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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第76回】

こんな穀潰し国会議員はいらない ボーフラ政党 リンチ・パワハラ常習

 過去に例を見ない内容希薄な国会が間もなく終わるにあたり、野党の無能さが改めて浮き彫りになった。変転した新党への支持率はどの媒体も例外なくマイナスで、国民の不信感は全く払拭されていない。こんな連中に国会議事堂にいる資格は無い。

かくも中身薄き“議会”

 年の前半を潰した通常国会が延長のうえに間もなく終わる。端的にいってこれほど実績を残さなかった国会は、129年目になるわが国の憲政史上で前代未聞なのではないか。少なくとも新聞記者になって66年目、官僚政治家の孫で新聞記者志望の少年だったから、その前も含めると4分の3世紀以上も、意識的に政治を観察してきた身として、これほど中身の薄い“議会”は見た覚えがない。
 この一年間、内外にロクに政治的な動きがなかったのなら、まあ許されるのかもしれない。昔風にいえば壊れたレコードをかけるような、今風にいえば前通常国会の再現映像の垂れ流しを見続けるような、既視感は強いがどこにも新味のない姿でも、無事こそ天下泰平の証し、とうそぶく余地もありえたろう。
 しかし実際はそれと正反対の激動続きだったのだ。くだくだしく述べるまでもないが、アメリカではトランプ大統領が出現して破天荒な政権運営をはじめ、イギリスではEU離脱が迫る中で行われた総選挙で政権与党が後退した。フランスでは結果的には大敗したものの、右派の国民戦線が大統領選の決選投票に進出した。ドイツではメルケル長期政権が総選挙で振るわず、辛うじて連立体制を構築するまで難渋を極めた。ポーランド、ハンガリーの東欧の新参組に加え、オーストリア、イタリアの創設メンバー国でも反EU・反移民の右派が躍進した。一方で中国・ロシアの現元共産党独裁国では、強権的な独裁者が圧制権力をさらに強めた。韓国では原爆・ミサイル実験を重ねる北朝鮮に媚態を隠さない、容共・左翼政権が誕生した。中東・アフリカや南米を含め、世界大乱の形勢なのだ。その中で、ウソかマコトか、はたまたジョーダンか、核兵器・弾道ミサイル廃棄をうたう米朝頂上会談という“怪談”までが、出たり消えたりした。
 EU経済は独り勝ちだったドイツの不振で停迷しているし、中ロも表面づらとは大違いで経済の実態は薄氷を踏む状態にある。当面順調とされるアメリカも、安定しているとは言い難いし、人口減少・高齢化が進む日本の前途は極めて多難だ。延ばしに延ばした消費税の10%への引き上げがやっと迫ったが、長らく頬かむりしてきた財政赤字の累積は、いまや放置できぬ水準をとうに超えている。さらに国会論議に馴染むかどうかは別として、憲法や皇室典範に照らし疑問なしとしない“お気持ち退位”や、仮にも“海の王子”如きが国民の税金で恩恵を受けていいのか、という国民的疑問点もある。山積する内外の課題を放置して、モリだ、カケだ、と蕎麦屋の品書きのような“疑惑”を言い募るだけが能の野党国会議員に、高額の歳費や文書・交通費・政党交付金に値するだけの存在意義があるとは、まったく思えない。

実力派議員、野党に無し

 モリだ、カケだ、ましてセクハラだ、というのは、面白半分のテレビや週刊誌にはうってつけのネタだ。テレビが取り上げないものは存在しないことになってしまうのが、イマドキの世間でもある。視聴率が取れるとなると、テレビはもちろん情けなくもそれに追随するようになった部数激減の一部の大手の新聞までが、集中豪雨的に扱って騒ぎに輪をかける。彼らが行う月例世論調査で、放火犯が火事場に様子見にいくような調子で感想を聞けば、テレビや新聞が報じた通り、彼らの期待通りの答えにオウム返しにマルをつける回答者が多くなるのは、自然の成り行きであって真の世論の動向とはなんの関係もない。
 日本社会党の全盛期には、必ずしも党には頼らずに、自らの見識で打ち出した政策を提言をしたり、政府提案に筋の通った対案を提示したり、首相も一目置かざるを得ない論戦を真正面から挑んだりする議員がいた。そうした“政策派”といわれた議員とは肌合いが違うが、自力で聞き取りを重ねたり、クサいところに踏み込んだりして、独自の視点・論点から政府を問い詰める、“爆弾男”と呼ばれた議員もいた。前者の代表格は参院の木村禧八郎・羽生三七ら、衆院では河上丈太郎、石橋政嗣はじめ多数、後者の典型では楢崎弥之助がいたが、そうした実力派議員は、いまの野党には一人として存在しない。
 新聞の切り抜き片手に質問してやがる、というのは、かつては野党議員に対する最大の侮辱表現だった。しかしいまはこれならよほどマシな部類だ。芸能プロダクションから派遣されてテレビのワイド・ショーに出演し、放送作家が面白半分に書き殴った台本に沿ってしゃべくる“学者”や“専門家”のセリフを、そのままなぞる議員が幅を利かせる。それもすでに仲間の議員が聞いたことを繰り返し繰り返し聞く手合いが多い。
 なぜそうするのか。刑事や検事が被疑者に同じ質問を反覆重複して聞き、ちょっとした違いに着目して矛盾点を衝き、真相に迫ろうと努めるのはよく知られた職業的技術だが、そんな上等な話ではない。この手の議員には独自の質問をする能力も、そのための準備をする努力も欠けているからでもあるが、別の企みもないわけではない。テレビに取り上げて貰うためには、テレビが好きなテーマを扱うのが得策だし、たとえ同じ質問でも、鮮度が高いほうがオン・エアされる確率が高い。レベルの高い有権者・国民はマンネリと笑っても、そもそもテレビはマンネリの権化なのだし、レベルの高い有権者も一票ならテレビを見て投票する有権者も一票だ、彼らはこう勘定して“演技”しているのだ。
 一家に一台、テレビがやっと茶の間に入り出した半世紀昔ならいざ知らず、いまどきテレビに姿が写ることがそれほど選挙に有利に作用するとは思えない。しかし政治的実績も自ら築いた地盤もなく、ただ“風”に頼って選挙をする一部の候補者にとって、テレビに写ることへの執着は異様に強いようだ。その浅ましいまでの醜状は、野党が国会審議をボイコットする一方で、モリ・カケ、セクハラを中心に続けた、諸官庁事務当局への“ヒアリング”にも、端的に現れている。

“ヒアリング”の変質

 筆者の認識では、“ヒアリング”というのはアメリカ占領軍の支持で新憲法下初の内閣になった片山哲・社会党首班政権が一年と保たずに瓦解したあと、片山を支えた社会党右派を中心に、政権復帰を視野に入れて官界との接触を維持しつつ、時宜に沿った内外の情勢分析を聞いたり、新規の政策を勉強したりする場として生まれた慣習だ。左右両社会党に分裂したあとも右派社会党系には残っていたし、“55年体制”で左右が再統一して昭和33=1958年の総選挙で166議席の最高記録に達したあとも、右派系のヴェテランを中心に、閉会中も院内で連日のように開かれていた。少なからぬ社会党担当記者も、自らの勉強の場として参加したものだ。
 その名前だけが社民党-民主党-民進党に伝わり、審議をサボった議員が官僚を呼びつけて詰問するシーンをテレビに写させ、放映させるイベント、“吊るしあげショー”の場と化した。政策勉強ならテレビに写るわけがないからわざわざ出向く必要もないが、テレビの撮影クルーが押し寄せるなら話は別だ。イベントがはじまった当初は会場に多数の議員が詰めかけた。しかし猿山のボス猿のように最前列にふんぞり返って、声を荒げポーズをつくるのは、立憲民主・希望・民進・自由の旧民主党崩れと、社民・共産の、毎度おなじみのウルサ型だけだ。それ以外の議員は、エキストラを駆り集めた、もともとは映画業界用語で“ガヤ”と呼ばれた群衆役として、後列にスシ詰めに座らされて、そのつくられた“盛況”の図柄をチエのないワイドショーが繰り返しオン・エアする。
 それが余りにも度重なり、役人いじめだ、吊るしあげだ、議員バッジを凶器に使ったパワハラだ、と非難する世論が出てくるようになった。同じ議員が同じ罵声を繰り返すだけだから、いくら待っても発言機会も、テレビの映像にクローズアップされる姿も写らないガヤは、徒労感で会場にやってこなくなる。最前列以外にだれもいないスカスカの会場では“絵”にならないから、テレビの撮影クルーもこなくなった。こうなると現金なものでヒアリング自体が廃れる羽目になる。

“ミー・トゥー”便乗の醜態

 ボス猿もガヤも、ヴェテランでも当選1回の新兵にも、共通していたのは、彼らの中で所属政党名が変わらなかった人間はまずいなかった、という点だ。議員の椅子にありついて生計を立てる目途をつけるためには、あらゆる機会を捉えてテレビに登場しよう。たとえ小選挙区で落ちて比例復活でもいいから、当選するためには現に“風”がきている政党のカンバンを背負いたい。どうせ政治信条なんか持ち合わせていないし、政策なんて面倒な話には関心も興味もないのだ。時代の好みに合わせてテキトーな能書きを並べ、テレビの“ニュース芸人”の口調を丸写しにした自民党批判をぶっているほうが、よっぽど票になる。彼らは歴然、こう思っているのだ。
 余談にわたるが、今回の“ヒアリング・イベント”で最前列の常連だった議員に、財務事務次官のセクハラ発言問題で野党の女性議員が、いまアメリカで流行している“ミー・トゥー”と書いたパネルを掲げるデモンストレーションをテレビに撮らせようと、財務省2階の事務次官室前の廊下に押しかけたときに、男性としてただ一人、同じパネルを掲げて参加したヤツがいた。さすがに最前列ではなく、やや人込みに紛れる感じで、だがしっかりテレビに写っていた。
 彼も“ミー・トゥー”、つまり自分はセクハラ被害を受けたと自ら主張してデモに参加したわけだが、さて、この男は若いころ年増女にセクハラされたのか。それとも男色趣味の屈強な男にセクハラされたのか。それともテレビに写ればなんでもいいと考えて、実際には“ミー”が体験したわけではないのに、ウソ八百を書いた流行のパネルを掲げて見せたのか。いずれにしてもゴクローサンというほかには言葉もないが、第1、第2のケースならまだしも、政治家の行為としては第3のケースは不誠実そのものであって、許容範囲を遥かに逸脱しているというほかない。

新党支持率は例外なくマイナス

 閑話休題、この“ミー・トゥー”議員もその一人だが、選挙最優先、政治信条も政策も二の次、三の次の議員たちの思考回路は、改めていうまでもなく、民主党→民進党→希望の党→国民民主党へと、集団で右往左往した大醜態にもしっかり反映されている。この経緯の説明も、衆知のことだし目まぐるしくも煩わしいから省略するが、笑ってしまうのが次に掲げる表だ。5月のゴールデン・ウィーク明けに、衆議院が主体の希望の党と参議院に取り残された形だった民進党が、そっくりそのまま合体して発足した“国民民主党”の支持率と、この新党をつくる直前の、たった8か月の露の命だっ希望の党、および2年2か月で瓦解した民進党との、それぞれ最後の支持率を調査媒体別に対比させたものだ。
媒体  希望の党  民進党  国民民主党
NHK  0・3    1・4    1・1
共同通信 1・7    1・1    1・1
TBS系 1・1    1・8    0・8
読売新聞  1      2      2
日テレ系 0・7    1・2    0・5
産経新聞 1・7    1・2    1・0
朝日新聞  0      2     1
テレ朝系 0・4    2・9    1・5
(数字は% 産経新聞5月22日付)

 いうまでもないが、二つの党がまるまる合同したのだから、普通なら初お目見えのご祝儀もこれあり、二つの党の合計にそこそこのプラス・アルファがつくのが自然のことだ。最低でも、上の数値と中の数値を足したものが、下の数値にならなければおかしい。
 ところがすべての世論調査で、表が示すように、新党支持率は例外なくマイナス。二つの党が消滅前に残していた支持率の中で、どちらか高いほうの数値が残っていれば、よほど上出来というべきだが、それもただ一つしかなかった。ほとんどの調査では、二党のうち高かったほうの党の支持率さえ維持できなかった。これでは、キミたち、いっしょにならないほうがよかったね、と慰めなければならない、マンガ的というかヒサン極まるというか、滑稽にも惨めな姿というほかない。
 なにも国民民主党だけではない。昨年秋に降って湧いた解散―総選挙に当たり、当時の民進党代表・前原誠司が採った、希望の党創設者の小池百合子の突き付ける“踏み絵”を踏んで希望の党の推薦候補になることに同意せず、民進党を離れて急ごしらえの新党をつくり、判官ひいきの票を集めて善戦した立憲民主党も、当初の10%台後半の支持率からじりじりと後退し、いまや媒体によっては一桁台に落ちている始末だ。“安倍政治”のあり方が極めてお粗末なのに野党がこの体たらくなのは、理解不能といえばそうでないともいいにくいが、やむなしといえばその通りというほかない、まことに奇怪な状態だ。

新党・新新党への不信感

 その背景に、いかに党名を変えて偽装してみても、鳩山由紀夫・菅直人・野田佳彦の3代、3年4か月の民主党政権の、目に余る無能・愚劣・魯鈍な姿が、大半の有権者国民の意識下にこびりついている面があることは、まことにはっきりしている。国会論戦でも、例の“ヒアリング”でも、出てくる顔は、民主党政権時代も、その前も、さんざん見飽きた顔だ。彼ら、彼女らの言動も、より劣化してはいても、過去の反省に立っていささかなりとも成長・成熟したとは到底いえない点も、新党・新新党への不信感に輪をかけている。
 言行不一致どころか、自分のことを棚にあげて他を責める手口は、昔の日本社会党左派から一貫して続く、左派野党の“持病”だ。具体例をあげればきりがないが、モリ・カケのカケの部で、国会に参考人として招致された総理秘書官の、愛媛県の伝聞メモをめぐる答弁で、私の記憶によれば、と繰り返したことに対し、蓮舫は、記憶と記録のどちらが正確でしょうか、と切り口上でいってのけたものだ。しかし自らの二重国籍に関して、父親から聞いたという“記憶”を根拠に、10代のうちに日本に帰化した、といっていたのが実は大ウソで、日本国籍でなければなれない国会議員を参院2期12年務めたあとの、3期目つまり13年目に入ったところで、“記録”に照らして台湾との二重国籍を維持したまま国会の議席に座っていた事実がバレ、民進党代表の座を去らざるをえなかったのだ。
 多くの有権者国民は、この蓮舫の大醜態を忘れてはいない。エラソーな上から目線でエラソーにいえばいうほど、ごく少数の支持者の喝采は得ても、多数の有権者国民の反感を招き寄せ、自分だけでなく党の評価を下げることにつながってくるのだが、そのマイナスの連鎖の恐ろしさを、所詮はタレントあがりの政治音痴の蓮舫は、理解できないのだ。

前科一犯の重み

 同じ問題で、安倍首相はトカゲの尻尾切りで逃げようとしている、とテレビ・カメラの前で大見得を切った辻元清美も、同類だ。そもそも秘書官を国会に参考人として呼べと与党国会対策に強要していたのが自分たちなのに、実現したらトカゲ呼ばわりはなかろう。それに辻元は、まだ記憶している人も多いだろうが詐欺前科一犯だ。辻元は社民党の当選2回の“土井チルドレン”として“親分”土井たか子委員長のえこひいき人事で、委員長・書記長に次ぐ党ナンバー三の政審会長に起用された。まさに得意絶頂のそのとき、土井の秘書が伝授した社会党秘伝の裏ワザ、税金から支出される議員秘書給与の架空請求とピンはねに手を染め、自身の政治資金に化けさせただけでなく、金融商品購入にも充てていたのがバレて、逮捕・議員辞職・起訴・裁判・執行猶予つき有罪判決を受けたのだ。
 筆者は夏目書房刊の夏目ブックレット第6号「辻元!」(2003年)に、寄稿者の一人として「キッチュに成り下がったシニセ、社会民主党一場の喜劇」という論稿を書いたものだが、一五年前の当時“クリーン”を売り物にしていた土井の、まさに“切られた尻尾”になったのが、土井の地元先輩議員の娘の秘書と“チルドレン”の辻元だった。
 執行猶予期間を終えた過去の犯罪歴は“人権”の見地からとやかくいうものではない、という議論があることは承知している。しかし土井―辻元のルーツである社会党は、たとえば安倍晋三の祖父に当たる岸信介を、結局のところ起訴もされず、東京裁判の法廷にも立たず、もちろん有罪判決のユの字も受けていないのに、東条英機・開戦内閣の閣僚を務めた故をもって、敗戦直後にアメリカ占領軍によって、戦犯容疑者として巣鴨の東京拘置所に拘置された。そのことを捉え、社会党は岸を、終始戦犯呼ばわりし続けてきたのだ。自分たちは当時コドモだったり、生まれてさえいなかったり、そんなことはいっていない、と弁解しても、社会党のDNAを受け継ぐ組織に属し、同じメンタリティと共通する言動を国会議員として続けている限り、悪しき“遺産”を問われるのも、やむをえない。

国民民主党の悪しきDNA

 たまたま蓮舫も辻元もいまは立憲民主党所属だが、左派の野党議員が受け継いでいる悪しきDNAは、もちろん国民民主党にも存在する。ただこの党は、前の半身である希望の党では創業者で、いまや置き去りを食った形になった小池百合子とともに、共同代表を務めていた玉木雄一郎。もう一方の前の半身である民進党代表から横滑りした大塚耕平。この二人の新党の共同代表が、ともに余りにも政治的実績が乏しく、いまふうにいえばキャラが立っておらず、要するに影が薄いため、例示しようがなかったに過ぎない。
 しかし老いも若きも古参も新参も、氏と育ちの中で身に染みついたものは、ユニフォームを着替えたくらいで変わりようがない。表向き保守を標榜して出発し、いずれも短命に終わったとはいえ三代にわたって政権を維持した政党の流れを汲み、現に閣僚を務めた顔触れも抱えている政党が、こともあろうに共産党と手を組んで、かつて左派が主導・支配していた社会党と同じ言動を重ねるのには、情けないという以外、言葉もない。
 社会党といえば暴力も辞さない審議妨害、現実離れした主張と眼高手低の極致というほかない無能さで長期低落を続け、いまや自力では国会で政党要件を満たすことも容易でない体たらくに転落している。それにもかかわらず、多年染みついた政治的生活習慣病ともいうべき言動様式から、抜けられない。
 大相撲の世界では、大関・三役の地位についた力士でも幕尻・十両に落ちれば番付相応の相撲しか取れなくなる、という。片山哲内閣では首相を擁し、次の芦田均内閣では閣僚を出していた社会党も、そのときの無能・非力さを忘れぬ有権者国民の審判によって、反自民・非共産の細川護煕内閣で閣僚の座にありつくまで、半世紀以上も冷や飯を食い続けた。そして村山富市が実態としては自民党の雇われマダム的に首相の印綬を帯びたのを最後に、ほぼ命運尽きた。彼らの御家芸の審議拒否、院内での暴力。適切に問題点を指摘して質問する能力がないコンプレックスの裏返しで、議員バッジを武器・凶器に使って閣僚や官僚に、ことあるたびに、辞めろ、と怒号してみせるワンパターンのパワハラ。その後継者が旧民主党崩れのホーマツ政党議員だ。
 いちいち資料に当たらなければ、いつ、どの党にいたのか、わからないボーフラのような生態。選挙目当てでテレビに写るためには議場暴力も、演技もウソも、リンチ的発言もパワハラも、手段を選ばぬ陋劣さ。こんなヤツらに国会議事堂にいる資格はない。彼らの歳費や政治活動費に巨額の税金が流れるのには、つくづく納得がいかない。
(月刊『時評』2018年7月号掲載)