2024/11/06
立憲民主が惨敗に沈んだ秋の衆院選は、改めて共産党と手を組む愚策ぶりが明らかになった。その一方、自民党への支持率が最も高いのが10代という、新たな条件変化を生み出した。この状況を踏まえつつ与党・岸田政権が長期命脈を保つには、対中姿勢の舵取りが大きなポイントになる。
政権獲得どころか・・・
10月31日に行われた総選挙は、大方の予測に反して自民党が単独絶対安定多数を確保、連立与党の公明党も微増した。政権交替を呼号し、閣外協力に止めてワン・クッション置いたものの、政権を獲得すれば閣外協力する前提で共産党と小選挙区の候補者調整をした立憲民主党は、圧勝して政権を獲得するどころか「思っても見なかった」(福山哲郎幹事長)惨敗に沈んだ。共産党も微減した。
絶対多数を制して政権を維持し、本格政権の構えで第2次岸田文雄内閣を発足させた自民党も、議席減を免れず、自民・立憲民主・共産が空けた穴は、国民民主党が微増、日本維新の会が11議席から41議席と、ほぼ4倍増で埋めた。立憲民主・共産の連合勢力と明確に一線を画す、と明言した国民民主は、野党の孤児となって衰退から消滅に向かうという大方の新聞・テレビの観測を打ち破り、微増とはいえ1桁の党から2桁党になった。発足当初は発祥の地・大阪の本音丸出しの非自民保守勢力として50議席台を得たが、しばらくは大阪限定の地域政党に逆戻りし、辛うじて2桁台の議席を確保していた日本維新の会は、本拠の大阪の小選挙区で全19議席のうち、やはり大阪を国政進出発足の地とする公明党の指定席4つを除く15の選挙区で、自民・立憲民主・共産を退けて完勝したうえ、北海道を除く全ブロックの比例代表で議席を獲得した。両党はともに反共野党だから、野党陣営の景色は大きく変容した。
民意の倦怠感と公明党のテク
この結果が示す民意は明白だ。開票結果を伝える新聞各紙が載せた、系列のテレビ局と合同で実施した出口調査の結果などを総合して筆者が思い浮かべる印象を列挙すると、
第一。投票全体から受ける判断として、有権者国民の間に自民・公明の連立体制に対する、飽きというか、倦んだ様相が窺われることは否定すべくもない。理由として考えられるのは、まず2年も続くコロナ禍に対するやりきれない感情を、とりあえず為政者にぶつけた面があるだろう。同時に、安倍晋三内閣の第2次から第4次にわたる7年8か月の長期政権と、それを官房長官として支えた菅義偉が直接引き継いだ政権の1年、都合9年近い一連・一体の構造と見られて仕方ない政権のあり方が、有権者国民の飽き、倦怠感を増幅させ、総選挙直前に岸田文雄内閣に選手交替したものの、尾を引いたのは間違いない。
有権者の政党支持傾向に大きな反応の変化が感じられた点も、見逃せない。とくに地方中核都市で目立ったが小選挙区は自民でも比例は維新、という投票傾向が出現した。自民党を支持する固い保守層で自公連立体制、とりわけ改憲に抵抗し、なにかといえばバラ撒き給付を主張するうえ、最近は幹部議員やその周辺にスキャンダルが続く公明党に批判的で、自民・維新への連立組み替えを期待する感情が徐々に拡散しているやに思わせる。
第二。そう見ると、維新・国民民主の前進は、単に小党が議席を伸ばした域を超える政治的意味を持つ。いうまでもなく自民党は、昭和30=1955年の〝吉田茂・自由党〟と〝鳩山一郎・民主党〟が〝保守合同〟したときから、敗戦後にアメリカ主体の占領軍が押し付けた現行憲法の改正・自主憲法制定を党是に掲げてきた。これに対し20年近く連立与党を続ける公明党は、護憲の旗を下ろそうとしない。維新・国民民主両党は、それぞれ改憲に取り組む姿勢をかねて明確にしており、総選挙中も、総選挙後の新国会に臨む姿勢を示す中でも、国会の憲法調査会の定例開催・活性化を打ち出している。自民党の党内力学の変化と連動して、久しく名存実亡状態だった改憲問題が起動し、政局構造にも変化を及ぼす可能性を軽視できなくなった。
今回の総選挙とそれを受けた第2次岸田内閣の施策の決定過程で、公明党がことさらに18歳以下に対する一律10万円バラ撒きに固執し、給付対象家庭に所得制限をつけようとする岸田・自民党に抵抗した。この姿は、維新・国民民主との連立組み替えの可能性を感じとって危機感を抱く公明党が、離れたくない男の本心を確かめるためにわざと無理難題を吹っかけ、受け入れるかどうかで男の性根を測ろうとする悪女のテクニックを、自民党に対して使ったようにも映る。
八方塞がりに陥った立憲民主
第三。その中で立憲民主党は茫然自失・五里霧中・八方塞がりに陥ってしまった。4年前の前回の総選挙直前に党を立ち上げた創立者で、幹部人事から政治方針まですべてをワンマン的に決めてきた枝野幸男前代表の路線選択が、完全に裏目に出たのだ。相手の共産党はなにぶん機関決定絶対・幹部独裁の〝無謬の党〟だから、結果が思わしくなくても、それは選挙した人民大衆が愚かだったせいで党の正しい路線を再検討する必要はない、とし路線修正も幹部の責任追及もない体質だ。
しかし立憲民主は枝野の主張によれば〝リベラル保守〟の議会民主主義政党だから、愚民の選択の責任など負えるもんか、と居直るわけにはいかない。実際に枝野は、開票の当夜こそいささか未練を残していたのか、歯切れの悪い発言に終始したが、翌日には、二者択一の小選挙区制のもとで政権奪取を目指す以上、野党が一本で対抗するほか手段はなく路線選択は間違っていなかった、と強がったものの、敗北の責任を取り辞意を表明した。陣立ては一新したが、しかし枝野とその周辺がほぼ一存で決めたとはいえ、唯一の強力な支持基盤の労組・連合を別とすれば、党内に異論も反対もなく決めた路線だ。小選挙区を中心に〝立憲共産党〟(©麻生太郎)体制で当選した議員もいる。逆に比例代表では、立憲民主が容共勢力と思わなかった、という批判を浴びて落選した候補も少なくない。
総選挙に続いて参院選が半年後に迫るが、こちらは衆院以上に、敗戦後一貫して共産党と対決してきた連合傘下の旧全労会議―民社党ブロック系の民間労組の織内候補として、票・運動・資金を一手に頼ってきた議員がいる。そこまではいかなくても、自前の組織整備が進まず、選挙区に工場を持つ大企業の労組票が頼みの綱の議員は多い。
常識の欠落が戦術に影響
もともと立憲民主党は、右は派閥政治全盛時代の自民党田中角栄直系のホープや若手実力者、左は社会党の中でも共産党より過激と定評があった〝新左翼セクト〟のOBと、本来いるべき場所から離れたり、居場所そのものが消滅したりして、吹き寄せられた議員の雑多な集団という観がつきまとっている。それを一つに纏めた紐帯が〝反自民〟だった。
ところが枝野の路線選択は、その一線でさえ、共産党と手を結んでも自民党政権を倒すと考えるか、共産党と組むくらいなら自民党と敵対しないと考えるか、という深い溝の存在を無視して、安易に決めてしまった。今回の総選挙でトヨタ自動車の〝城下町〟を選挙区とする立憲民主の前職が、自党と共産党の選挙協力が決まった直後に立候補を断念。労組員つまり社員は事実上自民党の支援に回ったケースがあったという。そこまで割り切るのは極端としても、労組出身か、そうでなくても戦後の労働運動に多少の知見があれば、連合の支援が不可欠の立憲民主党にとって、共産党は対決する相手であっても手を組む仲間ではない、というのは常識だ。その常識が弁護士出身の枝野には欠落していた。
さらに基本的に自民党を支持してきた保守層でも、創価学会―公明党ブロックに対する拒否感情が働いたり、護憲思想に立っていたり、一部の新聞の影響も作用してなんとなく〝安倍政治〟に虫が好かなかったり、さまざまな理由でしばらく旧民主党系に流れていた票もあったに違いない。それが今回は逃げ出した。もともと労組票が集まるとは思えない小沢一郎や中村喜四郎など、本来は自民党の二世議員である強力な古豪が、比例代表で辛くも議席を維持したとはいえ、いままでどんな逆風にも揺るがなかった小選挙区で落選した理由は、これ以外に考えられない。
改憲問題に関わる3つのポイント
こうした状況を踏まえて、今後の日本政治はどう動くと見当をつけたらいいだろうか。〝見当〟という曖昧な表現を使うのには理由がある。率直にいって確信を持って見通しを語るだけの根拠は、現役新聞記者生活を離れて半世紀、いまだに執筆を続けていても、足で稼ぐナマの情報や精密な最新データなど望むべくもない90歳を過ぎた老人が、昔取った杵柄で新聞記事中心に公開情報を吟味し、文字通り見当をつけて書いている、と自覚しているからだ。それが大方の新聞論調やテレビ・コメントの発言といささかニュアンスが違って、多少とも状況を見直すヒントになれば、60年も拙稿の連載を続けてくれる版元と、長い読者に申し訳が立つというものだ。見当といっても与党・野党それぞれだが、自公連立の与党体制には、改めていうまでもなく総選挙で3つのポイントが浮上した。
1つはいうまでもなく、維新や国民民主など改憲積極派の伸長だ。両党は自公連立の現政権に対して是々非々の立場で臨むと表明しているが、明白な野党であることに変わりはない。しかし長く与党の一角を占めながら、改憲問題では煮え切らぬというより消極の域を超えた否定的姿勢を示してきた公明とは、大違いの熱意がある。しかも両党を合わせた議席数は公明を10も上回ったのだ。
2番目に、総選挙に伴う新しい衆議院議長選挙で、自民党の細田博之が就任し党籍を離脱、党内第1派閥の旧細田派の代表が安倍晋三元首相になった。岸信介―福田赳夫―安倍晋太郎―三塚博―森喜朗―町村信孝―細田と続くこの派閥は、自民党最右派のタカ派といわれ、岸・福田・森に加えて派の領袖につかずに総理総裁になった小泉純一郎・安倍晋三の5人が政権を担った、歴史も力量も備える名門だ。しかし改憲に関しては、積極的に主張するリーダーと、建前は同じでも必ずしも旗振り役は務めない領袖に分かれた。
派閥創立者の岸は改憲派の総帥だが、女婿の安倍晋太郎は穏やかな性格も手伝い、党内外で賛否二分するこうした問題にあまり立ち入らず、その流れは三塚、森から細田まで、ほぼ引き継がれた。しかし晋太郎の息子で岸の孫である安倍晋三は、先祖帰りして改憲を強く主張した。とはいえ現職首相の時期は、憲法遵守を義務づけられる行政府の長として自ずから限界がある。原則論以上には大きく踏み出すわけにはいかなかった。
しかし派閥の領袖となれば立場は違う。改憲発議を職分とする国会議員を束ねる、それも第一院の絶対多数党の最大派閥を率いるという地位だ。野党の状況も大きく変わっている。野党の一角も加え、衆議院の改憲論議の舵取りをする責務を自覚しているはずだ。
改憲論議といっても、いきなり9条から始めることはありえまい。自衛隊が定着したいま、それを急ぐ必要もない。まずはコロナ禍を反映した非常事態対制が対象になるだろうが、これには維新や国民民主はもちろん〝加憲〟には賛成するとしてきた公明党も、世論の大勢に合わせ、自民党政権の一翼にしがみつく意図も込めて、賛同するだろう。共産・社会両党はいざ知らず、立憲民主も反対はできまい。偏向マスコミは多くの憲法学者とともに論議から置き去りを食らう可能性もあるが、それは身から出たサビというものだ。
自民党支持率最高年齢層は10代
さらに第3に大きな条件変化が存在する。いままで若者は護憲一色、改憲を叫ぶのは戦前にノスタルジーを感じる年寄り、と必ずしも明確な根拠はないのにそういわれた。しかし今回の総選挙を控えた世論調査や投票所の出口調査では様相が一変していた。
多くの調査を通じて年齢階層別の自民党支持率が最も高かったのは、今回初めて選挙権者に導入された18、19歳の10代だったのだ。20代、30代に向けて緩やかなカーブを描いて下がり、40代でガクンと落ちたあと50代も下向き、60代でまた下降し、それ以後は横這いと、ほぼ一致していたのだ。立憲民主党の支持傾向はこの裏返しで、若者や現役世代は低く、高齢層でやや上向いた。
なぜそうなったか。納得のいく解説記事やテレビ・コメントを見聞した覚えはないが、平成いらい下降線を辿り続ける日本に生き綴れる若い世代であればあるほど、経済と軍事の両面でまだ上昇過程が続くとされる中国に対する警官心・危機感が強いだろう。それなら日米同盟を不動の機軸に据え、対中姿勢にも厳しさを加える自民党に期待するほかにない、という判断になるのではないか。
逆に高齢者層は、ゲバ棒片手に学園紛争や高校騒動に走った青春期の固定観念がこびりついたクチから、ヒマ潰しのテレビ情報番組の偏向になんとなく洗脳された向きまで、いろいろだろうが、共通するのは中国の脅威など所詮ヒトゴト。日本がいずれ完膚なきまでに中国に威圧・圧倒されても、我が亡き後に洪水よ来れ、という気分なのではないか。
今回の総選挙前後の各種世論調査で目立つのは、改憲・対中、さらに選挙公約で各党が競争したコロナ対応の現金のバラ撒き給付策に対しても、若い層には古い表現を使えばタカ派的な感覚が高まる気配が見られる点だ。彼らは日常的に新聞を読まなくなったといわれて久しい。テレビ視聴率の個人調査でも、若者の低下が著しいという。彼らのニュース源は主にネットであり、社会的関心の〝窓〟はSNSだ。ここにはフェイクやデマも横行しているが、歯に衣着せぬ剥き出しの本音も溢れている。左翼偏向、よくても左翼選好が本音の一般メディアとは大違いだ。
筆者には無縁で不案内以前の世界だが、なにも筆者だけではない。政治の世界もご同類だ。それでも組織力が個人レベルまで届く共産党や創価学会―公明党ブロックは、その道に通じたメンバーを個人から積み上げて対応を構築できる。自民党には人数が多いぶん結構オタク的存在の議員もいるし、政権党だから所管官庁の助けを求めることも、資金力にものを言わせて然るべき業者を使うことも容易だ。しかし旧社会党もそうだったが、いまの立憲民主党も、新聞や週刊誌の切り抜き片手にテレビの国会中継で政府いじめをして顔を売る古い手口は熱心でも、新機軸には極めて不器用なのではないか。政策から運動まで彼らがすべての面で時代遅れ、賞味期限切れになった根源は、テレビ依存が過ぎたからといっていい。自分たちの手で基礎組織を構築する努力をせず、テレビが視聴率対策で操作する〝空気〟や〝気分〟や〝風〟に頼っているのでは、話にならない。
樹てるべきだった3段階の戦略
自民党はなんといっても資本力も店構えも品揃えもしっかりしていて、固定客の層も高級品を買う〝お帳場〟の客から地下の食料品中心の生活者層まで厚い、老舗のデパートのようなものだ。景気変動に伴う多少の浮き沈みはあっても、そこそこ安定経営ができる。創業100年が看板の共産党は、自前の店と資本をがっちり守り、一般には通用しない古色蒼然たる骨董品を少数の目利きを自認する客を相手に売買する、手堅い商法だ。公明党も限られた固定客に好みの商品を提供する専門店の趣がある。それに較べて立憲民主党はターゲットとする客層を定めず掴めず、したがって品揃えも中途半端にならざるをえない、商店街のスーパーのような〝業態〟だ。
立憲民主のようないわゆる中間政党にとって、小選挙区制で覇を争うどころか、生き残ることさえ容易でない。その意味では枝野前代表の弁にも、それなりの妥当性がなかったとはいえまい。ヨーロッパのように共産党が共産党と名乗らなくなり、リベラルを標榜する中間政党に衣替えしていれば、立共連合に一定の展望が開けたかもしれない。しかし日本共産党という政党は、西側自由社会の議会政党としてはすでに希少になった、特異の存在だ。そこと組むのには無理があった。
本気で自民党から政権を奪取しようと思うなら、枝野は今回の総選挙、続く参院選、次期総選挙までの、3段階の戦略を樹てるべきだった。辞を低くして国民民主・維新に選挙協力を求め、譲るべきは譲り得るところは得て、総選挙と参院選で議席積み上げを図る。その実績を踏まえて公明党に接近し、自民党との連立体制を崩して次期総選挙で共闘に持ち込む。共産党は当然蚊帳の外、が本筋だ。 ところが1選挙区最低でも1万、多いところは3万以上、平均2万は固いという共産党票との足し算計算に走り、連合を呆れさせて差し引きマイナスになった。いまとなっては覆水盆に復らず、維新や国民民主との関係は最悪だし、失われた連合や保守中道有権者との信頼回復も、簡単にはいかない。まして、もともと立憲民主に冷たい視線を投じていた多くの保守的有権者国民の支持を取り付けることは、とても無理だ。
本音では自民党との改憲連立を模索する維新・国民民主と、そうはさせじと手練手管を繰り出し現に連立与党の公明党 がシノギを削る中で、ポスト枝野の新体制の立憲民主が一丸となって今後の進路を決められるとは、到底思えない。早い話が、ポスト枝野の代表の座を争った4人の中で、1人だけモゴモゴとはっきりさせなかったのがいたが、共産党との絶縁を明言する候補はいなかった。この調子では、立共連携を続けようとする一群。前回と今回の総選挙の間に模様見をしたあげく立憲民主に入って見たものの、いまは国民民主に帰るか、入るか、する道を探る顔触れ。自身の知名度やこれまでの活動でそれなりのテレビ人気があるのを頼みに、当面は反自民の保守リベラルとして、1人1党的な気構えのグループ。とりあえずはその状態を続け、参院選後は状況いかんでは先細りのスピードを増す、ということになるのではないか。
岸田政権の死命を制する対中姿勢
野党がこの体たらくで自民党は安泰か、といえば必ずしもそういうものでもない。最初に述べたように、自公連立体制に対する有権者国民の目には厳しいものがあるからだ。
岸田内閣は、平成5=1993年8月の宮沢喜一内閣退陣いらい、28年ぶりに誕生した宏池会政権だ。創始者の池田勇人が岸信介内閣の後を受けて昭和35=1960年に成立してから、大平正芳・鈴木善幸・宮沢が政権を担った宏池会は、経済と対中融和が特色だった。岸田の掲げる所得政策は、高度成長論を〝月給2倍論〟と大衆的にわかりやすく説明した池田の姿が透けて見える。〝デジタル田園都市政策〟は大平の〝田園都市国家〟に、当世風のデジタルをくっつけただけだ。
経済成長と対中融和の路線は、田中角栄・竹下登に引き継がれた。この流れは宮沢が政権を失った後の細川護煕・羽田孜内閣、政権復帰した自社さきがけ3党連立・社会党首班の村山富市内閣を挟んで、田中系の橋本竜太郎・小渕恵三両内閣にも続いた。だが平成12=2000年の森喜朗内閣成立以降21年間、前掲のように福田赳夫系内閣が続いた。
大蔵官僚出身にもかかわらず経済政策に見るべき面のなかった福田の系譜の21年と、〝停滞の平成〟が必ずしも無縁とは思わないが、現に日本が世界第2位の経済大国の地位から転落し、経済も軍事も米中対決の時代に移ったことは、否定すべくもない。その中で古くから対中融和を伝統とするアメリカ民主党から出たバイデン大統領さえ、対中警戒を隠さなくなっている。こうした世界情勢の中で、〝分配〟〝田園〟はともかく、日米機軸を絶対原則とする自民党政権にとって、対中姿勢の舵取りを誤れば一大事になる。
反中・厭中に傾く世界情勢は、日本国内の世論の流れとも合致している。一方で公明党という対中融和どころか対中追随の著しい連立パートナーを抱え、中国の消費・労働市場から足の抜けない財界と歩調を合わせて成長・分配の経済政策を進めようと図る岸田が、対中姿勢でどう腹をくくって対処するか、そこが参院選を越えて長期政権を目指す岸田の死命を制するポイントになるのではないか。
(月刊『時評』2022年1月号掲載)