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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第151回】

ハラハラ時代を齎したもの

いまの世の中、セクハラだ、パワハラだ、カスハラだと、なにかといえばハラスメント呼ばわりが横行している。互いに相手をハラスメントの仕掛け人呼ばわりしている。
これは大昔、左翼かぶれがやたらやっていた、お山の大将われ一人、独善主義のレッテル張り合戦の復活ではないのか。

現在は6つ目の区切りの半ば

 いまの世の中、どう表現すれば簡略・適切に時代相を説明できるか。この問いにマトモに応えるとすれば、こうなるだろう。

 1945年の敗戦で新規まき直しになった日本は、その後15年をひと区切りに過去を5つに区分する形で出直して、いま6つ目の区切りの半ばにいる、と時代相を細分する。最初のひと区切りを〝疾風怒涛〟の混迷を乗りきった国家再生のスタート期。次に〝60年安保騒動〟を区切りとして地道に工業生産と国土整備を進めようとする保守現実派と、米ソ対立と共産中国の台頭を背景に革命を指向する左翼観念派が登場し、前者が圧倒的に国民の支持を獲得。ごく一部の例外を除き、ほぼ挙国一致で経済成長を国家目標として確立させた時期。その次の第3巡目は、高度経済成長の達成期。さらにその次の昭和末期から平成初期までのバブル期。そして〝失われた30年〟の平成を中心に、無為徒然で高度成長の遺産を食い潰してきた第5巡目。

 こう総括すると、6巡目に入ってすでに2割以上を過ぎた現在は、幸いなことに総じて安穏に推移しているとはいえ、過去の経済大国時代の蓄積をほぼ食い潰した状態から、中級の成熟国家として一定の特色を持った強い存在感を改めて世界に問うべく、今後の30年から50年を具体的に進むべき軌道をしっかり見定める重要な時期にある、というべきだろう。

 それなのになんの因果か、この3年近くを不勉強・無定見・無策無能が当初から目に見えていた、政治家稼業3代目の浪人常習・脳天気首相のもとで、行くべき前途をまったく見出せない夢遊・迷走状態を続けてきた。首相が四面楚歌に陥ってようやく政局転換の兆しが見えてきたものの、愚鈍なのに限って地位にしがみつき粘り続けるという世間相場通り、行く末はまだ五里霧中。先が見えないまま無為の政治が漫然と続くという、まことに情けなく嘆かわしい状況にある。

ハラハラも一様ではなく

 とはいえ、毎度似たような繰り言を重ねても芸がないから、ここは気分を変えて政治から目を転じて市井の様相を眺めてみるとすると、このところ〝ハラハラ時代〟ともいうべき風潮がひときわ目立つように思われる。そこで今回はこの世相について考えようと思うが、ハラハラといっても一様ではない。ハラハラ ワクワク ドキドキ といった状態もあれば、ハラハラ ソワソワ ビクビク という心境もある。そこをさらに突き越えて ハラハラ ヒヤヒヤ ブルブル の状況に追い込まれることもある。しかし、ここで取り上げようというのは、そうした類いのハラハラではない。セクハラに始まってパワハラで爆発的に流行化しただけでなく、このところカスハラなる新顔が登場し、その対象になりがちな業界ばかりではなく、政治的・政策的には超無能なくせにテレビ的流行現象には妙に機敏に反応するキシダまでが、自分も政治の消費者・カスタマーであるマスコミ主導の世論のゆえなき攻撃のカスハラ被害者だという感情に駆られたためか、公的に防止策に取り組もうとしている、ハラハラの話だ。

 この、手当たり構わずハラスメント呼ばわりをすることによって相手を批判・非難し、排除・抹殺しようとする一種の社会的・集団的病理現象を先取りして総括すれば、習近平に体現される党と政府と軍を一手に強権支配する独裁者。プーチンのように軍や地方政府までは怪しいとしても、党中枢と中央政府の統制は一応確保して近隣諸国に支配力を広げようとする野望家。彼らから経済的・軍事的支援を受けつつ、そのエピゴーネンとして小規模ながらも地域的独裁体制の確立を狙う、グローバル・サウスと総称される低開発地域に多い野心家たちによる暴力支配連合。そうした一元的な強権支配国の集団と、政治的には民主主義・経済的には自由競争経済という対立的な価値観に依拠するG7先進国とその影響下にある諸国。この二つの流れの中で自由民主諸国の一隅にいながら、かつての米ソ東西冷戦構造を再現する流れの伏流として、古臭いマルクス・エンゲルス・レーニン・スターリンの思想体系に凝り固まって統一された価値観の社会で主役を担うことへの郷愁を忘れられず、これまたカビの生えた古物ながら、キリスト教プロテスタント派のピューリタン式一元的思考洋式を意識的・意図的な差別あるいは選別の基準として使い、マスコミに乗って新登場してきた社会的風潮、と定義するのが的確なのではないか。

セの字も話題にならず

 話題を柔らかくするつもりが逆にややこしい感じになってしまったが、砕いていえば、こういうことだ。かつて男女の役割は、その時代の生活の実態に応じて大まかに、しかしはっきり分けられていた。それが手工業・商業、さらに細かく厳密な帳簿管理や労務管理などが求められる近代経営の浸透の度合いに応じて、役所やビジネス社会にも女性の進出が目立つようになった。ことに戦時下の日本では若年男性社員が兵役に就かざるをえないのに対応するため、家庭に止まっていわゆる花嫁修業をしていた若い女性を勤労動員令によって強制的に職域に出すようになり、コネがあればそれなりの無難な勤め先に避難する手がないものでもなかったとしても、戦局の悪化につれて多くの若い女性が、運が悪いと地元役場の指定したきつい労働条件の場での重労働を強いられることも少なくなかった。しかしその時代でも、自然な成り行きとしての職場恋愛や職場結婚はありえても、セクハラのセの字も話題になることはなかった。

 ついでに触れるが、ほぼ同時期に旧制高校をはじめ高専や大学予科の学生が、それまで長く続いた徴兵年齢を20歳から18歳に引き下げられ、訓練もそこそこに戦地に投入された。これを学徒動員と呼ぶが、それとともに当時の中学の高学年生、といってもすでに本来の5年制から4年制に短縮・変更されていたから3年生以上ということになるが、彼らも一時学業を中断させて工場での作業や農業手伝いに動員された。これは学徒動員とは区別して、勤労動員と呼ばれた。

 戦時下の苦難の銃後生活を扱った一部の書籍で、若い女性の勤労動員を含むすべての非常動員措置の対象を〝挺身隊〟と書く例が少なくないが、一部の地方役場や学校教員に時局に便乗して特に勤労動員女性に対してことさらにこういう呼称を使いたがったり、彼女らの働き先の門標に大書したりした手合いもいたに違いないだろうが、挺身隊は正式な名称でもなんでもない。戦時下の青少年を取り上げた著作、とりわけ実務を直接体験していなかった若い〝学者〟や、それを鵜呑みにした左翼ライターの記述には、軽率な間違いから彼ら一流の意図的から誤用まで、不正確な表現が多いことは承知しておいていい。

 敗戦後の日本には女性の職場進出が一層増え、学制の新制移行後は高等教育を受けた女性の幹部候補採用も珍しくなくなった。1960年代には〝ウーマンリブ〟運動が世界を席巻したが、そのときでもセクハラもパワハラもまったく話題にならなかった。高度成長期に入って職場にさまざまな用途の電子機器が大量に持ち込まれるようになり、そのオペレーターとして訓練を受けた若い女性が大量に進出してきたときも、男女機会均等論がやかましく問われるようになったときも、女性のポスト起用が同期の男性にくらべて遅かったり低かったりするのは女性蔑視の現れだ、という調子の議論はしばしば出ていたが、セクハラという形で〝性〟を剥き出しに対象にした議論はなかったように思う。

背景には時代の流行思想

 そのセクハラがいまごろ世界的に問題化している背景には、最近俄に時代の流行思想になったジェンダー論があるだろう。ジェンダー論といい、男女の機械的平等論・処遇均等論といい、これもアメリカ起源のプロテスタント(プロテスタントには語源的に常習的抗議申し立て者の意味がある)系の、当世風にいえばインフルエンサーが、ネット中心に広く流布した説というべく、いまやだれからも相手にされず影響力を失ったマルクス・スターリン式の思考方式を下敷きにした、善悪二元論を振りかざして対立者(と彼らが敵視する存在)を抹殺しようとする、手垢にまみれた手口に過ぎないが、最新輸入の舶来モノに飛びつくのがテレビ主導の幼稚なイマドキ・マスコミの病弊だ。反射的に広がったのは、それなりにやむをえまい。

 しかし日本では古来職域での男女の混在・共同作業はごく普通の姿にすぎない。その中でそれなりの役割分担もあれば人間模様も現れたに決まっているが、それがことさら問題にされるようなことはなかった。なにしろ宮廷・武家社会・庶民層はきっちりと身分わけされていて、階層ごとに親しむ文化も違う。音楽・芸能では、雅楽・能・歌舞伎や落語や三業界中心の粋な音曲。文学面では、女流主体の物語や日記もの、サムライが親しむ軍記ものや随筆の類い、町人文化を象徴する西鶴に象徴される色草紙や読み本、というふうに格式社会と庶民社会、それぞれの中でも男性仕様と女性向けの棲み分けが、三者三様にごく自然に成立していた。

 その中には1200年も昔の女官たちの読み物で、雨の夜に皇室に勤める仲間が集まってヒマ潰しに、日ごろ身近な存在であるあちこちの皇子・王子連中の〝品定め〟に興じる様子を露骨に描いた、逆セクハラともいうべき不敵極まる叙述もあり、庶民階層にも大いに読まれたものだ。イマドキの国営テレビがそれを娯楽連続ドラマのネタにして、だれもが驚きも呆れもしないという、セックスに抵抗感のない国民性なのだ。これではなかなかセクハラの話などにはならないのではないか。

 ただ前述した通り、欧米の最新流行思想とあれば、テレビやそこに巣くう低俗ブンカ人などは、放っておけない。もともと視聴率いのちの世界だが、このところネタ枯れもいいところまで切羽詰まっていて、バラエティはもちろん、〝脳化学や医学の最新学説〟を取り上げたというフレコミの情報番組まで、やたらシモネタに傾斜している。そうしたテレビが茶の間に持ち込む印象も作用して、セクハラ・パワハラ・カスハラをはじめとするありとあらゆるハラスメント性の現象が、論じ手の都合のいいように、気軽かつ安直に扱われてきたのだ。

能力無視の男女比優先論は愚挙

 その一例として、またしても政治の話題になるのを勘弁してほしいが、日本の場合、村から国までの各級議員の中で女性の占める比率がG7各国にくらべて極端に低い、という点が、ことさらに固有のセクハラ事情、あるいは女性蔑視風潮の証明として、取り上げられることが少なくない。同様のことはビジネスの分野でも、経営者、高級管理職の中に占める女性の比率が極めて低い、というデータを根拠に、しばしば流されている。

 しかし、それぞれの数字に偽りはないとしても、選挙というものは国会にしろ村議会にしろ、自分の意思で立候補するものだし、所定の供託金がなければ届け出もできないし、それなりの組織というか支援態勢がなければまるで話にならない。世の中には自己顕示欲だけで当選を度外視して立つのもいるし、最近ではネットに自分のアカウントを持ってそこにアプローチされた回数に応じて一定の広告料を稼ぐという、筆者などにはまったく理解不能の仕組みがあるらしく、そこに興味を引くネタを掲載して選挙の最低限の必要経費以上の水揚げを確保すれば、差し引きなにがしかのトクになると計算して、その目的で立候補する手合いまでいるという。こういうクチはたいてい男性で、中には欲張り爺いに名前を使われた女性がいた可能性はあるとしても、そんなものが選挙の評価にも、ましてセクハラだ、女性蔑視だ、という話にも、なるわけがない。現に東京都知事の〝七夕選挙〟にしても、56人が立候補したというが、実質的には2人の女性候補の一騎打ちだったのだし、およそこの手の議論に意味はない。

 女性の企業の経営幹部や管理職の登用にしても、あくまで本人の力量次第だ。議員選挙でときどき現れる、選挙の当落は選挙民の人口比に会わせてその代表である議員数も調整すべきだという議論があるが、民主主義の基礎基本を全く無視してジェンダー平等をその上に置こうという話であって、論外というほかない。それと同列で、職場の職制を働く男女の数に比例して割り当てるべきだという論法もあるが、これも机上の空論に過ぎない。

 企業のポストにしても男女を問わずそのポストと本人の適性との関係もありうるし、なによりも基本的な能力の問題がある。無能な管理職を男女比だけを優先させて決め、社内統治や社業の成績にマイナスが及べば、本末転倒の愚案・愚挙というほかない。

幹部社員候補育成のために

 それにこれはパワハラにも通ずることになるが、幹部社員候補の育成は社の将来がかかる問題だから、そう簡単な話ではない。70年も昔のことになった筆者の新入社員時代だけでなく、30年前の息子の新人時代でも、新入社員は大学卒でもはじめから幹部候補生とその他の一般組に区分され、社員番号にも社員研修にも勤務割りにも、はっきり差がついていた。一般組は当初から普通の先輩一般社員と同様の勤務割で、勤務時間も休日もフツーに定められているが、幹部候補組は一般組の研修を並んで受けたあと、夜に別の場所に集められて厳しい研修・訓練を受けた。

 筆者たちの場合は、なにぶんにも新聞記者の新兵教育だから、全員が志望にかかわらず社会部に集められ、2か月ほどは日曜・休日もなく、連日9時から23時までの勤務。夜は2人ほどに分かれて1人のベテランの先輩につき、彼の持ち場で実地訓練兼取材手伝いをした。新兵に最も重要なのはコロシや突発事故の被害者の顔写真とりだ。当時は警察が用意して発表のとき事案の基礎データとともに記者クラブで配布する、などという〝ご親切〟なサービスなんかない。記者がそれぞれの遺族や知人の所在を調べて個別に訪ね、事情を説明して葬儀用の大きな額入りにして返却する、といって借りてくるのだが、それがもっぱら各社の新兵の競争だった。交通事故やコロシの場合など、サツから被害者宅に知らせが届く前に、記者の方が先行してしまうことも少なくない。そういうとき適切な対応をとるのも記者訓練の重要な一環だった。

体力・気力なきものは脱落

 週に1回の泊まり勤務の明けの日だけは、なにもなければ18時に退勤できる。しかし持ち場にコロシが起きたり、まして大きな事故でもあれば、連日の24時間勤務も珍しくない。それに耐える体力・気力のないものは、はじめから無理とされて免除されている女性と同様に、社会部・政治部・外信部を除く学芸畑や調査・資料整理・校閲などの体力的にラクな勤務先を指定され、脱落していくことになる。労働基準法や社の規則で保障された勤務条件など、はじめから論外。筆者の新人時代は現場保存の意識も徹底していなかったし、被害者やとりわけその家族への当局の配慮も欠けていた。なにぶんにも空襲の焼死体の始末から、闇屋やヤクザの抗争の現場まで、普通の市民も日常的に接することが少なくなかった時代だから、刑事や警察の監察員が死体を検証するのを横目で見て取材するのは日常茶飯事。そうして〝適性〟を確認されたものだけが幹部要員として生き残り、世界各地の戦争への特派員をはじめ、大災害の現地や当時は珍しくなかった暴力を伴う大規模労働争議、党派抗争など、危険・長時間労働は当然先刻承知のきつい仕事につき、毎日が成績評価に晒されたものだ。

 それに合格した者だけが、実績と本人の希望に応じ、デスクから各部長・編集局長、場合によっては総務や労務・経理部門の管理・監督者から社全体の経営幹部、運がよければ社長にもなり得るラインに起用される。それとは別に、数年に一人とごく少数だが、本人の熱意と、厳しい訓練と実績評価を経て、記者から一足飛びに編集幹部の指揮を離れた役員直属の立場になって、コラムニストや論説委員などの〝生涯記者〟に抜擢されたものだ。

不可欠な鍛錬過程

 その過程には、いまどきのパワハラなどとはくらべものにならない強引な指導も、任務の強制も日常茶飯にあったが、それは記者として、あるいは中央官庁・大企業でも組織の根幹を担うべき幹部を選抜するためには不可欠の、錬成過程だった。それに耐えられなければ、あるいは成績が組織の期待にそぐわなければ、脱落するか、排除されるしか道はない。だれも面倒なんか見ても聞いてもくれないし、引き留めてもくれない。そうした道を自らの意思と信念のもとに歩き続けられたものだけが、適者として生き残って一人前に扱われるのが実社会だった。

 筆者はいまもそれがハラスメントに満ちた不条理極まるものだとは、いささかも思わない。そもそも〝道〟という日本語が持つ独特の含蓄の中に、そのすべてがある。世界の言語には、レイバー・ワーク・プロフェッション、あるいはアルバイト・ヴェルク・ベルーフという区別が、厳然として存在する。日本語ではその区別が曖昧だが、一般的には単純労働・労務職、仕事・勤務員、そして天職・使命職というふうに区別され、理解されているが、その英語なりドイツ語なりの持つ一定の含蓄なりニュアンスが、必ずしも正しいかどうかは、考える余地がある。

ハラハラ合戦も一時期の小波乱

 日本人が伝統的に理解してきた、たとえ単純な肉体的作業の際限ない連続に過ぎないレイバー、アルバイトでも、それを重ね続けることが人々の利便に繋がり、なによりも己れを磨くことに結びつくならば、それは〝道〟の無限の追求として、プロフェッションやベルーフといささかも変わりない、このうえない天職になりうる、という信条がある。欧米流の奇麗に理屈を立てて切り分けたものごとの説明ぶりにも、当然のこととしてそれなりの説得力があるが、しかし日本流の筋が通っているようで、無理筋のようで、もうひとつ理屈で割り切れない感じもするが、感覚的になんとなく、なるほど、とうなずかざるをえない側面が残る職場感覚や日常習慣には、つい見落としていたものが思いがけず目前に突然現れたような、意外さを伴う落ち着きのよさがあるのだ。

 セクハラ・パワハラ、そしてカスハラ以下の無数に及ぶ〝ハラハラ合戦〟から受ける、なんとなくもう一つ納得のいかない落ち着かない気分には、こうした要因が作用しているのではないか。改めて政治的、社会的な面に触れると、強権独裁国家と自由社会との社会体質の対比が激化の一途を辿る中で、一元的な見方で押し通すテキの流儀にイライラした当方が、一つの社会的精神安定剤に似た新しい一元的対処法として持ち出したのが、ジェンダーの機械的平等であり、その最も分かりやすい説明がセクハラだったのではないか、というふうに思われる。それが勢いの赴くところ、パワハラになりカスハラに飛躍して、挙句の果てハラハラ合戦ともいうべき乱戦に到達したと見ていいのではないか。 

 それならハラハラ合戦もほんのいっときの社会の表面に生じた小波乱に過ぎず、とるにたりない流行現象のように思われてくる。民間同士のパワハラより、ましてサービスをめぐる個人的な感情の行き違いから生じる場合が多いカスハラなどより、公的権力の不当行使、あるいは度外れた職務怠慢のパワー・カスハラのほうが、よほど問題なのも当然だ。 検察なめんな、と調べ室だけでなく法廷でも公言する検事。強姦容疑の検事正や部下の犯罪を揉み消す警察本部長。なによりも施政の最高のカスタマーたる国民のブーイングの嵐を、誹謗中傷の被害者だという感情論で反発・無視して、ひたすら首相延命にのみ没頭して止まないキシダなど、逆カスハラ的・バワハラの極致というべきではないか。

(月刊『時評』2024年9月号掲載)