてハネ返って混乱・摩擦を拡大再生産するという、コミュニケーションの病理現象が出現したのが、ここ30年の世界と「平成」の日本の姿ではなかったか、と問題提起した。
 また、そうした「論」の不毛・不在の状況に乗じて、政治・経済・社会のあらゆる局面で、口先で軽々に〝すべての責任は自分にある〟といいつつ、取るべき責任を一片のリップ・サービスで済ませてしまう責任感のあり方、いい換えるとノブレス・オブリージュの欠如が目に余る風潮があるのではないか、という疑問を呈した。そのうえで、いまや「論より証拠」ではなく「〝証拠〟より論」が必要になっている、と主張したのである。

論じられなかったモリ・カケ騒動の周辺 

 こうした前提を踏まえ、今回は抽象論でなく、それこそ「論より証拠」と「〝証拠〟より論」の両睨みで考えたいが、例えばモリ・カケ騒動だ。カケを先に取りあげるが、この問題の片方の主役である加計学園のオーナー理事長が、もう一方の主役の安倍首相と成蹊学園・アメリカ留学を通じた同期・同輩であり、長く交友を続けていることは衆知の事実だ。それなら、李下に冠を正さず、スモモの木の下を通るときは実をもごうとして手をあげたと誤解されないために例え帽子が歪んでいても被り直そうとして手を上にあげてはならない、というシナの『古楽府・君子行』の句に従い、政府・行政機関と加計学園との間に利害関係が絡む問題が生じれば、それが完全に片付くまでは、安倍は加計理事長との交友・接触を一時的に断つべきだった。彼がそうしなかったのは、仮にも一国の最高権力者である首相として、思慮や節度に著しく欠けていた、と批判するのは当然のことだ。
 しかし真正面からそう論じるのではなく、その辺は〝忖度〟しろ、と無言の前提にする一方で、別荘やゴルフ場の二人の私的交友の記録映像をどこからか入手してテレビなどで勝手に流すのは、いくら一方が公人中の公人でも、問題なしとはしない。まして出所・真偽不明の私的な〝メモ〟類を裏付けも取らずに〝報道〟するのは、マスコミの姿勢として疑問が多い。報道するならしっかり裏を取ってからにしろ、という議論は当然成り立つ。
 それだけではない。半世紀以上も獣医を養成する大学・学部が新設されていないこと。その背後に既得権益の維持を図る日本獣医師会の政界への働きかけがあること。獣医師会の政治献金の対象は自民党ではもっぱら旧田中・金丸系で、旧社会党系をはじめとして野党にも及んでいること、この問題にはこうした周辺事実もあるが、これらは必ずしも的確に報じられず、論じられてもいなかった。
 そんな話は「絵」にならないからテレビで扱えない、という弁解は成り立ちうる。しかしそれは逆に新聞が独占できるテーマだったはずだ、ということにもなる。大規模養鶏・養豚や、多数飼育の乳牛搾乳場・銘柄牛の肥育場などが増える一方で、鳥インフルエンザ・牛の口蹄疫・豚コレラの脅威が伝えられる当節、四県から成る島である四国に鳥獣防疫専門家の教育・養成機関がなくていいのか、という問題意識もあるだろう。既成の獣医大学の卒業生の多くが鳥獣防疫のような地方での激務を避け、都会のペット医に走る傾向が目立つという実態もある。多額の公的助成を受ける教育機関のあり方として、長時間立って行う手術が避けがたい外科や、激務続きの緊急救命医に体力面で向かないのを口実に、合格点に達している女性の入学志望者を意図的に冷遇した医大と同様に、ペット医ばかり量産する一部の獣医大は助成金の削減を考えていいのではないか、という視点もありうる。
 なぜこうした周辺問題まで多角的に取りあげなかったのか。なぜテレビが振る〝旗〟に新聞もメディアに登場するすべての論者・学者も安易に追随したのか。報道・言論がマトモに機能していれば、カケ問題は一点集中型で騒ぐのではなく追及すべき点が山ほどあったはずなのだ。そうならなかったのはメディア業界全体の無言の合意で安倍と自民党にケチをつけることしか考えなかったからだ、といわれても返事に窮するのではないか。

「自ら蹊を成す」

 余談めくが、李下に冠を正さず、と並んで広く知られる、「桃李不言 下自成蹊」、桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成す、という『史記』の字句がある。敗戦直前に映画の主題歌としてつくられ、敗戦直後に大流行したため、不勉強・一知半解の若いライターが、敗戦直後の国民の解放感を反映して生まれた流行歌のようにいう〝リンゴの唄〟の歌詞、〝リンゴはなんにも知らないけれど〟ではないが、モモやスモモはなにもいわないが芳香に釣られてたくさんの人がやってきて木の下に自然に道ができる、という意味だ。それを、香しい果樹園つまりいい学園には自然にいい学生が集まる、という趣旨で使ったのが、成蹊学園の名の由来だという。
 成蹊は安倍や加計の母校だが、もともとは三菱財閥が、一高?東大に正面突破で挑むだけの知的体力のない幹部の子弟のために、尋常科(5年制の旧制中学相当)?高等科(3年制の旧制高校)をエスカレーター式に7年で通過して東京帝国大学の入試に臨むことができる、裏道とまではいわないとしても、安全・快適に走れるバイパスとして設立した。とはいえ、設立当初は成蹊の高等科を出たあとは、東京帝国大学の入試を実力で突破しなければならなかった。しかし敗戦でアメリカ軍が憲法改正・軍備全廃と並ぶ占領政策の主要三課題の一つとして押しつけた〝学制改革〟で、国家の行政的・知的指導者の育成を使命とする帝国大学及びその前段階のエリート教育機関の旧制高校と、実務教育中心の専門学校の二本建ての欧州型教育システムは強圧的に廃止され、大衆的上級教育機関としてアメリカ型の新制大学が乱造された。そこで成蹊は、六年制小学校・3年制中学校・3年制高等学校・4年制大学の、16年一つなぎの大型エスカレーターに変身したのだ。
 高校卒業で成蹊を〝中退〟して東大受験に挑む学生は多い。それが本来の桃李成蹊のあり方だ。だが安倍・加計は中退組でなく完走組だった。そこにむしろ、人間模様としての二人の〝友情〟とカケ問題のキモがあるのだが、こういう議論はテレビにはまったく馴染まない。新聞や論壇で扱うにしても、敗戦後4分の3世紀の間にしっかり定着したアメリカ型大衆社会状況と、それをテレビがさらにモノトーン化したいまのコミュニケーション病理のもとでは、わかっちゃいるけどいうにいえない、という面がある。もちろんテレビ現場には、こんなややこしい教育制度の問題など、全然わからない手合いも多いだろう。 

〝絵になる〟首相夫人の出現

 マスコミの底の浅い一面的批判の手口は、政治問題化した順番ではカケより古いモリつまり森友学園問題でより目立った。この騒動は安倍本人より、蓮池という極めて特異で甚だしくキャラが立った夫妻に軽率にも完全に取り込まれて、できてもいない小学校の名誉校長まで引き受けた、夫人の責任のほうがはるかに大きいことは、明白だ。
 彼女はなにぶんにもテレビ的に扱いやすい風貌・口調・軽さだから、当初はどちらかといえば〝右寄り〟で扱いにくい夫より、〝家庭内野党〟を自認したり、神田で居酒屋を開業したりする、奇矯で型破りな言動も手伝って、テレビや週刊誌が好意的なアングルで扱うケースが多かった。第一次安倍政権のときはそれほどでもなかったのに、第二次以降は著しく彼女のテレビ露出が増えたのは、民主党首班政権の3年半余を含めて、安倍が雌伏の状況にあったこの間に〝ニュース番組〟のバラエティ化が一気に進み、そこにたまたま〝絵になる〟首相夫人が突如出現した、巡り合わせの妙が大きく作用した面もある。
 〝巡り会い〟の当初は好意的に彼女を扱っていたテレビだが、森友学園が政治問題化してからは、どうも主役は夫より妻らしいし、それなりに政治家として警戒心もあれば周囲のガードも固い夫より、思慮も乏しく警戒するだけの神経もない妻のほうが、〝絵づら〟も〝声〟も〝ニュース番組〟と称するバラエティには向いていると考えて、カメラの標的にする度合いが格段に増えた。
 持ち上げれば視聴者に受けると思えば九天の上までも持ち上げるが、叩くほうが時流に乗ると思えば持ち上げていた相手を平然と九地の底までも叩き落とすのが、昔からの三流マスコミ、そしてテレビの流儀だ。世間知らずの安倍夫人は、その辺の常識にも欠けていて、調子に乗ってテレビにサービスしている気分でいるうちに、まんまと夫を貶める道具に使われてしまった。ところがそのこともわからず、テレビ・カメラの前で不用意な言動を繰り返して彼らの餌食にされ、三流マスコミだけでなく、反自民・反安倍しか存在感を示せない野党にも利用されて、国会審議や国政運営の大きな障害になってしまったのだ。こうなった以上、本来は夫たる安倍首相が夫人に閉門蟄居・謹慎を求めるべきだった。ところが実際は、針のムシロと化した国内を避けて外国で伸び伸びと楽をさせたいのか、さなぎだに数が多すぎる国際会議や〝外遊〟の機会ごとに、夫婦で手を取り合って政府専用機のタラップを登るのだから、話にならない。これでは自民党内から善処を求める声が噴出しておかしくないが、〝安倍一強〟状況の反映か、それも出ない。このザマを、〝商業利用〟するテレビはいざ知らず、新聞の解説・社説や寄稿文、もちろん雑誌論文でも厳しく「論」ずるのが当然だが、それもない。この姿は「絵」で食う〝電気紙芝居〟(c大宅壮一)であるテレビと、彼らにニュースの価値判断の基準を握らせてしまった〝報道・言論〟機関との、醜悪極まる相関関係の隠れもなき〝証拠〟、というべきなのだろう。

石破への違和感を示す 論調皆無の不思議

 あるべき「論」の欠落という点では、安倍三選が問われた自民党総裁選で唯一の対立候補に立った石破茂が、二言目には〝自民党の伝統〟〝自民党らしさ〟と連呼したのに関して、違和感を示す論調が皆無だった点も、不思議・不可解の極みだった。
 「正直・公正」をスローガンとし、〝言いにくいことでも言わなければならないことは言う〟と叫び、二言目には〝私が知る自民党といまの自民党は違う〟と主張していた石破だ。そこで筆者も〝言いにくいこと〟をはっきりいうが、石破には初年兵議員だった四半世紀前に、武村正義に随ってリクルート事件で政権を失う危機にあった自民党を後足で砂をかけるように去って、反自民・非共産政権を構成する新党の議員になった過去がある。その政権が八か月で脆くも瓦解したあと、小党を転々としたあげく自民党に帰参したのだが、彼が反自民政権与党の若手議員になったころ、下野していた自民党の総裁だったのが河野洋平だ。彼はその20年ほど前にロッキード事件で田中角栄前首相が逮捕された渦中の自民党を出て、新自由クラブをつくったが思うに任せず、のちに復党している。銀行員だった石破が建設官僚出の田中派議員の父親の死後を引き継いで選挙に出たのは、ロッキード事件で有罪判決を受けて議員バッジを外し、〝闇将軍〟となった田中の指示と徹底的な支援によるものだった。トシの差、背景にある時代の違いはあるが、ともに二代目政治家の河野と石破の政治遍歴は、対照的だ。
 河野洋平は自民党が社会党の村山富市を首班に担いで自社連立で政権を奪還したあと、ポスト村山の局面で総理に推す声があった。しかし、自分は一度は党を離れた身だから、として橋本龍太郎に総理総裁の座を譲った。彼の父親の河野一郎も、池田勇人のガンによる退陣後にチャンスがあったが、吉田茂の自由党を出て鳩山一郎についた〝前暦〟が祟って、池田と〝吉田学校〟同門の佐藤栄作が後継になった。政治家・河野洋平には、慰安婦問題の〝河野談話〟をはじめ、毀誉褒貶があるが、この進退の潔さは、いずれ息子で三代目の河野太郎にとって財産になるだろう。
 石破は六年前の最初の総裁選出馬でも今回も、自らの出処進退に関してきちんと整理して説明する意思のカケラも示さず、いかにも自身が自民党生え抜きの本流のように振舞った。これは「正直・公正」どころか、不正直そのものだし、公正とは正反対の姿勢だ。

誰も〝言いにくい過去〟に触れず 

 河野と石破の一連の政治シーンの映像や音声は、どのテレビ局も山のように保存しているはずだし、新聞社・出版社の資料室にも大量にあるだろう。政治記者や〝学者〟も、知らなければモグリといわれても仕方ない。率直にいって筆者は、今回の総裁選の特番でこの点は当然議論の中心になると思っていた。共産党を別として、党に対する忠誠心がないのが政友・民政対立時代のとりわけ政友会や社会主義系諸党が、近衛文麿の仕掛けに乗り雪崩を打って大政翼賛会に加わった根源だというのは、日本政党史の初歩的常識だ。その反省から、吉田茂が鳩山一郎を〝(党を)出たり入ったり。また出たり〟と揶揄したこともあって、党への忠誠心は〝吉田学校〟系を中心に全盛期の自民党では極めて重視されてきた。あっちに付いたりこっちと組んだりして〝バルカン政治家〟と非難された三木武夫でも、入党後は自民党を出なかったのだ。日本記者クラブ、NHKと民放の四キー局でそれぞれ行われた安倍・石破討論の場で、石破が言いたい放題、放言に近い調子で安倍批判を展開したにもかかわらず、どの場、どの局の司会者も、申し合わせたように石破の〝言いにくい〟過去には触れなかった。
 安倍がこの点に触れなかったのは、仮にも現役総理総裁の矜持、痩せても枯れても武士の情として当然だが、記者でござい、討論の司会者でござい、というなら、この〝急所〟に斬り込まなければ、石破に対して聞く点はない。いまどきのテレビの〝ニュース芸人〟はいざ知らず、政治記者出身のキャスターには、知らなかった、とはいわせない。この腰抜けぶりには、心底呆れ返るほかなかった。
 ひょっとすると「絵」中心、「論」不在のテレビ主導のコミュニケーション病理現象が定着した「平成」の世には、筆者のような老兵が知らぬうちに、マスコミを暗闇から支配する憲兵組織かKGBが生まれていて、言論監視・言論統制をしているのかも知れない。かつては左翼政党や関係団体による〝言葉狩り〟という愚挙があり、猛威を奮う一方で余りの横暴・無礼・言論妨害が批判の的になった。その教訓から〝言葉狩り〟ならぬ「論」狩りの「平成」型は、左翼の正体を隠しつつ〝奥の院〟から密かに、しかし徹底的に、あらゆる「論」を検閲して、気に入らなければ配下の官民いくつものテレビやご存じいくつかの新聞を起用し、〝マスコミ法廷〟で〝起訴〟して〝即決裁判〟のうえ番組や紙面で集団リンチを加えて〝処刑〟すべく〝進化〟させたのか、とさえ疑わせる状況だ。

経営者による圧殺とも

 卑近な例が『新潮45』の休刊を招いた8月号の杉田水脈のLGBTにかかる「論」及びそれをめぐる数人の執筆者による10月号の「論」の〝事件〟だ。LGBTは子供を生むことにつながらないから生産性がない、という杉田の表現は粗雑・幼稚だが、『正論』10月号、11月号が続けて別の稿で指摘したところによれば、出生率と生産性を結びつけた議論の〝家元〟は、東京都と愛知県の人口構成と出生数の数値を「論」じた菅直人だという。語るに落ちる、というべきか、闇の検閲組織は菅は不問に付し、維新の会から自民党に移った杉田だけをヤリ玉にあげた。
 しかし菅・杉田の「論」はさておき、LGBTのうち、その必要があるとは思えないB=バイセクシャルや、心療内科から外科に至る医療の対象であるT=トランスジェンダーは別として、L=レズビアンやG=ゲイに対して法的な婚姻・戸籍の夫婦記載・配偶者に対する相続特権を認めさせようというのは、「憲法24条 婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
 ② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」
 に真正面から抵触する。現に東京・渋谷区や中野区が考慮しているといわれ、官民のテレビやリベラル系新聞が肩入れしていると見受けられるこうした行政措置や、まして関係法の改正は、憲法改正なしには不可能だ。
 筆者は先に他誌でこう主張したが、その反響かどうかは別として、現に屁理屈を捏ねて解釈改憲で対処できると主張する〝学者〟も出現したようだ。その「論」の主が、いままで九条を標的に解釈改憲を断固否定してきたのだから、笑わせるというほかない。
 メディア・スクラムの集団リンチに襲われた新潮社オーナー家の三代目社長は、『新潮45』休刊を決めた。たぶん心情左派の軽量風俗小説家数人が示し合わせた、執筆拒否圧力に屈したのだろうが、なぜウチは日本文学史に残る古典・名作の文庫で経営を支えているからご心配なく、と啖呵を切れなかったのか。この姿勢は、ファッショつまり〝束〟になった「論狩り」ファシズムの言論封殺に屈したといえるし、経営者による雑誌編集権・連載筆者の寄稿権の圧殺、ともいえるのだ。この新潮社社長の姿も「平成」流の責任の取り方の典型的なスタイルともいえようが、マスコミが大合唱でつくりだすトーンに合わせて事態を動かし、予定調和式にものごとを収めていくのが、果たして適切な対応といえるのか。
 次回は自民党総裁として三選された安倍首相の施政にかかる〝責任〟をはじめ、当面世間の注目を集めることになる内外の権威と、「平成」型コミュニケーション病理との関連を、掘り下げて考えたい。

(月刊『時評』2018年11月号掲載)