2024/11/01
かつての“角栄征伐”にも似た財務次官セクハラ問題の狂騒において、当事者である記者の行為を新聞倫理綱領に照らした議論が適切に行われないのは問題というほかはない。まして無断の盗み録りが社会的に許されるなら、いつ政官側にその論理を逆手に取られて報道の制約につながってもおかしくはない。
田中角栄逮捕への疑義
田中角栄がロッキード事件で逮捕され、まだ小管の東京拘置所にいた昭和51=1976年(以下年表示は基本的に西暦とする)8月23日に発行された『週刊サンケイ』臨時増刊号に、筆者はこの逮捕に疑義を呈する一文を発表した。ここで筆者は「日中国交回復前夜で“角栄ブーム”が頂点に達した時期」の1972年9月に発行された講談社の月刊誌『現代』10月号に、「“危険な角栄ブーム”改造論」というタイトルの論稿を発表した事実を示したうえで、“角栄批判派”だった筆者でも当時とは正反対の集団的熱狂の中で進行する“角栄征伐”の風潮は、「人権のジの字も顧慮せず、お上検察の言い分に抗弁するのは途方もない悪事のようにいいはや」すものであって「ふしぎを通り越しておそろしい」と思う、と批判したのだ。
そして田中逮捕容疑の裏づけになった“嘱託尋問調書”、つまり当時の三木武夫首相の発案に従い布施健検事総長の“宣明”を藤林益三長官以下の最高裁が“保証”して実現した、丸紅を介して田中に渡ったとされる5億円の賄賂の資金源であるロッキード社のコーチャン、クラッター両幹部に対し、起訴しないとあらかじめ確約したうえで、日本側がアメリカで直接調書を録取すればアメリカの主権侵害になるため、現地に検事を派遣して細部まで打ち合わせたうえでアメリカの退役判事に委嘱して行った尋問の調書について、
① 司法取引の制度は、アメリカには存在しても(当時)日本には存在していない、
② 不起訴を確約して得た調書は、相手方に利益を供与した代償の不公正なもので、日本の法制下では証拠能力を認められない、
として、
「ペナルティを求める以上ルールがきちんと守られなければならないが、そのへんはだいじょうぶか」、
「超異例なことが、時の勢いというか、もののはずみというか、そんなことで積み重ねられ見逃されているとすれば不気味だし、法の支配の尊厳を守るゆえんでもない」、
と指摘したのだ。
筆者はこの論稿が、渡部昇一をはじめとする言論人の一角や、林修三元内閣法制局長官を筆頭とする法曹人の一翼が、
「憲法第37条2項刑事被告人はすべての証人に対して審問する機会を十分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続きにより証を求める権利を有する」
や刑事訴訟法・刑事訴訟規則に照らして、被告の権利として保障されている反対尋問が不可能なうえに、相手方に不起訴宣明という利益を供与して得た嘱託尋問聴書を証拠採用した、ロッキード事件の丸紅・全日空・小佐野の三ルートの地裁・高裁の六つの裁判はすべて違憲・違法で無効だ、と主張して論壇を二分した、“ロッキード裁判論争”の最初の一石になった、と自負している。
嘱託尋問調書が違憲・違法だった事実
筆者はこの論争に活発に加わって
▽『時評』1980年4月、81年10月、83年4・11月、84年1・4・5・6月
▽『正論』1983年7月、84年9・10・11月
▽『文藝春秋』1981年3月、84年11月
▽『政経人』1979年7月
の各号にも執筆した。そしてこれらを一括し前記『週刊サンケイ』所載の論稿と合わせて1984年12月1日付で『田中裁判もう一つの視点』という単行本として、時評社から刊行してもらった。この本は『正論』所載の林修三元長官との対談が、政治家や裁判を担当した司法記者たちだけでなく法曹専門家や一般読者まで広く注目を引いたとされ、2か月間に6版まで増刷を重ねている。
ロッキード裁判の中心的論争点だった嘱託尋問調書の違憲性については、平成7=1995年2月22日の“丸紅ルート”最高裁判決で、大法廷で関与した12人の裁判官の全員一致で、違憲・違法で証拠から排除する、という判決が出ている。しかし
① 中心被告の田中角栄が死去して免訴になっており、世間の注目を引かなかった。
② 丸紅関連の被告は、無効の嘱託尋問調書以外の証拠に照らして下級審の有罪判決と量刑が相当と認められる、として形式上は上告棄却となり、裁判結果に変化がなかった。
③ この最高裁判決の結果まことにバツが悪い立場になった“角栄征伐”火付け役の立花隆はじめ、彼に追随したマスコミが、この最高裁判決をなるべく世間に知られないように、黙殺・隠蔽した、
ことなどが作用して、世間では注目されるどころか、ほとんど知られぬままだった。
テレビのワイドショーの“ニュース芸人”風情ならいざ知らず、仮にも新聞記者でござい、論説委員・編集委員でござい、という連中にも、あの嘱託尋問調書が違憲・違法だった事実を、いまだに知らないでモノを書いているのが少なくないから、呆れ返る。
と、ここまでは前置き。マスコミが煽り立てる“空気”の中では物事はしばしば一面的に捉えられ、他の視点も常識も、リーガル・マインドさえも忘れられるという点で、かつての“角栄征伐”と今回の財務事務次官のテレビ朝日女性記者へのセクハラ問題とは共通性が多いのではないか、というのが本題だ。
新聞倫理綱領に照らした議論無きままに
今回のセクハラ問題は、表面に現れて“報道”対象となった事象に関する限り、論外、言語道断であって、いささかの弁護の余地もない。あくまでその前提に立って、のことだが、この問題にはまったく別次元の疑問点・問題点が存在する。それは公務員服務規律とか社会人としての節度とか、という観点とは別のマスコミ倫理上の視点である。仮にも記者を名乗る以上は絶対的な規範である新聞倫理綱領に照らした議論が、必ずしも的確・適切には行われないのは問題だ、と思うのだ。
テレビ朝日の幹部の“被害告発”記者会見でも、この問題点は一応言及されている。一部の新聞も、不徹底だがこの点に全然触れていないわけではない。ただこの“事件”を政争の具、倒閣の“武器”として使う野党議員は、新聞倫理綱領なんかアタマから無視している。テレビの“ニュース番組”も、あれは芸人が司会して芸能プロに自ら登録して随時ハケンされる“学者”や“識者”と称する軽量タレントがお囃子方を務める、時事バラエティに過ぎないから仕方がない面もあるが、オレたちはシンブン・リンリなんかとカンケイない、という顔をして一切触れていない。したがって世間一般の認識度も、ほとんどゼロに等しいままになっている。
しかし時事バラエティは娯楽ないしは年寄りのヒマ潰しにすぎないとしても、それを流すテレビ局は日本新聞協会に加盟している。それなら協会のルールを守る義務がある。
電波メディアのうち、NHKだけは当初から日本新聞協会に加盟していて、記者クラブにもプロデューサーはダメだが放送記者は加入を認められていた。中央省庁やその出先機関、各級の地方自治体、警察や裁判所、業界団体や場合によっては地元の大企業にも置かれている記者クラブは、すべて設置場所から部屋の提供を受けて日本新聞協会が設ける取材拠点かつ加入記者の親睦機関であり、協会加盟社の記者が自主的に運営・管理する、という仕組みになっている。加盟社以外はクラブ室に立ち入ることも、クラブが主宰する建前の記者会見に出席することもできない。
その一方、すべての記者クラブ員は、新聞協会が定める“新聞倫理綱領”を順守する義務がある。倫理綱領に違反する事実が発覚した場合は、個々の事件や発表事項に関して取材先と記者クラブの間でその都度取り決める“報道協定”に違反した場合と同様に、記者クラブ総会で処分が議題になり、社として、あるいは反則した記者個人に対して、除名から“登院停止”つまり期限つきのクラブ室出入り禁止・記者会見への出席禁止までの処分が科される、という決まりになっている。
録音や撮影はごく限定的
筆者が現役の新聞記者だった1953年から60年代の終わりに至る時期の大半は、民放は別途、民放連・日本民間放送連盟を構成していて、国会議事堂や総理官邸ではニュース映画会社とともに“映放クラブ“という独自の溜まり場を与えられ、撮影・録音が可能な記者会見も別途に行っていた。裏返しにいうと、日本新聞協会に加盟していない民放の記者は記者クラブに出入りできなかった。記者クラブ内は録音も撮影も原則禁止、新聞社やNHKのカメラマンも国会議事堂や総理官邸では記者とは別の部屋で待機し、記者クラブが認めたときだけ、記者会見のスチール写真に限って撮影を認められていた。
そのうち民放ラジオの報道記者は、録音機を持たず、仮に携帯していても絶対に使わないという条件で、記者クラブ室を利用し、記者会見にも出席できるようになった。遅れて民放テレビも、カメラや録音機を持たない記者に限って、記者会見を傍聴することくらいは構わない、ということになった。
当時は新聞の全盛期である。新聞はあくまで報道・言論機関だが、テレビはニュース部門があるとしても基本的には娯楽機関だ、と世間のだれもが思っていた。テレビ・ニュースは、映画館でお目当ての劇映画が終わって観客が入れ替わる合間に流されるニュース映画や文化映画のようなもの、というわけだ。実際に民放テレビ局は、新聞系列に沿って利権配分式に免許が割り当てられ、経営は新聞社からの天下りを中心に出版・広告業界出身者と地元経済人が当たっていた。娯楽面は全盛から衰退に向かいつつあった映画界から参入してきていたし、報道実務は系列新聞の管理職がキャリア遍歴の一つとして指揮・訓練に当たり、ニュース・キャスターには、筆者もその一人だが、現場経験を積んで論説委員になり、“新聞の顔“とされる朝刊一面の常設コラムを担当したヴェテラン記者が、こんどは“テレビの顔“となって天下りして、ウィークデイの連日、務めていた。
歌舞伎から旅回りの一座に及ぶ演劇界の体質・風習を伝える映画界と新聞界では、肌合いも慣習も気風・気質も、外部との付き合い方から内部の規律感覚も、まるで違う。現実に民放テレビ局内では新聞系と映画系で、摩擦も対立も主導権争いも起きた。そうした中で、民放もニュースに一定の比重を置くのなら報道部門は新聞と同様の権利・義務を持つべきだ、ということになり、彼らも民放連と別に日本新聞協会に加盟し、報道局員は記者クラブに加入して記者会見にも出席・発言できるようになったのだ。
問題となるのは3項と4項
新聞社を離れて半世紀の筆者の手元には、もはや新聞倫理綱領を冒頭に掲げた社員手帳はないが、おぼろげな記憶をたどると
① 報道はあくまで事実に依拠した公正・公平なものでなければならず、報道と解説・論評はその形式においても歴然と区別する
② 論評は相手の面前において語ることのできる範囲内に止めなければならない
③ 取材に際して不正な手段を用いてはならない
④ 記者として取材によって得た情報は自社の報道目的以外に使用してはならない
の4点だけが明記されていたように思う。新聞記者心得のイロハには、取材先から接待・供応や金品の提供を受けてはならないとか、記事に党派的観点や政治的主張、商業的宣伝や個人的利害を持ち込んではならないとか、といった点もあるが、それらは“倫理綱領”以前の常識であって、各社の新人記者教育のマターだ、ということだったのだろう。
この“綱領”は当然のこととして協会加盟の民放記者も拘束するわけだが、四つの禁止事項のうち、今回のテレビ朝日記者が問われるのは、3項と4項だ。しかしそれ以前に、この記者が過去1年半ほどの間に数回、取材目的で財務事務次官と二人きりで飲食店もしくは酒場で面談している点も問題だろう。
野党議員や時事バラエティの常連タレントには、“一介の若手記者が取材先の大幹部から個人的に会おうといわれたら行かないわけにはいかない”という向きがあるが、とんでもない話である。一定の下心がなければ、事務次官が記者を二人きりの飲食に誘うことなど、断じてありえない。
筆者は1960年代に厚生・文部・大蔵・法務の各省をそれぞれ長期間担当したが、当時は事務次官であれ局長・課長であれ、役所の執務室あるいは課長席で簡単に会えた。政治家と違って私宅を“夜討ち朝駆け”するとか、飲食を共にして“個別懇談”するとか、ということは1回もなかった。ただし、こうした個別面談は、記者クラブの会見を通じて互いにウマが合うと感じているとか、記者が大臣や政務次官と懇意でむしろ先方がいろいろ“取材”したがっているとか、という条件があれば、の話だ。そうした条件がない記者は、腕が悪い、あるいは“人間力”に欠けるのだから、会えなくてもやむをえまい。
夜の個別取材は政治家対象
昔といまでは事情が全然違う、というかもしれないが、まったく信用できない。古参の政治記者と新兵の社会部ではもちろん違うだろうが、テレビ主体のシロウト集団と化した記者クラブが、会見だ、ぶら下がりだ、とやたら集団取材を要求する昨今と違い、昔は記者と政治家や官僚との関係ははるかに濃かった。しかしそれでも、夜の個別取材は政治家を対象とする場合だけだった。
なにぶんにも派閥政治が料亭を舞台に全盛だった時代だ。政治記者は省庁はもちろん、政党つまり派閥担当としても1社1人の個人プレーで、自社の先輩・同僚より他社の担当を同じくする気の合う仲間と連れだって動く場合が多い。夜回りも夜の会合も、政治家や大臣との情報交換や、場合によっては派閥の多数派工作やブレーン活動に加わる場合も、数人単位か、運がよければサシか、になる。ときには記者と役人が別座敷に招集され、大臣が双方を掛け持ちすることはあったが、それでも三者が同席することはなかった。
税金からの政党交付金など、出ていない時代だ。費用は基本的に政治家が自身で集めた政治献金か、派閥に頼っていたのだろう。政治記者の仕事では秘書との親密な関係が重要だが、彼らとの会合は“オヤジ”行きつけの店を使うか、記者が“内職原稿”の稼ぎを充てるかで、筆者はもっぱら後者に頼った。
今回の場合、大昔の“ノーパンしゃぶしゃぶ”のように、ヤクニンが企業にツケ回しできる時代ではない。さりとて記者が取材費伝票を切って、社の企業交際費から落とせたケースだとも思えない。いまどき、そんなことは社も、社を管轄する税務署も、認めないはずだ。事務次官がポケット・マネーから出したのだろうが、言葉によるセクハラがエスカレートしていく過程で、内心迷惑千万と思いながらも、不自然な“独自取材”を経費先方持ちで重ねていたとしたら、そこにも問題がなかったとは到底いえまい。
情報の横流しはアウト
新聞倫理綱領に直接違反するポイントは、取材中に録った音声を『週刊新潮』に流した点だが、これは記者が“内職原稿”を書くこととは違って弁解の余地はない、と筆者は考える。一件が完全に終結し、ニュース報道に区切りがついたあとで、メモ帳にストックしてあった素材を雑誌原稿に使うのならともかく、まだ湯気が立っているホットな時点で、たとえ自社の上司がボツにすると判断したとしても、職務に基づき取材活動で得た情報やニュース素材を横流しするのは、完全にアウトだ、といわざるをえない。
“内職”に関しては、NHKを含むアナウンサーのイベントの司会や、いじましいところでは結婚式場と契約した挙式の司会から、記者の雑誌原稿の執筆や著書の刊行まで、多岐・多彩にわたっているが、社によってかなり内規というか、ルールが違う。
『朝日』は社会部系の扇谷正造・入江徳郎や、経済の土屋清ら、著名記者の全盛時代はまことに自由闊達だったが、本田勝一らの著作が物議を醸すようになってからは、一転して厳しくなったとされる。『毎日』は伝統的に大森実から徳岡孝夫まで、外信系が強かったし、『読売』『産経』は、小説家・詩人・ルポライターから、新聞倫理綱領に従ってナマものは扱わないが、記者としての専門領域中心の評論活動まで、オール・ジャンルで多彩な人材を生んだ。『産経』の同僚では、ともに早く亡くなったが、柴田穂の韓国ものや近藤紘一のベトナムものは、その代表格だ。
笑い話半分だが、給料が安い会社は内職に寛容だし、社員も頑張って“他流試合”に通用する人材が育つ。しかし給料や、まして地位が高くなると、社もうるさくなるし、社員も社内評価を意識して“内弁慶”化し、結果的に世間で通用する人材が育たなくなる、という説がある。人手不足と所得・消費拡大を両にらみした、社員の“副業容認”を勧めるムードがあるが、そう単純にうまくいかないということが、ここからもわかるだろう。
盗み撮りの逆利用を憂う
もう一つの今回の“事件”のポイントに、“被害者”のテレビ朝日記者が隠し持った録音機で“証拠”をとっていた、という点がある。筆者の現役記者時代の携帯型録音機は肩から吊るす重さ5キロほどの“デンスケ”、映像は撮影時に大きな音が出るフィルムを使うアイモだった。公開の場以外は使用禁止だし、そもそも隠しようがなかった。それが、テレビのニュース・キャスターをしていた1980年前後に一挙にエレクトロニクス化され、今世紀に入って超小型化が進んだ。いまはスマートフォンにさえ録音・動画撮影機能があり、盗聴・盗録・盗撮も自由自在だ。
今回どのような機器が使われたのか、明らかでないが、状況に照らして相手方の了承を得ていないのは確実だ。この点は政治の世界でもメディアの場でもまったく批判されずに見逃されているが、男女の私的交際の中で起きた場合でも穏当な話とはいえず、マナー違反を責められても弁解の余地がない。
まして仮にも“記者”の“取材中”の行為である。そこで録った音声を表沙汰にするのは、いかなる事情・経緯があるにせよ一種の闇討ちであって、明らかにアンフェアだ。麻生財務相が記者連中の前で、「事務次官の発言と称するものが一人歩きしているが、当夜の当事者の会話全体の流れはおろか、問題部分の前後の文脈もさえ明らかになっていなくては議論のしようがない。事務次官にも人権も反論権もある」といい、一方の当事者の雇用主のテレビ朝日をはじめとするマスコミや野党から総攻撃を受けたが、これには一理も二理もある。
かつて日本新聞協会に、そして記者クラブに民放テレビが出入りできなかったのは、デンスケのボタンを操作して記者会見はもちろん、ライバル他社の本社との連絡電話、クラブ員同士の打ち合わせなどを盗み録りする恐れがある、というのが大きな理由だった。民放が記者クラブに加入できるようになり、公式の記者会見で発表する机の上の代表マイクの横に新聞記者を含めて小型録音機を並べる姿が珍しくない昨今でも、政治家宅の夜回りや私的懇談の場での録音はタブーだろう。
まして無断の盗み録りが許されていい道理はない。こんな行為が社会的に非難されないなら、今後は政治家・官僚や企業人も、記者を厳しく選別するようになって、単独取材は困難になるだろう。やむなく応じた場合は、小型録音機で密かに自身の発言や相手との会話を録音し、“誤報の”是正要求や反論の根拠、報道被害に対する損害賠償訴訟や記者の言葉尻を捉えた出入り拒否、などに使うことは十分ありうる。そのとき批判・反対してももはや手遅れ、自業自得・因果応報だ。
(月刊『時評』2018年6月号掲載)