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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第142回】

ジャニーズ問題と連帯責任論の愚劣

~本質はあくまで個人の非道、吊しあげ・連帯責任の横行、欧米は協会・軍隊・寄宿舎、日本は伝統芸能・寺・神社、LGBT施策見直しも必要~

ジャニー喜多川による性加害事件は、個人的犯罪であるにもかかわらず、「記者会見」と称する自己顕示欲発露の場をはじめ、これまで商業利用してきたマスコミ、経済界が一様に社会正義の側に変わり身して責任を追及するのは醜態の極みと言わざるを得ない。さらに言えば、性嗜好に対する俗論に迎合する岸田政権にも大いに問題がある。

古今東西、人の営みの中で

 今回のジャニーズ騒動ほど馬鹿馬鹿しいものも、滅多にあるまい。

 そもそもあの事件は、徹頭徹尾、ジャニー喜多川という、極端に激しい異常な性嗜好を持つ人物の個人的な犯罪行為であり、人権侵害事件である。こうした異常な性嗜好は、最近では社会生活の底の底に押し込められて表面化することは少ないが、古今東西、人類の営みの中では隠微な形で、時に権力・権威の自己顕示な意図を伴いつつ途絶えることなく続いてきた。日本史では戦国武将の時代はそれが普遍化していた典型的な時期で、その代表格が織田信長と森蘭丸だろう。

 それならこの事件は、法治国家・日本として、当然に定められた手続きに沿って厳格に処理されるべきだ、というに尽きる。いかに異常・苛烈な犯罪でも、本人がすでに死亡した以上、刑事事件としては「本犯」の責任は問うべくもない。従犯・共犯者や幇助犯、あるいは別途周辺に模倣犯がいたか、いなかったか、それら関連事案の追及と、あるとすればその刑事責任の解明と処理が残る。

 それとは別に、民事問題の処理もある。この場合、加害者のジャニー喜多川が死亡していても、ジャニーズ事務所の株式をはじめ莫大な遺産を残したのだから、その相続人は相続した範囲内で補償責任を負わされる場合が生じうる。法治国家の建前としては、これも正式な法的処理の手続きによるべきで、まず被害者本人による補償請求裁判の提起、根拠になる物証、少なくとも事実関係を具体的かつ詳細に記載した訴状の提出があり、そうした証拠に基づく審理が、原則として公開法廷で当然ながら時効の確認を手初めに始まる。上訴を含めて裁判プロセスが完結し、確定判決に基づく補償が実行されれば事件終結だ。

 ただしこの種の事件は、テレビをはじめとする利害関係を持つ外部の企業・団体、さらにその構成員などの言動によって過度に世間の耳目を集めがちで、正規の法的解決に進めば被害者側に多大な精神的苦痛と経済的・社会的負担を伴うことが、目に見えている。公開法廷の裁判ともなれば、一部は裁判長の裁量で非公開になることがありうるとしても、少なくとも開廷前の裁判所には無作法を極めるテレビ・カメラや、表向きは偽善の塊というほかない「正論」を掲げつつ、実情は興味本位と情報商法の意図が歴然としているブラック・ジャーナリズム的なユーチューバーらが乱入して、騒ぎになることが当然予想される。そこで私的な解決金・慰謝料で解決する手法が採用されることが多い。

 この場合には時効の成否は必ずしも問題にならないが、判決に基づく損害の回復ではない私的な金銭の授受であるとはいえ、すでに一部のケースで正式に性的加害の被害者からジャニー喜多川に対する損害賠償請求の民事訴訟が提起され、確定判決が出て賠償が執行されている。したがって新規の賠償請求者の思惑・胸算用がどうであろうと、判例が基準になるのは法治国家として当然の筋だろう。

当初から正規の道筋存在せず

 この問題は本来そういう正規の道筋に沿って粛々・淡々と処理されるべきだった。ところがそうした見地は、事件発覚当初からまったく存在しなかった。存在したのは、ジャニー喜多川の過去半世紀を超える長い活動の中で築きあげられた「ジャニーズ文化」を、視聴率獲得のための手段としてさんざん利用してきたテレビ局による、自身に対する非難を免れようとする「ジャニーズ叩き」ともいうべき異常・異様な番組の乱発。それに便乗する興味本位でジャニーの性加害の具体的穿鑿や表面化していない「被害者」のあぶり出しを図ろうとする、ブラック・ジャーナリズム的な自称記者の暗躍。さらにジャニーズ事務所に所属するタレントたちを自社の商業宣伝の道具としてCMやさまざまな商品広告、販促イベントなどに利用してきた企業、およびその経営者の、多年のジャニーズを利用してきた正体を隠蔽する意図が丸見えの反射的な反応。そしてその姑息な動きを庇い立てようとする一部の経営者や財界団体幹部の、低レベルのモロモロの見当外れの発言。こういった副次的な要素が続々と発生して、内外・古今の社会で必ずしも稀ではない、異常な性的嗜好に駆られた人間が起こした個人犯罪にすぎない事件を、常軌を極度に逸脱した世間的な狂騒的状態にまで大きくしてしまったのだ。

共通資産の利用を逸脱した醜態

 ジャニーズ事務所による一件発覚後初の9月初めの「記者会見」、そして10月初めの再度の「記者会見」での事務所側の説明や対応はそれなりに冷静で、一部に世間の狂騒に煽られた面があるとしても、当事者とはいえズブのシロウトの対応としては、批判される要素はまったくなかった。問題があるとすれば、あの時点で事実を法的に切り分けて整理し、無知な質問者に筋道を立てて説明するまでには至らなかった、最初の記者会見の事務所側の弁護士の、プロとしての対応だろう。NHKを筆頭に全民放が勢揃いするテレビが、ごく一部分は最低限の定時告知やCMのために中抜きをしていたとしても、1回目は4時間20分近く、2度目はほぼ半分の時間にとどまったものの、それにしても記者を自称する多くの質問者が同じ主張を繰り返して自己顕示を図ったにすぎない「記者会見」を、延々とオン・エアしただけでなく、そのあとも解説と称する駄弁や経緯を説明する「ニュース」を繰り返し垂れ流し続けたのは、国民の共通資産である電波の利用に際して守るべき節度を逸脱した、不見識、大醜態というほかない。明らかに興味本位・視聴率優先の暴走であって、電波行政を預かる当局として、放送規律の保持の見地から、特にNHKを主体に、民放テレビ各社に向けても、個別に注意を促すべきなのではないのか。

会見で見て取れた無言の反論

 ジャニー喜多川が芸能プロダクションの主宰者として示した卓越した能力、志望して集まってきた少年の内に秘められた資質を掘り当ててスターに育てる特異な指導力の持ち主だったことは、疑う余地のない事実である。その実績と彼の性嗜好に、いわくいい難い隠微な関係性が絶無だったとはいい切れまい。しかし仮にそうであったとしても、彼が築いた成功の裏側で犯した個人的犯行に関して、たとえ彼の身内の同族会社の副社長や側近の役員だろうと、まして単なる従業員や契約タレントなどが、彼の性加害の連帯責任を問われる筋合いは、まったくない。

 最初の「記者会見」で藤島ジュリーは、姪として叔父の犯した罪の償いを負う覚悟はある、と断言した。たしかに前述した通り、民事上の問題で、相続を受けた肉親はその範囲内で遺された負債を償わなければならない場合はありうる。今後事件の一部が民事訴訟になって確定判決が出た場合に、被害賠償に関してこの「覚悟」が現実になることはある。

 しかし今回の藤島ジュリーの発言の真意は、肉親だからといって叔父が犯した男性として最も低劣な獣的性嗜好の暴発による所業に関して、無関係の女性である自分がなぜ責められなければならないのか、という無言の反論の側面が、その表情や語調から明らかに見て取れた。会見の場に詰め掛けていた多くの記者の中に、この微妙な、だが明白なニュアンスを、的確に汲み取って対応できる分別なり洞察力を持ち合わせる記者が、ただの一人もいなかったこと。仮にいたとしても、あの場で同僚・後輩を制して付和雷同的に連帯責任論に沸く議論の流れを押し止どめ、質疑応答を一定の社会的・法的常識の範囲内に戻すべく努力した形跡がまったく見受けられなかったこと。このていたらく、鈍感さ、発言の真意を的確に読み取って藤島ジュリーから追加の発言を引き出してより核心に触れた報道をしようとした記者がいなかった職業的練度の鈍さ。こうした点に関しては、新聞記者となって70年、それなりの経験を持つ業界の先輩として、見苦しくも情けない限りだ。

単なる業界向けの広報イベント

 そもそもあの「記者会見」自体、奇怪極まるものだった。筆者の知識でいえば「記者会見」とは、日本新聞協会が認めた記者クラブが、協会の定めたルールに沿い、記者クラブ員を対象として主催するものである。日本民間放送連盟とか外人記者協会とか、新聞協会が認めた関連団体の会員は、オブザーパーとして参加・傍聴できるが、基本的に質問はできない。当時もいわゆる政界誌・官庁別庁内誌・業界紙などがあり、政界ゴロや総会屋が記者会見場周辺に出現することはあったが、彼らが記者会場に入ることはなかった。

 今回のジヤニーズ事務所の「記者会見」には、無所属のフリージャーナリストや個人の屋号に相当する「局名」を名乗るユーチューバーと称する男女が、かなりの人数入っていたようだが、それならあれは「記者会見」ではない。ジャニーズ事務所側が設営した、業界向けの広報イベントというべきだ。その場合は事務所側が参加者を選別することも彼らの権利であって、たとえ新聞記者であっても外部の人間がとやかくいう話ではない。

 あの種の広報イベントを記者会見と美称するのは主宰者の勝手だ。しかしそうであるなら、招かざる客、来られては甚だ迷惑な相手を「NG記者」として選別するのも、彼らの勝手だ。報道と私企業の営業とは自ずから別物であって、公の記者会見ではない私企業の広報活動なら、報道の自由も記者の「聞く権利」もヘチマも、あるわけもない。

 そのけじめを明確に捉えず、もっぱら公の記者会見であるかのように報じ続けたのは、明らかにテレビ局・新聞社側の失態だった。日本新聞協会はいまからでも遅くないから、この区別を鮮明にして世間に説明し、誤解を解き、今後の誤用を防ぐべきだ。今後は仮にも「記者会見」を名乗る以上は異分子を参加させないように、そして日本のジャーナリズムの規律と秩序と良識をきっちり内外に徹底するように、注視しなければなるまい。

「記者会見」の権威を守るべき

 重ね重ねいうが、この事件はあくまでジャニー喜多川が犯した無数の性加害問題に尽きる。この極めて個人的な犯罪に関して、関係ない彼の家族や親族、会社関係者に対し付和雷同して集団的圧力を加え、暴力的に連帯責任を問うことは極めて不条理・不適切であって、それ自体も明白な犯罪的な行為だ。

 ジャニー喜多川が自身の完全な支配・管理下にあるタレント志願の少年に性加害を重ねていることを指摘する暴露情報が、過去に幾度となく世間に流れていたにもかかわらず、この点に関して見ざる・聞かざるの姿勢を保ち、ひたすらジャニー喜多川に取り入ってきたテレビ局員が、ことさら強い口調でジャニーズ事務所側や、所属タレント代表に詰問調で臨んでいたのは、笑止千万だった。

 ジャニーの性加害に気づかなかったのか。噂は聞きながら本人に事実関係を問い質さず放置していたのか。最初の記者会見ではこういう質問が繰り返し出たが、これは答えようがない質問を繰り返し続けて、相手側が事実関係を隠そうとしているという印象を視聴者に植え付けようとする、卑劣な手口だ。

 それ以上に、この問題をジャニーズ事務所に糺す責任は、テレビ業界人やジャニーズ・タレントをCMや掲示物、イベントなどで商業利用してきた企業人や、とりわけその経営者にもあったはずだ。それなのにジャニーズ事務所や所属タレントに連帯責任論を吹っ掛け、同調圧力を煽って事件の火の手の拡大を図ったのは、悪質だというほかない。

 そうした卑劣さ・悪質さは、マトモに記者を名乗るなんの立場も証明もないのに記者会見場に潜入し、盛大に発言し、あるいは発言しようとしたユーチューバーと称するブラック調の男女に、集中していたのではないか。そうだとすれば、あの場にいた正規の記者はその事実を明らかにして「記者クラブが開く記者会見」の権威を守るようにすべきだし、今後は「NG記者」との同席は、たとえ企業側の権限と責任で開く広報イベントであっても同席しない節度と自覚を持つべきだ。

財界人による迷惑行為

 正確にいえば今回のジャニーズ事件は、醜悪を極める個人的な性加害事件であるとともに、そのことによって彼が主宰していた事務所やその関係者が、非常識で非道な付和雷同的・集団同調圧力的な連帯責任論で集中攻撃された、汚名被害というべき巨大風評被害、事務所幹部が受けた集団リンチ型暴力被害、という二つの側面があるというべきだろう。

 テレビ局もなっていなかったが、ジャニーズ・タレントのファンに取り入って営業収益を上げようと、先を争って争奪戦を演じてきた、その手のひらを返すようにスポンサー契約を打ち切ろうとする企業――照れ隠し半分・弁解半分の逃避行為の正当化の口実として、ジャニーズ事務所のこの事件に対する「経営姿勢」の責任をことさらにいい立てる、日本航空・日産自動車・日本生命・サントリーを含むビール大手各社以下、有象無象に至るまでの無数の企業経営者も、醜悪を極めた。

 商業的打算に基づく企業の参入なしにジャニーズ事務所の興隆もテレビ人気もあり得なかったことは明らかなのだから、この際の彼らは世間に向かって閉口頓首しているべき立場、連帯責任が問われるときにはその末席に座っているべき立場であって、大きな口を叩くことなどできるわけがない。ところがなにをどこでどうトチ狂ったか、商社員からスーパー経営者を経て、創業者の鳥井信治郎=鳥井サン=サントリーが志した、本場スコットランドに負けぬウイスキーづくりを使命とする会社であるはずなのに、経営判断ミスで原酒不足に陥り内外の需要に対応できなくなった一方で、本筋を外れたジャニーズ調ともいうべき若者・子ども用の軽飲料や、効果のほどもよくわからないサプリメントなどで利益をあげているとされる、サントリーの社長でもある経済同友会代表幹事を筆頭に、多くの財界人がジャニーズ事務所はこの際解散すべきだとか、所属タレントは別のマネジメント会社に移籍して芸能活動をすべきなどと発言してきたのは、とんでもない迷惑行為だ。

 結果的にジャニーズ事務所が賠償業務のみに専念して、それなりの終結を迎えたあとは会社を清算して消滅させると、2度目の記者会見で自ら明らかにしたのとは別の次元の問題として、彼らの発言は大きなお世話、企業活動に対する不当な干渉というほかない。

 経済同友会とは、そもそもは高度成長スタート以前、まだ敗戦復興経済だった時代に、戦地から帰還して間もない、占領軍指令で分割させられた旧財閥系企業の若手課長クラス有志が、自然発生的に集まった組織だ。経済団体といっても、大企業が業種団体別に結集した経済団体連合会や、地域に根差す中小企業主体の都道府県別組織の商工会議所の統合団体である日本商工会議所とはまったく別の性格の、個人加入の懇親組織だった。その自覚に立ち、創設メンバーやその薫陶を受けた古参会員は、会の名に於いては政治的・社会的発言はいっさいしない姿勢を貫いてきた。そうした沿革・伝統も心得ないまま、同友会の歴史になかった会見を開き、新聞記事やテレビ・コメントをなぞる集団同調圧力的連帯責任追及論を弄していたのは、滑稽千万だ。

海外事例に照らしても異常

 異性間・同性間、大人による子供に対する蛮行、態様はさまざまだが、権力・財力・暴力を背景とした性加害は、古今東西、社会のあらゆる場に存在する、人間の世の宿業だ。ときに集団被害や多重加害を伴うが、それらは主に宗教・軍隊・教育、そして芸能界に特に顕著に発生してきた。一例を挙げれば、アメリカ各地でカソリック教会の司祭たちが、自分の勤める教会で日曜礼拝に来た信徒の少年・少女に対して常習的に性加害を働いていたことが露見し、多くの教会が機能不全に陥り社会問題化した。ヨーロッパにも糾弾の火の手が及び、ローマ教皇が火消しに奔走したものだ。世界最高とされるニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で、100年の歴史の中で初めてオペラの本場・ヨーロッパ人でない生粋のアメリカ人として総監督に起用され、長く務めた指揮者ジェームズ・レヴァインが、その権威・権力を使って多数の男女若手歌手に対し性加害を重ねていた点が露見し、地位を追われ、アメリカ音楽界から完全に追放されたケースもあった。

 しかし、だからといってカソリックを改名しろ、司祭という存在をなくせ、日曜学校なんかやめよう、などという議論は、どこにも出なかった。レヴァインは若死にしたが、メトロポリタン歌劇場はビクともせず、世界最高峰の存在を保ち続けている。それが当然のあり方で、日本の今回の状況は異常だ。

 日本でもかつては神職や僧侶の養成機関で慣習的な性加害集団発生の噂が広く流れていた。歌舞伎や邦楽、少女歌劇の世界ではLGBTのうちGとLで、風評が絶えなかった。子供が被害者になるケースは、内外を問わず珍しくない。ありふれた犯罪行為であるにもかかわらず、この問題が過度に露骨に表面化しなかった半面に、過度の被害者探し、とりわけ将来ある子供の被害者に対する第三者の興味本位の穿鑿は、セカンド・レイブにつななる虞れが強く、抑制的に扱おうとする良識が働いていた面を見落としてはなるまい。

 性にまつわる問題では、ブラック・ジャーナリズムはいざ知らず、社会に及ぼすデリケートな反響を軽視するわけにはいかない正統派ジャーナリズムでは、扱いが慎重になる。それが当然の職業的節度だ。性加害の被害者には加害者に対する強い加罰感情がある反面、事実を表沙汰にしたくない気持ちが極めて強いことも多い。そうした事情は、当局による事件処理でも多く斟酌される。テレビを含むジャーナリズムが、記者の個人的好奇心や局側の視聴率を意識した商業的意図でこうした状況に土足で踏み込むとすれば、最低の道義則違反だ。今回のジャニーズの「記者会見」の場の少なくとも一部の質問者の発言やテレビ・コメントなどに、そうした当然の配慮に著しく欠けるブラック体質が滲み出ていた。それを指摘し戒める声もなかった。これもテレビ業界の大きな問題点というべきだ。

日本古来の規範を消し去る現政権

 こうした社会的空気の一因に、岸田政権の性嗜好に関する、一部の俗論に迎合した余りにもナイーブ過ぎる放漫な政策姿勢がある点も、見落とせない。性の問題、性にかかわる社会的ルールは、必ずしも強制されるべきものではなく、無言の合意が自然にもたらす規範・規律でなければ、定着するのは困難だ。特に日本では、伝統的にこの問題は微妙なバランスに立つ複雑な暗黙の合意事項として、あからさまに表に出さず、その場その場の状況に応じ、場合によっては見て見ぬふりをし、言わず語らずのうちに落ち着くべき姿に決着させるという知恵を働かせてきた。その反面、性の問題は社会を律する大きな要因であるからこそ、ノーマル・非ノーマル・反ノーマルの一線を、世の中のけじめとして引いてきた。

 その一線を、岸田政権によるいまのLGBT施策は、消し去ってしまった感が強い。その背景に、国際化時代を反映して民族・地域や宗教なども絡まる性意識・性嗜好のさまざまな様相が雑多に国内に持ち込まれ、広がったこと。ネットなどを介して多様な性風俗や性情報が映像を伴って流れ、世相の少なくとも一端に反映されてきたこと。いままでは存在は知られていても日陰の存在だった性嗜好が、時代を象徴する多様化のシンボルのように持ち上げられ、世間の表通りを集団で横行する形になったこと。これらが作用していることは明らかだろう。

 しかしこうした状態は、そもそも社会の健全・安全なあり方としていいものなのか。この点に関しては、改めて偏った「人権派」中心の視点だけでなく、またいわゆる「国際規準」などとはかかわりなく、日本社会の伝統と低質の観点から、広く問題提起され、論議されるべきではないか、と筆者は考える。 

(月刊『時評』2023年12月号掲載)