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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第147回】

「吊しあげ」風潮再現の気配

~「吊しあげ」はシベリア産 多用したのは社会党と総評 粗暴無礼が嫌われ低落招く いまや立憲民主の得意芸化 前科一犯が検事気取りの怪 これじゃ立民も万年野党か~

もっと陰湿な「暁に祈る」

「暁に祈る」と聞いて人はなにを思うだろうか。後期高齢者10年の年寄りなら、

 ああ あの顔で あの声で 手柄頼むと 妻や子が ちぎれるほどに 振った旗

 という、シナ事変最盛期の昭和15(1940)年に日本放送協会=現在のNHKのラジオが毎日の定時放送枠でしつこく流した「国民歌謡」、銃後の民衆はもちろん、北は満州から南は豪州目前の南洋の孤島にまで配備された兵士も、星の数ほどある軍歌・戦時歌謡の中で圧倒的に愛唱したという野村俊夫作詞の哀切な歌を、即座に思い出すに違いない。若くても、カラオケで涙を流して歌っていた老人をよく見た、と気づく人が多いはずだ。

 しかしここでいう「暁に祈る」は戦時歌謡ではない。もっと陰湿な話だ。日本が降伏する目前の昭和20(1945)年8月9日、広島に次いで長崎に原爆が投下された日に、一応は廃棄通告したとはいえ、まだ日ソ中立条約が有効中なのにも拘わらず、火事場泥棒のように参戦して日本領だった南樺太や千島列島、満州国に攻め込んだスターリン・ソビエト軍は、50万人を超える日本軍将兵と、2万人以上の現地に派遣されていた官僚や民間企業関係者など文民を拉致して、シベリア各地に連行した。そしてラーゲリと呼ぶ粗悪な収容所に押し込み、早朝から日没まで未開の荒れ地・凍土の開拓労働に酷使した。

命名された「吊しあげ」

 好運なら1~2年でダモイつまり帰国ができたが、運が悪いと吉田茂長期政権が倒れて鳩山一郎政権が日ソ国交回復に漕ぎつけた10年近く後まで、労働力として使役されて軍関係者だけで6万人以上の死者を出した。加えて彼らは抑留兵士をアメリカが占領する日本に革命戦士として送り帰そうと企み、就労後に夜更けまで共産主義教育を強いた。

 この状況では、帝国陸軍の兵営も同様だったろうが、少しでもラクな位置に立とうと権力側に擦り寄る輩が出る。アクチブと呼ばれた彼らはどこのラーゲリにもいたとされ、所によってはナホトカから舞鶴に向かう帰還船の中で、抑留生活で溜まりに溜まった兵士たちの遺恨がアクチブに向け爆発、頭目が甲板から日本海に投げ込まれたという噂も流れた。

 その最終の時期に帰国した兵士たちが収容されていた中央アジアに近い奥地ラーゲリに凶悪なアクチブの頭目がいて、「思想教育」をより強化する狙いで、オレの「講義」を熱心に聞いていないな、と目をつけた兵士を毎晩一人ずつヤリ玉に据え、収容兵士全員が交替で「意識の低さ」を責め立てる集団リンチを考え、「吊しあげ」と命名した。早朝からの長時間重労働の後に長時間、拷問に近い詰問が続くのだからたまらない。疲労と緊張で失神する兵士が出る。その姿をアクチブの頭目は「暁に祈る」と呼んで嘲ったという。

 この話はたぶんどこかの新聞がダモイ兵士から個人的に話を聞いてまとめた記事で触れたのに、他紙が一斉に反応して広がったのだろう。「暁に祈る」という流行歌謡から転じた言葉の意味も、それを生み出したアクチブの氏名も、彼のその後の消息も、忘れ去られて久しいが、ここまではいわゆるマクラ。話題のとっかかりで、本題は「吊しあげ」だ。

敗戦日本社会に広めたのは

 こうした行為は、世界のどこでも、どの民族社会でも、見られるものだろう。権力者側が民衆を操って起こさせる「圧力型」、逆に反体制側が抵抗から権力闘争まで、いろいろな意図で大衆を動員する「突き上げ型」もある。自然現象のように起きる首謀者不明の集団イジメ型も、仲間内のささいな諍いが暴走したタイプもあるだろう。

 呼び方もいろいろだろうが、「吊しあげ」という表現はたぶん敗戦後数年を経たシベリア抑留兵の帰国まで、普段使われる日本語には存在しなかったように思う。少なくとも明治中期以降の日本の大衆小説を、プロレタリア文学を含めて小学生の後半から大学を出るまで乱読した、筆者の記憶にはない。

 言葉としての「吊しあげ」がもともとはロシア語に由来していたのか、日本軍の下士官クラスがかつて内務班=兵営の生活空間で日常化していた悪習をより拡大してラーゲリで広げ、江戸言葉の「絞めあげる」や西部劇映画の「吊す」などからの連想でいい出したのか、そこはわからない。しかし「吊しあげ」常習者や「共産革命の戦士」がダモイ兵から続出したわけではない。「吊しあげ」を言葉としても行為としても、敗戦日本社会に広めたのは共産党でなく、社会党―総評だった。

はじまりは「進駐軍官僚」

 敗戦直後に「獄中18年」から解放された徳田球一書記長のコワモテ体質で売り出した共産党は、一時の内紛を乗り越え、宮本顕治―不破哲三体制でインテリ色を鮮明にしてからは、中ソに距離を置く自主独立路線をとって、シベリア渡りの蛮風なんか無視した。

 社会党―総評はそうではない。いまとなっては若干の注釈が必要だろうが、もともと社会党は敗戦日本を占領統治するために駐留した、アメリカ軍マッカーサー司令部がつくった。スターリン・ロシアを同盟軍に加えてヒトラー・ドイツと戦ったアメリカは、第1次と第2次の世界大戦の間の「戦間期」にソビエト革命の影響で先進国のインテリの間で流行した左翼思想に染まった若者を国家機関に採用していた。しかし戦後も彼らを本国の中枢に置くのは鬱陶しかったのだろう、多くを日本占領軍民政局の文官部門に島流しした。

 そうした左翼かぶれの「進駐軍官僚」が日本を再びアメリカの脅威にしないよう弱体化し続けるために用意した「装置」の一つが、「戦間期」に国際連盟を筆頭とする国際機関が条約や規則などで理想論として唱えはじめた、「非武装中立」を直訳引用して盛り込んだ「マック憲法」つまり現行日本国憲法だ。もう一つが、日本の政治を保守派や共産系から隔離するための、中間勢力を結集させた政党づくりだった。日本国憲法下の初政権が、戦前に割拠していた非共産系の社会主義勢力と非正統派の保守勢力をかき集めた、社会党首班の片山哲内閣だったのがその証明だ。

反米親ソ路線に転向

 しかし「絵に描いた餅」はすぐ瓦解する。片山内閣とアタマを保守系にすげ換えただけの芦田均内閣は、いずれも内紛と無策無能・民意離反で短命に終わり、戦後日本政治は保守本流の吉田茂内閣のもとで安定に向かう。そうした日本の政局要因とは別次元で、アメリカとともに日本と戦った蒋介石の中華民国軍が毛沢東率いる中国共産党軍との内戦に敗れて台湾に逃げ、共産党独裁の中華人民共和国が建国する。朝鮮半島ではアメリカ亡命から帰国した李承晩の親米韓国と、長くソビエトに逃げていたのがスターリンに命じられて母国に帰って政権を作った金日成の北朝鮮との間で、米ソを背にした内戦が起きる。

 アジアの体制変化とともに、ヨーロッパでもアメリカ側の西欧とソビエト側の東欧の勢力圏争いが激化し、米ソ冷戦が本格化する。占領下に残っていた日米間の相互不信感も、マック司令部を飛び越えたダレス国務長官を中心とするワシントンと永田町の吉田側との直接交流で、相互理解・友好強化の方向に変わっていく。進駐軍の社会党強化策も、占領終結直前に実現した、共産党の影響力が強い産別会議に対抗する「民主的労組」総評を結成して社会党を支えさせようとする構想の実現で完成したはずだった。

 しかし社会党も総評もマック司令部の日本占領の終結によって、捨て子・家なき子の状態になってしまう。こうなれば、当然の成り行きとして捨て子のほうはグレやすい。昭和27(1952)年4月に占領が終わって日本が独立を回復した当時、社会党―総評ブロックは双方に潜んでいた左翼勢力が中心になって、講和・独立回復の条件としてアメリカ側が日本政権に求めた破壊活動防止法=破防法の制定と日米安全保障条約を強化する改定に反対する旗を掲げ、反米親ソ路線に転ずる。

総評は急激に左傾・暴力化

 ずっと後になって、ソ連体制崩壊によりモスクワで発掘された当局の記録文書に、左右両派が別党体制をとっていた日本社会党のうち左派社会党の複数の国会議員が、モスクワ詣でを重ねて直接ソ連側から、また東京・狸穴のソ連大使館から、定期的に資金援助を受けた事実が示された。彼らが社会党全体の反米親ソ路線への転換の主役を務めたのだろう。敗戦直後に朝日新聞記者・聴濤克巳を委員長に組織された労組が産別会議に参加していた新聞、戦時下にさんざん植え付けられた反蒋介石気分の反射でなんとなく毛沢東びいきムードに傾いていた大衆世論、共産化した中国・北朝鮮との貿易利権に群がる財界、その仲立ちに立とうとする社会党右派から保守の政治家までを含めて、親中朝の空気が次第に拡大していったことも否定できまい。

 昭和34(1959)年秋から始まった日米安保改定案批准に対する国会審議での衆議院特別委員会段階から、左派社会党の議員を先頭に、政府に対し激語を連ねる「吊しあげ」質疑が目立つようになる。政府答弁や与党と他の野党の質疑に対する発言妨害行為、委員会室・議場での乱闘や審議ボイコットによる開会阻止など、社会党議員による議事堂内部の暴力行為も頻発した。

「ニワトリがアヒル」になったといわれたほど急激に左傾・暴力化した総評は、官公労中心の左派労組や学生自治会の若者も巻き込む、30万人ともいわれた国会議事堂と首相官邸を囲む大規模デモを連日主導する。多くの大学や一部有名進学高校では「吊し上げ」と暴力行為を伴う学生運動が起きる。新宿西口広場を埋め尽くして「歌声運動」の名でソフトなフォーク調から革命歌までを夜更けまで高唱するなど、集会やデモやアジ演説だけでなく、街頭行動にも反自民・反安保・反米路線が持ち込まれた。

テレビの普及とともに支持暴落

 こうした風潮は、安保騒動の収束後も1960年代から70年代、さらに昭和の末に至るまで続く。「吊しあげ」的な国会質疑や社会党議員の議場乱闘も続いたし、国会の外では通勤の足を奪う国鉄電車ストや郵便の配達ストが年中行事化し、学園紛争も多発した。「武闘派」や「怒れる若者」という言葉が流行し、「市民運動」と美称するが実態は常習的・職業的イチャモン集団が主導する、行政機関や企業を相手どった大衆動員型「吊しあげ」行動も定着した。

 当時国会で聞くに耐えぬ乱雑で無礼な質問態度で政府側を攻撃して得意顔をしていた社会党議員たちは、国鉄ストや郵便ストなどで市民生活を脅かして反省のカケラもない労組幹部や過激派学生、さらにそのOBなどが仕切る「市民運動家」など、仲間内の反応だけを見て、こうすれば有権者国民の関心を引きつけてわが党に対する支持がより強まる、と考えたのだろう。しかし同じころ一般家庭に入り始めたテレビに連日写る彼らの粗暴・無礼さや身勝手な態度は多くの国民の強い嫌悪感・反発から、彼らの支持暴落を招いた。

 最盛期には衆議院の議席が150に迫っていた社会党は、その後国政選挙を重ねるたびに凋落する。旧公共企業体労組も「中曽根行革」による民営化移行後は穏健な姿勢に徹するようになった。学生運動の存在もまったく聞こえなくなっていまや久しい。

日本全体の活力喪失とともに

 昭和の終わりの四半世紀近く続いた「吊しあげ」の全盛、「怒れる若者」の横行、「市民運動」の流行などは、要するにバブルに沸く経済や向上する庶民生活と表裏一体で出現した、シュトゥルム・ウント・ドラング=疾風怒涛の時代の表情だったのだろう。いまにして思えば当時は、戦後日本が最もパワフルな歳月だった。池田勇人内閣の高度成長政策と佐藤栄作内閣の沖縄返還の実現が「戦後」に完全にピリオドを打ち、田中角栄内閣の日本列島改造の始動からバブル崩壊に至るほぼ20年の間に、日本の国家社会は世界第2位の経済大国にのしあがった。野党や左翼の活発な活動ぶりも、創価学会やオウムに至る新興宗教の興隆も、電化生活やマイカーの普及が象徴する底は浅いが一見華美で豊かそうな国民生活も、それぞれ全盛期に達した。

 そうした姿はアメリカにもヨーロッパにもほぼ共通していたが、リーマン・ショックがいっせいに引導を渡した。「吊しあげ」の権化のような文化大革命で旧支配層を追い落とし毛沢東独裁体制をつくったのをスタート点に、急速に現代工業国化した共産中国を唯一の例外として、世界中のあらゆる面でパワーの存在感は衰えた。日本も平成の元号とともに長い「失われた時代」に入るわけだが、この時期「吊しあげ」も国会の議員暴力も学生運動もともにパワーを失い、いっせいに「失われた時代」を続けたのは、奇妙といえば奇妙だが、それが自然の流れだったのだろう。

 このころから国会で野党の行儀がそこそこ改まってきたのには、罵倒三昧の社会党の余りに惨めな凋落の教訓がそれなりに浸透していった点もあるだろう。それまで日本を主導してきた自民党のパワーが衰え、さしもの長期政権も息切れして、細川・羽田、そして鳩山・菅・野田の非自民政権が、適当な間隔を置いて出現した反映も、当然ながらあったに違いない。久しく万年野党だった連中にも、万に一つ政権の座に着いたときにひどいシッペ返しを食ったら敵わん、という打算から多少は政権与党としての振る舞い方を学んでおく必要がある、という意識が出てきた面も、おさえておく必要があったはずだ。

ハラスメントの形で復活

 しかしそうした空気が、このところやや変化してきているように感じられる。早い話がパワーという単語が、世間のあちこちに久しぶりに現れてきた。

 尤もそれは、往年のそれに較べれば話にもならない、プアーな、みみっちい話題に過ぎない。たとえばカスハラつまりカスタマー・ハラスメントだ。いうまでもなく流通・飲食など主にサービス業の現場で顧客が店側の、あるいはたかが店員のミスを咎めて、常識を遥かに超えて長時間にわたり大声で罵倒し業務を妨害する、といういかにも陰湿なものだ。似たような情景は、日常的なトラブルとして至るところでよく目につくようになっているが、その際に現れる態度や口調のトゲトゲしさ、下等極まる偉ぶりかたを、いつの間にか総じてパワー・ハラスメント、パワハラと呼ぶようになった。あげくの果てに東京都議会は最近、その種の行為を禁止・処罰する条例を全会一致可決したが、これは一場の喜劇としかいいようないザマであって、笑うしかない。「失われた30年」の余韻をいつまでも引きずっているパワーレスの時代だからこそ、取るに足らない姑息なイヤがらせ行為までが、それなりのパワーの行使とされて、パワハラと騒がれているのが実態だろう。

 騒いで見せたのはメディアの世界で能力最低・品性下劣と定評があるテレビ井戸端会議であるワイド・ショーが筆頭だ。時間潰し以外にまったく存在価値のない「番組」で、そっちのほうが公共の電波という国民の共有資産を期限限定の免許で預かって営業する立場に過ぎないのに、デカいツラをするな、お前らこそがパワハラだろうが、といいたくもなる。

 まことに奇妙な世の中になったというほかないが、国会質疑の「吊しあげ」口調は、共産党機関紙「赤旗」の特ダネ調査記事をマル写ししただけのテレビの尻馬に乗って始まった、自民党のパーティ券収入の裏金化をめぐる「疑惑」からだ。さすがにいまのところは乱闘国会も、超牛歩戦術が「暁」まで続くほどの極端な例は見られないが、かつて左派社会党の一部が得意芸としていた、各党申し合わせの発言時間枠を大幅に超えて長時間にわたり議政壇上を占拠して政府非難の無内容な演説を続けるイヤがらせ行為を、立憲民主党の議員がまね始めた。

結局はサークルの会費にすぎず

 そもそもこの裏金問題に、仮にも議政壇上で取り上げられなければならないほどの、意味があるだろうか。長期政権党のフトコロ事情にかかわる問題だといっても、別に財政資金がからむわけではない。例えていえば、会社の営業にも経理にも関係ない社員会の会費を割り勘で集めたら結構集まってしまい、考えれば新入社員やヒラにとっては負担が高すぎた感があるから、たくさん集めた古参組もまじえて多少は返してやるか、といった程度のことにすぎない。

 共産党が擦ったマッチの火をテレビが無責任に煽ってボヤになりかけたのだから、すぐ消せばそれまでのことなのに、無能・無力のために野望を実現できないまま過ごしてきたのが、たまたま生じた権力のエアポケットにはまった形で天下を取ったキシダが、消火に走るどころか、おのれの権力を不承不承黙認している感の強い、目のうえのタンコブ的存在である旧安倍・二階派のボヤなら放っておこうかと、安倍晋三が暗殺されたという状況も横目に傍観していて、半ば意図的に火の手を大きくしてしまった印象も拭い難い。

 憲法の定める国権の最高機関の一翼を担っているといっても、野党議員は与党にくらべて特別職として行政を動かすことも、当初から立法に参画することもできない、政治的に脆弱な立場だ。主な仕事はもっばら政府に対する監視と、行政に対する点検に絞らざるをえない。それさえ聞こえのいい建前論で、野党の国会質疑の実態は政府与党のアラ探し、イヤミと言い掛かりの羅列、集票を意識した有権者国民の不平不満を煽り立てるアジテーション、といった「吊るしあげ」スタイル一色になる。真偽も根拠も定かでない一方的な「疑惑」の主張と、それに対する検事気取りの告発・追及劇に暴走するのが唯一の芸だ。

有罪判決の身で裏金追及とは

 その芸では定評のある、かつては社会党の土井たか子委員長の側近で、土井の秘書の指南で国費で支給されている自分の第二秘書の給与をピンはねし、投資していたのがバレて刑事事件になり、裁判で有罪判決を受けた辻元清美が、それでも潔く服罪していたのに、法定の議員立候補禁止期間を終えたら衆議院から参議院にクラ替え立候補して復活。今回の参院予算委員会で自民党の裏金を追及していたのには、驚き呆れた。自民党の「疑惑」のほうは、国民の税金を不正に受け取ってフトコロに入れたわけではない。議論の余地があるという声は一部にあるが、少なくとも現行政治資金法規では違法ではない。きちんと罪を償ったとはいえ、またそれを百も承知の有権者の票を得て国会議員として堂々復活したとはいえ、辻元には自身の過去に照らしてこうした際には発言を控えるという良識はないのか。立憲民主党という政党には、このテーマで辻元を党代表して質疑させるのはいかがなものか、という判断力はなかったのか。つくづくこう思わざるを得なかった。

 テレビがしつこく、裏金、裏金と連呼し続けるのが大きく作用して、自民党の支持率は大きく下がり続け、いまや20%台そこそこまで落ち込んでいる。しかし、辻元を含めてかつての左派社会党議員の再来を思わせる粗雑・粗暴・無礼な国会質疑を続ける立憲民主党の支持率も、久しく定位置である5%そこそこに張り付いたままの状態を続けている。その根源に、安倍晋三元首相が喝破した「悪夢の民主党政権」の影が、政権壊滅から10年以上も過ぎたのに、超無能・混乱の悪政の極致の記憶として、有権者国民の間で鮮明に残っている事実があるのは明らかだ。

 そうした中でこの調子では、立民ももはや万年野党が指定席になったと観念せざるを得ず、そのふて腐れ感・居直り姿勢が身に染み込んで、この体たらくに至った、といわれても抗弁の余地はなくなるだろう。そのことさえ、彼らは考えていないのか。

 バイデン・トランプ再戦のアメリカ大統領選挙もひどいが、日米政治の人材枯渇、低落状況も極限まできた。英・仏・独をはじめ、G7を構成する民主主義・自由経済先進国の政治の弱体化はひどすぎる。これではロ中朝の強権独裁国家がのさばるのも当然だ。

(月刊『時評』2024年5月号掲載)