2024/11/01
今回の都知事選の特色はネットの異様な横行・跋扈にあった。候補者側の作為に対し若者中心に異様な反応が見られた。新メディアの登場は、ときに選挙を通じて政治の景色を一変させる。ラジオがヒトラーを生んだという例もある。
不法行為報道に手控えの印象
7月7日に行われた東京都知事選挙を当面の頂点として、このところ選挙戦に関わる不当な暴力行為、あるいは陰湿に計画された妨害行為が、主としてネットを舞台に頻発している。すでに現役の新聞記者活動を離れて半世紀を超え、フリーの立場で国内政治を専門に執筆活動を続けているとはいえ、90歳を遠く過ぎた身として選挙戦の実相を現場で見続けることは、もはや体力的に不可能だ。
したがって以下の事柄については、新聞記事とテレビの映像・記者レポートやコメンテーターの発言などを踏まえた、間接情報に依拠している点を冒頭に断っておかなければなるまいが、率直にいっていまの新聞・テレビの報道がこの不当・不法行為の実態を余すところなく的確に伝えているとは必ずしも思えない。不当・不法な選挙戦術の手法についてひと通り触れてはいるが、その意図の解明や、とりわけ少なからず生じたはずの実行に要した費用の追及には、掘り下げる以前に、どこか遠慮して手控えた印象が強く残る。
また、そうした不当・不法行為が今後の選挙や、ひいては今後の日本の政治全般に及ぼしかねない影響についての、内外の歴史を踏まえた考察にも、作為的なのか、単なる不勉強・知識不足のなすところなのか、いずれにしても、まったく欠けているといわざるをえない感が深い。そこで今回はこうした諸点について、整理して考えておくことにしたい。
始まりは東京第15区衆院補欠選
一連の問題行為の始まりは、都知事選に先立って4月に行われた、東京第15区の衆議院議員の補欠選挙だった。攻撃の〝被害者〟になったのは、補欠選挙の原因をつくって辞職を余儀なくされた議員が属していた自民党の候補者ではなかったようで、結果的に当選して自民党から議席を奪った国政野党第1党の立憲民主党候補、日本維新の会の候補、参政党の候補、無所属候補と、あちこちに散らばっていた。とりわけ目立ったのは、改選を控えた小池都知事が推す、高度の肢体不自由者として著作などで知名度の高い、無所属候補だった。
問題行為は、目をつけた候補の街頭演説の場に仲間が大勢で押しかけて、集団的なヤジや、相手方の主張・政策に対する質問、あるいは反論と称するものを、強出力のスピーカーから大音量で流して徹底的に妨害する。あるいは相手方が選挙運動の一環として法律で認められている街宣車、すなわち大型スピーカーをつけた宣伝仕様のクルマが候補者名を連呼して選挙区の街路を流すのを、自分たちの街宣車や一般車両を動員しびっちり追尾して運行を妨害したり、横道に逸れて難を避けようとすれば執拗に追い回したりする手法が中心になっていた。
いかにも乱暴な手法だが、現行の公職選挙法は日本敗戦―アメリカ軍による占領支配のもと、いまや完全に死語になった〝婦人参政権の導入〟つまり女性に選挙権・被選挙権を与えることを〝目玉〟として、いままでの日本の権力機構が取っていた諸政治制度は軍部独裁の根源であり、日本は民主主義の荒れ地だったのだから、国を再建するためには〝開かれた選挙制度〟、つまり性善説が前提の自由で緩やかな運動を基礎にしなければならない、というドグマの上に成立している。マッカーサー司令部の示した原案に沿って生まれた憲法の〝言論・表現の自由〟〝政治活動の自由〟という原則に、最大限、留意しなければならないのだ。
そうした条件を最大限に〝活用〟した新興勢力の〝つばさの党〟が、街頭活動をめぐる騒動の中心的存在とほぼ判明していたが、不当・不適切な行為を連発している集団の組織名が明らかになったのならなんとか対応すべきだ、とだれもが思うとしても、法律に〝けしからん罪〟という罪名はない。なんとかするにしても、どうするかが問題だ。
知事の訴求が当局の対応に影響?
そこで当初は、道路交通法の危険運転で対処できないか、と考えたようだが、これでは行政罰にしか問いようがなく、それで世間の納得が得られるとは必ずしも思えない。東京都の迷惑防止条例の適用も考えられたが、それでは迷惑行為を働いた本人以外は処罰対象にならない。これらの運用で対処するとすれば、その責任も処罰権限も警視庁・東京都にあることは明らかなのだが、改選を控えた小池知事としては、この問題の扱いはデリケートで容易ではないと思ったのだろう。内々に政府筋や公安当局と打ち合わせたに違いないが、それらを反映して最初は当事者として混乱現場にいた衆院補選の候補者でもある〝つばさの党〟の幹事長や妨害自動車の運転手を交通法規による取り調べの対象にした。
しかしそれだけでは事態の収拾もできないし、世間の納得も得られない。衆院補選が終わって選挙への干渉・弾圧といわれる余地がなくなったのがブレーキ解除の条件になったのだろうが、事態は都条例、さらに公職選挙法が定める選挙の自由妨害罪の適用に進み、逮捕者も〝つばさの党〟代表を加えた3幹部に成った。さらに一回の逮捕ですべての容疑内容を解明処理するには取り調べの日数が足りないと考えたのか、不法行為を個々にとりあげて精査する手法で、逮捕の回を重ねた。
6月に入って都知事選挙戦が始まり、〝つばさの党〟代表も拘置所の中から立候補する形になって、周囲もよりエキサイトしたのだろう。選挙戦の早い段階で、3選を期して立候補した小池知事の街頭演説会場で、それまでの規模を超えた大きな集団妨害行為が起きたという。選挙中ということでもあり、新聞やとりわけテレビの〝映像報道〟が抑制気味になる中で、いままでは反応を抑えていた小池知事が、記者会見などの場で繰り返し集団暴力が余りにもひどいと訴えたのが、当局の対応に一定の影響を及ぼしたと見ても、あながちうがちすぎとはいえまい。
掲示板の一列を占拠
都知事選の運動期間に入ってから目立ってきたのは別の手段、そして別の騒動グループだ。選挙公営の見地から町の各所に設けられている選挙ポスターの公営掲示板に、大量に候補者を立てて獲得した大量の掲示枠に、選挙とも都政ともなんの関係もない、一様のポスターを張りまくる党が出現した。いままでも似たような例がなかったわけではないが、せいぜい2枠か3枠だったが、今回は最大24枠。こうしたケースは前例がない。
今回の都知事選には、前代未聞の56人という大量の立候補者が出たが、このうち24人が〝NHKから国民を守る党〟なる、ここ10年ほど毎度さまざまな選挙に複数の候補者を立ててきた党だった。それにしてもただ1人を選ぶ首長選挙に24人を立てるという発想は奇想天外だが、その候補者の一つの絵柄のポスターが固まって掲示板の一角、あるいは一列を占拠したのには、驚かされた。
あの枠は、立候補届け出を受け付けた順に機械的に割り当てられるわけではない。乱数表式に番号が振り分けられた枠に、届け出順につけられる番号に沿って張り出す決まりになっている。よほどの偶然が働いたのか。枠の位置があらかじめわかっていて、そこに自党の候補者がはめ込まれるように届け出順を調整したのか。仮にそうだとしても、同時刻に届け出た立候補者の枠はそれぞれ抽選で決まっていったはずだから、よほどの運に恵まれていたのか、と思うほかない。
この党は最低5000円以上の寄付をした相手に、立候補していなくても、公営選挙掲示板の所定の枠に自由にポスターを張る〝権利〟を売っていたといわれている。同様の手法を使った別の団体がまったくなかったともいえないから、この党の販売枠だったとはいいきれないが、ドラエモンなどのマンガの登場キャラクターだけを描いたもの、ほぼ全裸の若い女性が写る意図不明のポスター、こともあろうに風俗営業の広告ポスターまでが張られていた掲示板もあったという。
新しい仕組みがもたらした異常現象
選挙には売名、自己商品の宣伝のために、ほとんど習慣的に立候補する人間が昔からいるもので、彼らを抑制する手法の一つとして、そこそこの負担金額になると思われる供託金なるものを、届け出の際に納付することが決められている。選挙の結果有効投票総数の一割以上が獲得できていれば還付されるが、それ以下なら没収される決まりになっている。今回の都知事選ではその額は300万円だったが、それを当初からコストに織り込み、掲示板の利用からさまざまな形のテレビ映像の利用までを考えて選挙戦に臨む計画を立て、それに基づきあらかじめ想定していた対象に向けた営業活動をして、それなりの〝成績〟をあげた、と取材に答えた〝業者〟がいた、という新聞記事もあった。
やはり選挙公営の一環であるNHKのラジオやテレビの政見放送で、制度が始まって間もない、まだアメリカ軍の占領統治下にあった時代に、自分の店の駄菓子の商品名をひたすら連呼し続ける、参議院全国区の候補者が現れ、問題になって商品の宣伝に選挙の公営放送を利用することが禁止された。しかし憲法が定める言論・表現の自由、政治運動・選挙運動の自由の原則の範囲は容易なことでは決めきれず、今回もテレビでの発言機会や映像を選挙以外の目的で利用した〝候補者〟が散見される一方で、意味のない音声を際限なく発し続ける候補者も出たという。
彼らの〝奇行〟の目的が、もっぱら売名や宣伝だったというのは昔の話。自分の極めて奇矯な、特異な政治的主張を、選挙の場を利用して広く天下に訴えようというのも、建前としてはいまも唱えられているが、現実には選挙が意図的なカネ儲けの手段になっている面も少なくないといわれる。それはネットというニューメディアが生み出したネット社会ともいうべき新しい仕組みがもたらした、異常現象というほかないようだ。
デマやフェイクが歓迎される感触
筆者のようにデジタル機器はワープロ、電話は固定電話からせいぜいガラケーどまり、という老人には理解不能の世界だが、無線通信とコンピュータという20世紀に人類が獲得した新技術が、それぞれ極限まで発展し、しかも個人が自由に所有し操作できる規模に小型化したうえに、その中で開発されたそれぞれの機能が無限の組み合わせによってさまざまな表現・伝達を可能にした。その結果いまの時代には、一定の知識と技能を持つ一般の人々が、世界に向けて開かれたテレビ放送局と、そのための映像・音声の編集室及び膨大な資料室を、各個人ごとに、意欲と少額の元手さえあれば複数でも、持てるようになった。しかもそれが、単にコミュニケーション手段として使われるだけでなく、商業利用というか、少なくとも内職レベルの収入源としては役に立つ存在になったようなのである。
そうしたものに日夜浸りきっている人たちが扱う〝情報〟は、なにも政治・経済・社会などに限らない。日常雑事でも私憤のぶちまけでも、なんの制約・制限もない。むしろ珍奇な映像やいかがわしい世俗情報、風聞やデマか、意図的なフェイク情報か、分からないものも多く、そちらのほうがむしろ歓迎・珍重されているという感触がある。
世界には一定の会費だか低額の利用料を払えば、送信も受信も転信も感想の付言も勝手放題の、勧進元というか仕切り屋というか、ショバ貸しのような存在が、大手だけで4つも5つもあるらしく、かなり多くの特に若者が、いまではスマホでも送受信ができるようになっているそうだから、四六時中肌身離さず、持ち歩き視聴をしているらしい。送信されている映像には広告がついている場合があり、当然一定の契約手続きを要するのだろうが、自分の〝発信〟に受信する〝客〟がつけば、スポンサーから一定の料金がショバ貸しを通じて支払われるという仕組みになっているらしい。どうせ低額に決まっているが、チリも積もれば山となる、時と場合とネタと運によっては、結構な稼ぎになることもあるようだ。前述の選挙の公営掲示板の〝枠の転貸し〟もその一例といえるのだろうが、そうしたネタは選挙など一定の社会的関心を集める〝行事〟の場合にはかなりたくさん見つかるようで、このネットの仕組みの商策的利用の広がりが選挙の様相を一変させたのが、今回の都知事選、ということになるのだろう。
ネット選挙の手法が一気に拡大
選挙というものは、制度の変化とマスコミ状況によって大きく変わる。それに応じて政治状況も、政治の構造も、すぐには変わらないとしても一定の影響を受けることは免れない。敗戦直後の占領軍の指示による2度の超大選挙区制のときは、初めての女性立候補の出現や婦人の投票権行使という事情も手伝って、極端な候補者乱立と無秩序な乱戦に終始し、弱小多党連立の片山哲・社会党首班政権という、マンガのような政権が生まれた。その混乱収集後、しばらく続いた保守・社民各2党と共産党を主役とする中選挙区時代は、NHKラジオの各党の代表的論客による時間をかけた論戦と、各選挙区の小学校の講堂などを主体に地域を網羅的に設営された全候補者による立会演説会と、その当日その会場周辺で個々に開く個人演説会が中心になり、多くの有権者が晩めし後の寄席巡り的な散歩と冷やかし気分半々で出掛けたものだ。
テレビが公営で各党の政策演説と各候補者の政見放送をするようになって、選挙の華というべき存在だった2種の演説会は消えてなくなり、小選挙区制の導入とともに選挙はお祭り気分から無味乾燥な地域社会の事務手続きに格を落とし、地域社会・町内会の形骸化とともに、ますますその感を深めている。
そこに新しく加わったのがネット選挙のあれこれの手練手管で、当初は候補者の一部が規制の緩い、というか規制の手が届いていないネットをテキトーに利用している感じだったが、今回の都知事選に及んで一挙に普及・拡大・進化したように思われる。例えばテレビのニュース映像から切り取った街頭の選挙集会の混乱状況や自分の颯爽とした演説姿を短く編集し、ネット・ニュースの項目検索から抜き出すことができる自分の個人情報にリンクさせ、詳しくはこちらを、といってそこから自分のユーチューブに誘導する、といった手法が都知事選では使われたという。
注目は集めたが問題以前
その代表格が、チャレンジャーなど無視して自分の実績を誇示し、高い知名度を決め手に押し通すという伝統的な横綱相撲で圧勝して3選された小池百合子候補に次ぐ、2位になった石丸伸二候補。広島県の小都市の市長を任期途中に辞職して都知事選に挑んだ41歳。地元の非進学高から初めて京都大学に進んで大手銀行に勤め、金融・経営コンサルタント業を経て若手市長となった人物だが、東京ではまったく無名。京大―大手銀行といっても、地方ならいざ知らず、30代半ばで転職していてはぺーぺー扱いで、注目候補扱いされていなかったのはむしろ当然だろう。
それが、市長時代の市議会の議場で、壇上からうんと年上の議員相手に〝政治屋は出ていけ〟、居眠り議員に対しては〝恥を知れ〟と大声で叱りつけていたローカル・テレビの映像が、選挙地の東京の系列元のテレビに紹介の一端として使われたのを切り取って、SNSのニュースから自ら発信するネットに転用。それがヒマがあればネットを渡り歩いてオモロイ発信を拾い集め、全国の同好の士と〝特ダネ〟情報を交換しているマニアの目に止まり、転写に次ぐ転写で一気に若者中心に石丸の名を伴って拡散。それが新聞・テレビのニュースでも改めて取り上げられるようになり、一気に知名度・注目度をあげた。
本筋の政治的主張でも見れば、激語を連ねていまの日本の政治、政治家を攻撃してはいるが、内容的にはシロウトのレベルから大きく出るものではない。とりわけ都知事選なら当然中心の論争点でなければならない東京都政について、東京中心主義を批判して地方分散を主張するという、異色といえば異色だが都民の有権者にはウケるわけのない論点を、しかも抽象的にぶったという印象以外には残さなかった点も、問題以前だった。
ただし選挙戦前には、小池との一騎討ちの〝女の戦い〟になるととりわけテレビが〝絵づら〟上の視聴率稼ぎ的思惑も含めて期待していた立憲民主党の参議院議員を辞職して挑戦したレンホーが、石丸より激しい自民党攻撃一点張り、都政のトの字もないエンゼツに終始した。さらに、他の野党仲間との共闘路線を捨て、労組の連合が反対するに決まっているのも無視して共産党とだけ組む〝立憲共産党路線〟という禁じ手に走った結果、街頭集会などではもともと非力の立民側の動員はまったく目立たず、共産党側の動員応援団が振る赤旗だけがやたら目につくという体たらくで浮動票にもソッポを向かれ、かなり差が開いた3位に沈没した。おかげで2位とはいえ落選・敗北の石丸の、思い切った選挙戦術がことさらにマスコミにとりあげられ、実力以上の評価を印象づけたという面も、見落とすわけにはいくまい。
聴き手である大衆にも問題
それにしても、メディアに画期的な新技術や新方式が現れたとき、画期的なものであればあるほど、その扱いに先んじて慣熟したものが、他との競争のうえで圧倒的に有利になることは、改めていうまでもない。これは直接かかわっているジャーナリズムの世界に限ったことではなく、政治・経済・社会・文化など、あらゆる分野で共通した事柄なのだろうが、政治の世界はそれらの中でもメディアの利用術の巧拙が大きく影響する分野といえるだろう。
ラジオがヒトラー、ムッソリーニに天下を取らせた、という議論がある。無線通信の技術は第1次世界大戦がはじまった1914年当時はまだトン・ツーの音を使って決まりにしたがって情報を伝え、それを文字に置き換えて読み進む段階だったが、大戦中には著しい技術進歩を遂げ、単に音を音としてそのまま伝えるだけでなく、世の中に溢れる音をそのまま伝えることができるように、そしてそれを軍事上の特殊技術として機密に使うところから一般人でも機器を入手して利用できる就業技術にするところまで、急発展した。大戦に破れ、荒廃した国土に巨額の戦時賠償の支払いを抱えたドイツの、高邁な理想論は唱えるが経済再建をはじめ実務に暗いワイマール政権下の閉塞状況の中で、大戦後に出現してたちまち世間に普及したラジオから流れる単純明快なヒトラーのアジ演説が大衆に及ぼす影響は、極めて大きかった。演説に先だって流されるナチ党歌ホルスト・ヴェッセル・リートは、追随者イタリアのムッソリーニのファシスト党歌ジョヴィネッツァと並んで、中音域だけを使った粗末なラジオの音声にもぴったりと響く勇壮なマーチソングで、民衆の共感を沸き立たせ、高揚感に酔わせる効果が高かった。
そうした、いまふうにいえばテーマ音楽を使って聴取者を引き付けたところに、短いセンテンスで構成された絶叫調の演説があげた効果は、それまでの広場や大会場での、しかも拡声装置もなかったころの獅子吼などには到底望めない、強烈な政治的宣伝扇動力を発揮したに違いない。
もちろん、その反面には聴き手である大衆の側の問題もある。いかに当世風にいえばハード・ソフトの両面に新奇な工夫をこらしたアプローチで政治家なり政党なり政治運動団体側がチエを絞って迫ってこようと、冷静に受け止めて軽々には動かないという状況を聴き手民衆が考えていたら、ヒトラー、ムッソリーニといえども、あれほど簡単に権力を手中にすることはできなかったろう。第1次と第2次の大戦の間、戦間期と呼ばれる20年ほどのヨーロッパの、ロシア革命を頂点とする混乱がなければ、あのような人心の変化・激発はなかったろう。その点、いまの日本は大丈夫なようにも思えるが、さて、どんなものか。老人の取り越し苦労ならいいのだが。
(月刊『時評』2024年10月号掲載)