2024/11/06
~本稿は昨年末から1月10日の間に執筆いたしました。その後、状況は大きく流動しておりますが、続く次号の(下)と合わせ、筆者視点を読者諸賢に御一読いただく趣旨を込めましてこのまま掲載し、次々号で総括する所存でございます。~
依然、低空飛行ながら命脈を保ち続ける岸田政権だが、やはりスローガンに比して軽佻浮薄な感が拭えない。その背景には当人の、宏池会への認識不足、池田勇人に対する敬意不足が作用すると思われる。こうした政権像を例に、今月、来月にわたり絶えて久しい官僚政権の復活について考察してみたい。
空騒ぎの色彩濃厚なパー券騒動
岸田政権は、いつ難破してもおかしくない状況の中で、なんとか越年したようである。もっとも、この先どこまでやっていけるものか、見当がつかない。つけようがない。
とはいうものの、筆者は日本共産党の機関紙「赤旗」が先鞭をつけ、テレビ各局が追随して騒ぎにした、安倍・二階派を中心とする自民党パーティ券の派閥を通じた販売やそのキックバック問題が、岸田政権を危機に導く主要な要因とは考えていない。あんなものは特捜検事が、扱うべき事件が見つからない中で、タダ飯を食っているという非難を免れるために己れの存在を誇示しようとして、10年に1回程度「事件」らしきものを仕掛けたうえでリークするのを唯一の材料に、騒動があってこそショーバイになる週刊誌や、左翼的偏見に立つ政治論のゴミ捨て場であるテレビのワイドショーが、得たりや応と大合唱してでっちあげた空騒ぎの色彩が濃厚だ。
そうはいっても、検事たちはメンツに賭けても多少の政治家を含む立件には漕ぎ着けるだろう。それを野党やテレビがお囃子方を務めて一場の政変劇の格好をつけるだろう。しかしそこまでは漕ぎつけても、裁判で厳しい法的要件を満たして最終的に幹部政治家にクロの確定判決が下ることは考えにくい。
かつての中曽根康弘の腹心・藤波孝生をヤリ玉にあげたあげくあたら若死にさせただけで、つまるところは江副和正という虚業家体質の男がブチあげた新機軸の「事業」のお披露目宣伝術の脱線を咎めただけの、尻切れトンボに終わったリクルート事件のレベルと、ほぼ同等の程度の話ではないかと思われる。リクルートがその後に企業として無難に発展していったのも、特捜検事の見立てがヒガ目に走り過ぎた劣悪さだったことを裏書きしたというほかないが、所詮空鉄砲だとしても検察の暴発の結末が裁判の手続きを踏み最終決着に至るまでには長い歳月が不可欠だ。岸田政権がそこまで続く可能性はない。
難破覚悟で退陣想定も後継難
年初のいま一応想定できるのは、暮れに編成した新年度予算を通常国会で成立させたあと、荒天に難破する体で春の然るべき時期に退陣を表明し、繰り上げ自民党総裁公選・新総理の国会指名、新体制下での解散―総選挙で人心と政界の一新を図るコースだろう。この場合憲政の筋としては、いかに少数劣勢だろうと野党第一党の党首に選挙管理内閣の首班を託して民意の審判を待つのが建前だ。
とはいえ「立憲民主党代表・泉健太首相」では突飛も突飛、ポンチ絵にもならない。この党で首相の座に座ってなんとか格好がつくのは、野田佳彦・枝野幸男・岡田克也あたりに限られるだろうが、いずれも使い古した半骨董品をホコリを払って物置から出してきた感が強く、これでは政権交代―解散―総選挙に打って出ても、手負いの自民党に返り討ちに遭うのがオチ、と見るほかあるまい。
しかしその自民党も、岸田の代わりが勤まる人材を探すのは容易でない。一応は萩生田光一か西村康稔あたりが数少ない候補に数えられていたのだろうが、2人ともあいにくパーティ券裏金疑惑の中心と目をつけられた安倍派の幹部で、この際の起用は考えにくい。いわゆる「小石河」、つまり小泉進次郎・石破茂・河野太郎の3人が、ロクな評価能力もないテレビ・コメンテーターが持ち上げるのが影響してか、世論調査の上位に毎度顔を並べるが、あるいは未熟の極、あるいは党内きっての嫌われ者、あるいは口ほどには実力が伴わない、といった難点が目立つし、自民党内の人望は揃いも揃って極めて薄い。
そこで、目先を変えて女性総理はどうだ、という声も出るが、高市早苗・小渕優子・稲田朋美といった、これまでもテレビで散見することがあった名前は、店晒しのはて古びてしまった。最近は上川陽子が林芳正と並んで筆頭候補の観を呈しているが、こちらはいずれも岸田派所属で、岸田が四面楚歌で退陣した直後では適切な後任とは目されにくい。
支持率をめぐる不思議な状態
こうなると、もともと予算成立後にすんなり下野する覚悟を潔く決めていたとも思えない岸田が、居直って秋の自民党総裁任期切れまで居座り続けるどころか、再選出馬を試みる可能性だって、ありえないとは限るまい。そのいけシャーシャーとした軽さが、むしろ岸田文雄という人物の持つ唯一の政治家としての資質といっても過言ではないからだ。
そもそも多くの世論調査で、岸田政権の支持率は自民党パーティ券のキックバック問題が表面化するかなり前から、危険水位とされる30%を切って、20%台後半が定位置の観を呈するようになっていた。それでも当時の自民党の支持率は、不支持の回答が軒並み50%をやや越すという芳しからぬ側面はあるものの、40%前後は一応維持していて、5%前後の体たらくに呻吟する立憲民主党や日本維新の会、ましてそれ以下の共産党・社民党やれいわ新選組といった雑軍とは桁が違っていた。岸田の不人気だけが目立ち、選手交替が強く求められているにもかかわらず、自民党内で肝心の交替選手に事欠いている、という情けない姿が続いていたのだ。
いまの自民党支持率は、20%を辛くも維持するかどうか、というところまで落ちているが、立憲民主党を筆頭とする野党の支持率も低迷したままで、上昇する気配はビクリとも存在していない。鳩山由紀夫・菅直人らの「悪夢の民主党政権」(Ⓒ安倍晋三)の記憶が10年以上過ぎたいまも有権者国民の中に強く浸透しているからで、支持政党なしと回答するグループだけが増えている。
そうした中で、もともと低かった岸田内閣の支持率はそれほど落ちていないという、不思議な状態になっている。その理由として考えられることは、当面の焦点であるパーティ券のキックバック問題では、安倍・二階両派がもっばら標的となったせいだと思われる。今後の成り行きはまだ不透明だし、最近では与党の一角の公明党や、政権攻撃の先頭を切る立憲民主党などにも、類似のパーティ券不正があるという情報があちこちで流れていて、どういう結末に辿り着くか、分かったものではない。それに加えて、新年元日に突発した能登・北陸大震災の復興対応が、もともと超無能なうえに最近はダイハツの業務不正を見逃したり、空港や河川整備の手落ちが指摘され続けたり、公明党大臣の指定席の感を呈してきた国交省で、さらなる重責を全うする能力があるか、という問題点が浮上してきた。自民党以外に曲がりなりにもこの国を統治・運営する能力のある政治勢力があるか、と問われれば、答えがノーなのは明白だ。
ジャニーズ問題と好一対の総理談話 それにしても岸田の支持率の低さは一貫しているというほかないが、その根源は彼の無能・不勉強の致すところ、実力不足のまま重いポストに就いた当然の結果というしかなかろう。「聞く政治」をモットーに掲げて発足したものの、看板に偽りありというか、羊頭狗肉というか、尤もらしいスローガンを乱発するだけで実質はまったく伴っていない正体が、誰の目にもはっきりと現れる一方だ。
経済学の素養があるとは到底思われず、もちろん実体経済でケの字の実績もないのに、「新しい資本主義」とブチあげて空回りする姿は、笑止千万というほかなかった。「異次元の少子化対策」も、はじめのうちは連立を組む公明党、というよりそのバックにいる創価学会の、とりわけウルサ型の婦人部あたりにせっつかれてやむをえず、という観も漂っていたが、そのうち求められる前から彼らに忖度・迎合して、みみっちくもケチくさい新趣向の施策や少額の給付割増・小幅の新規減税などを、財源の裏付けなど無視して際限なくバラ撒きを続けるようになってしまった。
たまたま昨年末に池田大作・竹入義勝という、昭和時代にそれぞれ創価学会・公明党を率いて組織・党の拡大に貢献するとともに、対毛沢東・共産中国との私的な交流を正式の国交成立までつなぐ裏のキーマンとしてもともに暗躍したコンビが、相次いで亡くなった。最近の20年ほどは互いに極端に不仲になっていたと伝えられるし、特にここ10年余の池田は重篤な病床にあったというが、彼の死去に際して岸田がわざわざ総理談話を出して、「世界平和に大きく貢献された」と持ち上げ、一新興宗教団体の総帥に対して政治的課題で評価するのは憲法の政教分離原則に反する、とネットの世界で大炎上した。
かつて大手芸能プロの総帥として無数の少年アイドルタレントを育成し、NHKから全民放までのテレビを完全に制圧・支配していたジャニー喜多川が急死したあとになって、集まってきた多数のタレント志望の少年を長年にわたり常に身辺に侍らせ、歪んだ性的嗜好の対象にしていたのが露見し死後裁判のような様相を呈した。その騒動の関連で、ジャニー喜多川急死直後に当時首相だった安倍晋三が、「日本人、ことに若者から(彼は)強く支持された」とテレビ記者とのいわゆるぶら下がりで立ち話のコメントを述べたのが、今頃になって仮にも一国の首相としてあるまじき軽率・軽薄な発言だと、そこは視聴率稼ぎでジャニーズに深く長く依存していたテレビやそれと系列を組む新聞が沈黙を続けるのと反対に、ネットで痛烈な批判・非難が集中した。今回の岸田の池田大作に関する総理談話はそれと好一対といわれても仕方ない。
終始低姿勢な「外交の岸田」
それはさておき、近来全世界規模で習・中国が国際法・国際的商慣習を破って自らの独善的主張に固執して領土拡張・通商支配を図ろうとし、米中・米欧の緊張を高めている。その中で、安倍内閣で外相歴を重ねた経歴を背景に中国と西側先進自由国家との間を取り持ち、内外に「外交の岸田」を印象づけようという意図か、彼が中国の強権的独裁者・習近平と会談する機会を求めたがる姿が目立っている。現にアメリカ大統領を別格とすればG7首脳では会談の回数が多いが、会談後の官房長官による日本人記者向けの会見などでは、習との会談でいうべきことを直言しているように述べられているが、実際に映像で見る限り、会談での岸田の立ち居振る舞いは、頭は下がりめ、腰も低め。まるで気迫が感じ取れず、見ている側が辛くなるほどひどい。これでは相手にナメられても仕方ないし、日本での岸田の評価も落ちることはあっても上がることはあり得まい。
岸田と同様に歴代の世襲政治稼業だった安倍晋三が売り物にしていて、世間の一部も持て囃していたアベノミクスを、筆者はかねがね異様・異常な低金利で怠け者の事業者を助けるだけの愚策、とまったく評価しなかったが、それでも彼には、改憲・対中強硬姿勢という右派政治家としての背骨をはっきり通す一面があった。それに対して自民党総裁選挙で安倍に負け続けた岸田は、僥倖に恵まれて望外の地位に就いたものの、なにをどうしようとするのか、在任1年半を迎えたいまでもさっぱり見えてこない。ただ目先の状況に対してだけ、それもテレビのワイドショーがトピックとして騒ぎ立てる微々たる問題の対応にのみ、明け暮れている印象しかない。
「池田勇人」への決定的な認識欠如
岸田自身は国会の施政方針演説の冒頭で経済!経済!経済!と連呼して見せたことが示すように、平成以降長期低迷を続ける日本経済の復活を、自らの政権の使命と考えているようだ。また彼は池田勇人が創始し、大平正芳・鈴木善幸・宮澤喜一と歴代の総理・総裁を輩出し、宮澤の最側近で近親でもある父親の岸田文武も属していた、吉田茂直系の保守本流「宏池会」の衣鉢を継ぐ存在と自負しているように見える。経済!経済!も、まずはベースアップ、賃上げを起点に消費を活性化させ経済成長につなげると、「月給二倍論」という大衆受けするキャッチフレーズをマクラに独特の論法を展開した、池田勇人の経済政策の再現を意識しているように見える。
だが岸田が「宏池会」継承者と自負する以前に、彼の「池田勇人」という人物の認識・評価に決定的な欠如・欠落・不勉強があるという強い印象を、筆者は拭い切れない。
筆者は1960・昭和35年7月に池田内閣が成立したとき、産経新聞政治部記者で最初の「池田番」チームの一人だった。64・昭和39年10月、東京オリンピック閉幕翌日に2か月ほど前から「前ガン状態」で入院していた池田が突然退陣したときは官邸長、社の総理官邸取材チームのキャップだった。1979・昭和54年10月の大平内閣成立当時は産経を退社して文化放送のニュースキャスターを9年務めた後、翌週からフジテレビのニュースキャスターに転じていたが、80・昭和55年6月の大平の急逝、後継の鈴木善幸首相が82・昭和57年11月に中曽根康弘にバトンを渡すまでは、テレビキャスターとはいえ社員の身分・拘束は受けないフリーの立場を保証されていたため、中立厳守の記者よりはいささか踏み込んだ位置で、総理とも政局とも接することができた。
決定的な、皮膚感覚の差
いうまでもなかろうが、「宏池会」とは岸信介政権が日米安保条約改定を成立させた代償として、政党・労組・マスコミ・学界・学生運動などの総左翼陣営が引き起こした大騒乱を収拾して退陣したあと、1960年夏に池田勇人が新内閣を発足させた機会に、国学者の安岡正篤が、池田派の正式名称として定めたものである。当初は政府を率いる池田から派閥を預かった形になった前尾繁三郎が会長を名乗ったが、もともとこの会は「池」の一字が示すように池田内閣一代のものであるはずだった。それが池田内閣で初代の官房長官だった大平正芳、3代目の官房長官だった鈴木善幸が総理の座に就くようになって、派閥名となって引き継がれてきたという経緯がある。しかし同じ系譜を継ぐ宮澤喜一が総理になった時代からは、明らかにこの呼称は政界でも聞かれなくなり、絶えてしまった印象があった。それを岸田文雄が長い空白を挟んで継承し、再興しようと考えるのには、一応当然視できる側面もないわけではない。
しかし率直にいって、違和感が大きい面も残る。それはつまるところ、池田勇人という政治家、そして大平・鈴木ら、池田を直接支えた後継者たちとの直接の接点を持たない、持ちようがなかった、若い世代の岸田と、筆者ら彼らと日常的に接してきた濃厚な記憶が残っている古い世代との、皮膚感覚の差ということになるのだろう。
宏池会との縁深き記者時代
筆者が記者生活を始めたのは1953・昭和28年の4月。したがってこの3月で満70年を過ぎ71年目に入ったことになる。スタートは産経新聞大阪社会部で、労基法クソ食らえ、シゴキあり、ただしパワハラ一切なし、という猛訓練を受けた修行時代。まずは大阪市西部のサツ回り、兼税関・入管を含む大阪港全域担当、兼八百八橋というほど川が多かった時代の大阪市の全域で発生するすべてのドザエモンも担当していた。その次に左の総評・右の全労会議が対立していた時代に決戦場といわれていた大阪の労働運動・左翼勢力全般を担当した。
大阪在勤6年余、59・昭和34年の夏に東京政治部に移り、まずかつて岡田啓介首相襲撃の2・26事件の現場にもなった旧・旧総理官邸の奥の、うす暗い隅っこにあった官邸記者クラブで岸信介首相番をし、すぐ60年安保騒動前夜の左右両派社会党の分裂・民社党発足を担当する野党記者クラブに回った。大阪時代から社会党右派の総帥格の一人で大正年代からの長い運動歴を持ち、新しく生まれた民社党を率いる立場に立った西尾末広や、やはり右派の闘将である西村栄一と親しかっただけでなく、当時は東京に国会の議席がなく、京都と大阪にだけ衆議院の議席があった日本共産党の、関西地方委員会の幹部たち、具体的には志賀義雄・下司順吉・多田留治らとも接触機会が多く、多田を通じて宮本顕治、学生時代から親しかった不破哲三らとも直接話ができる点を評価されて、大阪に引き続き、政治記者としての本職は社会・共産両党ということになっていた。
しかし政治記者の基本として、総理官邸には関係ない、とはいかない。そこで安保騒動が終わって池田内閣が成立したとき、新設成った旧官邸の独立した記者クラブで大平官房長官の担当になり、時には池田番も買って出て信濃町の池田私邸の番小屋にも夜分に結構詰めた。いま振り返ると左翼、ことに共産党に関しては数少ない専門記者として、フリーになってから数冊の著書を含め多く執筆をしてきたが、のちの宮澤内閣との関係も加えて宏池会との縁も極めて深かったように思う。
人物への渉猟的学習が不可欠
そうした右から左までの多くの政治家と接してきて学んだことだが、政治家ことに領袖級の政治家を担当するときには、生まれた環境に始まり、生育歴・学歴、ことに旧制高校など人間形成に深く係わった時期の友人たちとのエピソード、などから相手を知ろうとすることが不可欠だ。どこでなにをどういう立場でどうしてきたかという職業歴。その中での実績や逸話、もちろん成果だけでなく失敗体験も含めて。政治家になった経緯とその後の足取り。特に政党や派閥(あえて運動体や政策集団などとはいわない、より人間臭の強いもの)の所属・移動やその間に作られた多くの人間関係。敵・味方、信頼する同志と断じて許さない仇敵との、さまざまな風聞を含む秘話。そういったものを知ろうとする努力が不断に続けられなければならない。
そのために有効なのは、諸記録に克明に当たることは当然の前提として、本人の著作、書簡。断片的なものでも書き記したもの。家族・友人・経歴を重ねる中の同僚、そして側近や秘書に至る多くの関係者が意識的に、あるいはあまり深く考えずに漏らす逸話。こういった類いを渉猟することだ。そうした中で政治記者としての基本的な判断力がついてくる。もちろん、他の職業人でも、政治家志望の青年でも同様だろう。
ところが現に首相であり宏池会再興を志していると自ら公言する岸田文雄に、そうした形で池田勇人という人物について深く学んだという印象がない。不勉強だなあ、という感じしか持てない。これは問題ではないか。
自身を律する象徴としての事例
典型的な一つの例をまずあげる。池田に伊藤昌哉という名秘書官がいたことは広く知られている。彼は池田が宮中の認証式を終えて官邸に帰ってきた直後、総理在任中は料理屋への立ち入りは一切やめてほしい、と忠告した。池田には諸官庁に近い有名花街の築地に役人時代から行きつけの小さい旅館があり、そこで人と密談したり、ひとり沈思黙考することがあり、その習慣は続けたが、政治家として一派、一党を率いる立場になってから時に足を運んだ近くの著名料亭群には、伊藤の忠告を容れその後は一切足を踏み入れなかった。
貧乏人は麦を食え、といったとして国会で野党に責められ新聞で叩かれた池田だが、彼が自邸で食う朝めしはいつも麦めしだった。閣議の前には必ずひとり合掌し、それから議事に入った池田の真摯で愚直な本質を、伊藤はさまざまな形で活写している。その中でもこの話は、池田を語る場合には必ずといっても過言でないほど、広く知られている。
そういえば安倍晋三も、これは若いころからそうだったのかもしれないが、料亭に出入りしたという話も、ホテルで知人とランチしているという話も、あまり聞かなかった。彼なりに身を慎んでいるという気配が伝わってきていた。
岸田政権になって驚いたのは、新聞各紙恒例の「総理動静」に、彼が昼夜、やたらホテルのレストランで会食していることだ。料亭などとっくに潰れた当節、それに比肩するのはホテルのレストランの個室ディナーまたはランチだが、この回数が岸田はヤケに多い。この一事で彼の池田勇人という大先輩への敬意のほどが、そして池田理解のレベルが、わかるのではないか。続く。
(月刊『時評』2024年2月号掲載)