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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第150回】

不思議に触れられていない疑問点

電気代値上げは大問題にされるが、動く原発の晒し者扱いは問題にしない。超低金利の是正は金利がつく時代になったと騒ぐが、久しく個人預金者が捨て金というにも値しない低金利で放置されてきたことは問題にされない。あまりにもおかしくはないか。

過剰と無視の両極端に分裂

 いまの世の中、こうなればああなる、ああなればたいていはこうなる、こうなったときにはこう対処すればいい、といった、昔から社会通念、世俗的常識、として関連付けて受け取られ、一連の感じで対応されてきた事柄が、それぞれ切り離されて認知・認識され、報道・論議され、ことさら問題が一方的・一面的に扱われてしまう、という印象が強まる一方のような気がしてならない。

 世の中の複雑化を反映している、とする見方もあるだろうが、必ずしもそうとは限るまい。むしろ分断化のひとつの側面で、情報が断片的な状態のまま流れていくために、本来は関連づけて受け取られるべきものが必ずしもそうならなくなっているのではないか、という感じがする。それも、一方では過剰すぎるほど過剰に問題視されているのに、片方では当然に論議され、対応されるべきポイントがまるで無視されている、といった調子で両極端に分裂しているように思われるのだ。

 両極端を分かつのは、つまるところテレビの気まぐれ、報道というものに対する無神経さ・思慮の浅さに帰着するのではないか。世間一般の人々が日常接する情報ルートはもっぱらテレビに限定されているのが現状だが、テレビの正体は、特定の現象だけを切り取った映像に扇情的なコメントをつけて一方的に流し、世間の関心を一定の方向に固定して、関連するさまざまな側面をスルーしたまま、意図的にか無意識的にか、彼らの本質の視聴率稼ぎ、つまりセンセーショナリズムを煽り立てる方向に、視聴者を誘導することだけを意図している。到底信ずるに足りない、ゲテモノなのだ。

 意図する方向が各社・各局ごとに違っていたり、局によってニュアンスにかなりの差があるのならばまだしも、一犬虚に吠えれば万犬実を伝う、という調子で、初動段階で密かに相談したのか、言わず語らずのうちにどこかで調子を揃えるのか、それはともかく、結果的にまったく同じものの見方・受け取り方で付和雷同的に騒動を起こし、世間の反応を一つの方向に誘導して、そのまま定着させていこうとしている。

スポンサーの意思によって流動

 たかが電気紙芝居、とかつては新聞人や雑誌論壇人から揶揄され、娯楽メディアの一隅に映画よりさらに低い存在と認識されていたテレビが、いつの間にか社会情報の伝達手段の主役になりおおせてしまった結果、といってしまえばそれまでだが、テレビの存在感の巨大化に反比例するように、新聞の社会的影響力や、なによりもその存在感が薄れ、硬派の論壇雑誌やその主役だった論客もほとんど絶滅して、テレビが大衆社会の世論の舵取りを一手に担うようになった。おかげで情報化時代といわれる世の中の論議の方向性が、ひどく劣化したのは間違いない。

 いうまでもなく今日のテレビは巨大な商業的事業体の全国を覆い尽くすネットワークである。その事業は無数の広告主・スポンサーの意思によって左右され、流動する。新聞や雑誌も商業的事業という面は同じではないか、という論法もあるだろうが、なにぶん規模も違うし、背後の存在への依存度・支配関係もまるで違う。世が世なら、というといかにも時勢の変化から取り残された偏屈老人の繰り言めくが、常識的に見てこの状況なら当然取りあげられ、報道や論評の対象になり、社会的関心を盛り上げて然るべきであるにもかかわらず、テレビがスポンサーの顔色を窺って取り上げないために、新聞も記事面だけでなく論説やコラムでもスルーしてしまい、もはや無きに等しい論壇誌も沈黙したまま、漫然と見逃され続けている社会・政治経済現象が余りにも多すぎるという気がしてならない。

原発活用の論議が無いのは?

 そこで今回はそうした問題の一端に触れてみようと思うのだが、まず身近なところで一例を挙げれば、この6月からの電気料金の値上げに絡む問題だ。ロシア・ウクライナ戦争やイスラエル・ハマスの激突と、それに対する欧米列国の制裁措置や周辺国の反応も作用して、ロシア産・中東産の原油や天然ガスの供給が大きく不安定化し、需給が逼迫してヨーロッパを初めとして世界的にエネルギー価格が上がった。日本では、そこにたまたま昨今の物価上昇に対する生活支援と称して続けられてきた、電気・ガス料金の負担軽減のための一般家庭への補助金の予算措置が、当初の予定通り解消されたのが重なって、料金値上げの影響がより顕在化した。

 この問題については、当然に考えられて然るべき関連するポイントがいくつも存在しているはずだ。それならこの際、それらを含めて総合的に考え直すのが本来のジャーナリズムのあり方だろうが、そうはなっていない。日常的に見るテレビでは、ごく普通の生活者である主婦や高齢者を捉えて、ただでさえ円安のため輸入食料品を筆頭に諸物価が上がっているときに電気代値上げは痛い、というボヤキだけに終わっている。新聞は社会面でもそうした単純な取り上げ方はそう見かけなくなったが、経済面の雑報に、供給力に問題なし、需給に心配なし、と各電力会社や彼らの業界団体の電事連=電気事業連合会が述べたという短信が出ても、それだけの話で終わって、関連情報への展開はない。

 需給に心配ないとしても現状ではコストが嵩む、というなら、原子力委員会の安全審査に合格しているのに働いていない原子力発電所が少なくないようだから、それを活用して発電コストの抑制を図ればいいではないか、という当然すぎるほど当然の議論が、新聞の一般記事や解説・論説でも、テレビの企画番組でも出てきていいのにまるで出てこない。これはおかしいではないか、という声が、外部からも内部からもあがる気配もないのだ。

原発休止は不合理との指摘を

 東日本大震災による福島第一発電所のアクシデントいらい、日本のマスコミの原発アレルギーはより強まったまま続いている。あの事故自体、地震による地盤変動による直接の施設の破壊ではなく、巨大津波による浸水が原因だった。しかしそうした点の説明の欠落を含めて、マスコミの姿勢は反原発に凝り固まっている。原爆被害から発した原子力全般への反射的な嫌悪感と、それに乗じた反米左翼による、原子力ならなんでも反対、という愚民政策的大衆操縦術に同調する偏向ジャーナリズムに、意識的にか無意識的にかマスコミ全体が巻き込まれている反映、としかいいようがない。

 この際根本的な視点に立ち帰って、日本には現に世界で活躍している装置と同等の原子力発電設備がいくつも休止したまま存在しており、その多くがいつでも再起動できる状態になっているのに、それらが感情的な反原発によって正当に稼働できていないのは、単に不思議なだけでなく、国民生活にも国家経済にも多大の不合理な損失を強いている大問題だ、と指摘するキャンペーンが、世間の一角、もちろんマスコミの内部からも出てくるのは、当然の話ではないか。

 すでに立ち枯れたまま放置されて、ロクに働かなかったのに老朽化し、建て替えなければ安全性を保てなくなった原発もあるというが、それらの建て替え・最新鋭化を含め、原発の存在を見直そうという声が、関係当局の一部を例外にほとんどあがっていないのは、まことに奇怪極まる、と筆者は考える。

金利引き上げへの被害者目線

 話題を変えて、コロナ禍の鎮静化に伴い世界的な超低金利政策の是正が進み、日本も一応はそれに倣う姿勢が見えはじめている。しかしコロナ以前から大証券会社の経営破綻をきっかけに先陣切って超低金利に進んできたアメリカ、多少は遅れたもののそれに歩調を合わせてきたEUに比して、やはり昭和の終わりとともに終焉を遂げた高度経済成長の反動である〝平成の失われた30年〟に始まって、久しく低く張り付いていた金利が、コロナ禍でさらに非常識な域にまで低下している日本での、極端に低水準の金利の引き上げ、というより適正化の程度は、余りに過少というほかない。それにもかかわらずテレビも、新聞でさえも、いまや金利がつく時代になったと、いかにも深刻な変化が起きたように被害者目線で伝えるだけなのは、滑稽を通り越して、論外の沙汰、というほかない。

 カネを借りれば約定に従い遅滞なく返済するだけでは不十分であって、適正な利息の支払いが伴わなければならない、というのは貨幣経済というものが生まれていらい、つまり古来の当然の常識ではないか。金利がどの程度の水準で実施されるかは、それぞれの時代の資金需要によって変化するとしても、グローバル経済の時代だというのなら、少なくとも経済の発展段階においてほぼ同等の国家間で金利水準に大きな差があるのは、むしろ異様な姿というべきだろう。そんなことではグローバル経済もヘチマもない、と考えるのが当然の筋ではないか。現にいまの日本の公定歩合は、5%前後に収斂しつつある欧米の水準に比較して異様に低い。それとともに、市中銀行の一般預金者に対する預金金利は、一応は1桁切り上げたというものの、いまだに年利0・0%台の下のほうに止まっていて、金利というのは悪い冗談、ふざけるのもいい加減にしろ、というほどの極端な低さだ。

 このふざけきった日本の低い金利には、それなりに理由・背景がある、といえなくもないかもしれない。そこには国家財政の問題や大衆が抱える住宅を筆頭とするローンの問題も作用しているのだろう。

バラ撒き式の〝福祉〟常態化

 最初の観点でいえば、戦後日本の政治は、池田勇人・田中角栄・大平正芳・中曽根康弘ら、製造業中心の経済成長施策と国土開発を軸とした公共投資による積極経済政策派と、それを左翼野党や偏向マスコミと意を投じつつ批判して見せるものの、対抗しうる具体策の持ち合わせなど絶無の三木武夫・福田赳夫とその配下らとの、二つの人脈の流れで続いてきた。ロッキード事件後にいったんは途切れ、細川護熙・羽田孜という反自民・非共産の8党・会派連立内閣を挟み、橋本龍太郎・小渕恵三で復活した主流人脈が、小渕の急死で一段落したあと、党内各派の談合で登場した森喜朗内閣以降、福田系人脈が主流になって、独自の経済施策を持たないまま、〝大衆への奉仕〟という大義名分で唯一の支援宗教団体・創価学会の信者の要求を政府中枢に取り次ぐ公明党との連立態勢を続けていることも作用し、漫然と財政に頼ってバラ撒き式の〝福祉〟を続ける手法が常態化して、財政赤字を累増させ続けている。

 大平が財政規律の重視を取り上げ、中曽根内閣で一度は2年連続して国債残高ゼロを実現したのと正反対に、森のあと、日本をぶっ潰す、と不穏当極まる掛け声でマスコミが囃し立てる大衆的人気に乗って登場した小泉純一郎以下、突然現れて総選挙に敗れ、民主党に政権を明け渡して、鳩山由紀夫・菅直人・野田佳彦の無知・無能3政権の間の下野を余儀なくされた麻生太郎を唯一の例外に、再度登板の安倍晋三を中心に続いた福田人脈のもと、赤字国債を中心とする政府財政の累積債務は膨らみ続け、GDPの3倍を超える2000兆円に迫っている。その中で金利水準を国際レベルに引き上げれば、利払いで年度予算の編成も困難になる、という体たらくだ。

ローンは止めになる可能性

 もう一つの要因は、住宅をはじめとする各種ローンの存在だ。日本だけでなく韓国も中国も、いまや少子化に突入して総人口も純減に向かっているのに、超高層マンションの建設ラッシュは続いていて、長期ローンで購入した中堅層が少なくない。彼らの世代はまだ多子時代で、地方に親を残して都市で働いているケースが多かった。したがって新築マンションには一定の需要が見込まれ、低金利も後押しして建設ブームが起きていたのだが、いまや過剰建築・過剰供給で現に売れ残り・建ち腐れが社会問題化している。そうした中での金利上昇で、借り手の支払い不能・建てた側の倒産連発という事態になれば、ただでさえ低迷する日中韓・東アジア3国の景気にとって、止めの一撃になりかねない。金融政策を担う当局にとって悩ましいところだ。

 この問題は次世代にも尾を引く。いまローンを抱えて返済に悩んでいるのは多産世代だが、彼らが返済を終えたにせよ残債を遺したにせよ、それを引き継ぐのは少子世代だ。彼らにとって親世代から引き継いだ不動産はいまや〝負動産〟と化しつつあるが、そこにさらにこれからは団地時代・マンション時代を作り出した1970・80年代の集団住宅群がいっせいに老朽化してくる。現にこの時代の分譲マンションの中古価格は極度に値下がりしており、住み替えも建て替えもできないまま廃屋化したり、空き家のままになっているケースも少なくない。〝平成デフレ〟が尾を引く中で、欧米通貨の高値の裏面にある円安に伴う輸入物資のインフレ傾向はあるものの、企業経営面からいっても、国民の消費能力に照らしても、欧米に倣った低金利是正に耐えうる力が日本にあるとは到底思えない。

 日本の超低金利は若干の是正はあるとしても基本的には当面続くと見ざるを得まいが、そこで気になるのは、この状態には受益層と被害層が判然として存在するという事実だ。受益層はいうまでもなく大企業から町の商店に至る企業側、そして住宅をはじめとするあらゆる消費財でローン暮らしに慣れ馴染んだ、必ずしも賢明とも健全ともいいかねる若い浪費的消費者層だ。一方被害層は、かつての高度成長時代を一兵卒として働いて築きあげ、堅実な生活をしてそれなりの貯蓄を遺し、いまは第一線を退いた高齢者層だ。

勤勉努力のキの字も唱えず

 日本はある時代、一億総中産化社会といわれた。新聞もテレビも、当然のこととしてその表現を使ってきた。しかしいま、その言葉も実態も、失われて久しい。新聞、ことにテレビは、われわれ高齢世代から見れば無意味な遊興、見栄っぱり浪費に耽っているとしか思えない一部の中年や若者の放埒な行動を、いかにもそれを煽り立てる映像つきで流す一方で、勤勉努力のキの字も唱えなくなった。

 日本はG7先進国の中でも、個人金融資産の多い国、そしてその中でも銀行の定期預金の占める比率がずば抜けて高い国、という定評があった。そうした姿は、恒産なくして恒心なし、という古来の処世訓が、無謀な戦争の敗戦からの国家社会の再建の努力の中で、広く再認識された所産でもあった。

 そういう経済社会での、30年を優に超える超低金利、ことに銀行の定期預金金利の実質ゼロ化は、経済大国の建設に貢献した層が本来得べかりし、かつての労苦が生んだ果実が齎す金利収入の、不当な収奪につながっていることは明白だ。反面、新興産業であるGXの経営層や、現役浪費者層へのサービスに務めるネット通販業者などに、超低金利の恩恵が潤沢に及んでいる点も、否定できまい。敗戦後の再建途上、そして高度経済成長時代の日本には、欧米先進国の多くと同様、1年ものの定期預金の金利が、6%前後で定着していた。10年ものの定期預金の金利が単利で年8%という時期さえ、筆者の記憶する限り、3回は存在していた。いずれも短期間で終わったが、1960年代半ばから、70年代半ばから、最後はバブル最末期の80年代半ばからの、計3回だ。最初の時の預金をそのまま再預入していれば、自然に2倍・4倍・8倍に増え元本の8倍。次の回の分は2倍そして4倍。最後の回でも元本の2倍になる計算だ。年を追って収入も、定期預金に回す余裕資金も、そこそこ増えていった日本経済の成長期だったから、まじめに働き質素な暮らしを続けていれば、相当額の預金が無理なく積み上がっていくのは、そんなに困難な話でも、珍しいケースでもなかった。

 そんなの、机上の計算だ、数字的には尤もらしくても実際にできたはずがない、とイマドキの新聞・テレビの記者・司会者やコメンテーターども、当代の遊び人風情はいうだろう。しかしいま90歳台、100歳台の〝企業戦士〟OBの多くは、これを実践して、一億中産化社会、戸建て持ち家比率世界一の日本を実現したのだ。そうする一方で敗戦で生活破綻した親の世代を養い、見送り、子や孫の養育はもちろん学資で助けることはあっても、彼らに自身の老後生活の負担はかけずに人生を一貫してきた。つましい暮らしを続けつつ、自力でリタイア後の余生を送るべく一定の個人金融資産を築いて生きた。

黒い未来図を誰も考えず

 それが国富の豊かさにも繋ったのだが、逆の視点から見れば、イマドキの浪費・遊興世代は、努力して預金してもロクな利子はつかない時代を反映している、それはそれで当然の判断が生み出した鬼っ子たち、といえるのだろう。彼らは平成以降の、自民党だけでなくその連立与党を続けた公明党や、3代・通算3年余の短かさだったとはいえ、同じ低金利政策を漫然と続けた民主党首班政権の与党や閣外支持の政党、つまり日本のすべての政党に対して、一億総中産化の基盤となる適正な金利政策への転換を求める視点には、気づかなかった。同様に太平楽に浮かれてきたテレビ主導の日本のマスコミ環境も、一見華麗な消費社会を持ち上げ、貯蓄よりは株式投資といった証券会社のコマーシャル路線を囃し立てるだけだったのだ。

 いまの岸田首相も、性懲りもなく貯蓄より株式投資を唱えているが、そうした中でいまの高齢者層の〝恒産〟は長い老後を反映して減る一方。甘い生活を続けてきた世代に〝恒産〟はなく、前世代の親の遺産をたとえ目減りしていても相続できたのは幸運な組、多くの日本人は近いうちに資産の備えを持たない空っケツの老後を送らざるを得ないことになる。その黒い未来図を、政府も政治家も、与野党も国民も、テレビも新聞も、全然考えてもいないようなのは、どうしたわけか。

 過去の低金利時代にどのくらいの預金者国民の得べかりし金利が収奪されていったか、それを調べることは、必ずしも困難でない。バブル崩壊、そして個人預金に対する低金利が定着した1995年以降の今日までの逐年の個人預金高の額、それに対して実際に支払われた金利の総額を算出・集計する。同じ3分の1世紀間に、G7各国の個人預金の逐年の総額、これに対して支払われた金利の総額の平均値を算出・集計する。日本に関しては日銀と国税当局の公開されている諸統計に当たり尽くせば、手間はかかるだろうが一人前の新聞記者ならだれでも算出できるだろう。外国に関しては、それぞれの国の公開情報に当たるのが本筋だが、日銀の外国担当部門でもデータはそれなりに持っているはずだ。

大収奪が密やかに進行

 そうして比較すると、日本の場合は、30年間で計算の対象になる個人金融資産の残高は少なく見ても3桁の兆円台。受け取り金利差は2%あったと仮定して、控えめに見積もっても10兆円をかなり超える金額の30年分だから300兆円以上。仮に日本の個人預金金利がG7諸国の平均値より3%低かったとしたら数百兆円以上の大収奪が、白昼堂々と行われて誰も気づかず、新聞も、そこに働く記者、とりわけ専門のはずの金融記者の誰一人も気づかず、問題意識も持ち合わせなかったという、容易ならざる事態がひっそり進行していた、という話になる。

 これはもちろん新聞記者として現役を去って70年、フリーの政治記者としても隠居状態になって20年、あるいは竹下内閣初期から4期8年委員を務めたあと、特別委員などで計20年近く財政制度等審議会にかかわってきた筆者の、しかし財政、ことに金融にはまったくのシロウトの宛推量であり、空論・暴論であるかもしれない。一石を投じて見ても、見当はずれの大暴投という批判もあるだろう。しかしそれならそれで、然るべき金融人・金融政策担当者の、反論を聞きたいと思う。とりわけ個人の得るべかりし金利所得の収奪に関しては、責任ある答えを聞きたい。

(月刊『時評』2024年8月号掲載)