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俵孝太郎「一戦後人の発想」【第118回】

2021年は後世どう記憶されるか~コロナ・政変と総選挙・立共敗退~

 秋の総選挙では、野党や偏向マスコミによる政府のコロナ対応への無策が喧伝されたが、結果は立民・共産の敗退で終わった。しかも有権者国民のうち若年層は自民党支持率が高く、かつての〝革新信仰〟が残る世代はすでに高齢層だ。意思を表明する手段の豊富な若者が与えた影響は、過去の選挙になかった顕著な特徴だ。

一年遅れの影響が出た年

 2021年という年は、後世、どのような年として記憶されるだろうか。

 コロナ禍に揺れた年。第2次から第4次まで7年8か月続いた安倍政権の突然の投げ出しを受けて急遽誕生した菅政権の、在任たった1年の退陣による岸田政権の登場、そして4年ぶりの総選挙、という政局激動の年。2回目の東京オリンピックとパラリンピックが行われた年。だれもがこう答えるだろうし、それで正解だろう。加えて多くの人が、ロクな年じゃなかった、というかもしれない。

 だが、果たしてそういいきれるかどうか。そこは必ずしも確かでない。早い話、コロナの公式名称は、COVID-19だ。中国が2019年12月に武漢で最初の罹患者を確認し、さらにヒトからヒトへの感染を確認した、と公表したのに基づくが、その正確性・信用度には疑問が少なくない。武漢の市場で食料として日常的に売られるコウモリが持つ病毒ウイルスがヒトに感染したのか。それとも市内に複数存在している生物兵器としての軍事利用目的を含む有害ウイルス研究施設で培養していたこの種のウイルスが、過失または一定の意図のもとに流出したのか。いずれにせよ、中国・武漢が流行の根源であることに議論の余地はない。

 この事実に照らして、当時のアメリカのトランプ大統領を筆頭に、世界中で〝武漢ウイルス〟と呼んでいたのを、アフリカ・エチオピア出身の事務局長以下、一部の幹部が利権がらみで中国に対して追従姿勢を続けていると、かねがね国際社会で噂されていたWHO=世界保健機構が、メンツにこだわる中国の立場を忖度してこの名称にしたわけだ。2019年12月に感染が始まったというのも一種の隠蔽工作の反映らしく、実は10月、いや8月から、いやいや2019年の晩春には武漢で感染者が出ていた、という報告も現地の医療関係者のSNSなどで流れていたという。発生時期さえ不透明なのだ。

 この新型ウイルスによる呼吸器感染症は、まず中国からの出稼ぎ女工が多い服飾産業が盛んな北イタリアを皮切りに、ヨーロッパ大陸に拡散した。そして短期間で、正規・非正規の労働者や商人、さらに中国経済の好調を反映して急増する贅沢品の買い出しや観光目的の中国人旅行者などを通じて、イギリス・アメリカ、そして20年1月末の〝春節〟旅行で日本へ、と全世界に爆発的に広がった。

 このため、本来なら2020年夏に行われるはずの東京オリ・パラが、4月早々にIOC=国際オリンピック委員会と東京の組織委員会、そして当時の安倍内閣によって、異例の1年延期と決まった。それなら2020年が〝コロナ禍の年〟と日本で認識されても、なんの不思議もなかったはずだが、2021年にズレた。2020年は欧米を中心とする世界の大勢にくらべて日本の感染度はそんなに激しくなく、病原ウイルスが根源の武漢型からイギリス型・南米型などと変異を重ねつつ波状的に流行を広げる中で、日本は第5波とされた2021年夏のインド型の流行が、最も激烈だったから、1年遅れたのだ。

スペイン風邪も忘れ去られ

 とはいえ、毎度いうように欧米などの実情と比較すれば日本の〝被害〟は少なかった。コロナの流行がこの時点で終息していれば、2021年が〝コロナの年〟として記憶されても、当然といえよう。しかし、そうなるかどうかはわからない。これで終わるかもしれないし、日本に第6波がくるかもしれない。きたとしても、感染者数が高い山にならず、低い山を繰り返しながら、いつしか普通の季節性インフルエンザの一つのタイプとして埋没していくかも知れないし、別の凶悪な変異種が登場して猛威を振るうかもしれない。行く末を見届けた上でなければなんともいえない、というのが、長い人類史で繰り返された疫病流行の経験が導き出す教訓だ。

 前にも触れたが、1世紀前の〝スペイン風邪〟は、世界規模で見れば足掛け4年、実質満3年をかけて、3つの大波が襲った。四面を海という自然の防壁に囲まれた日本は、遅れてやってきた最初の波は小さく、第2の波が最も感染者が多く、第3の波は感染規模は大きくはなかったが死亡率が高かった。第2波では、当時の首相の原敬や政界の重鎮の山県有朋、病弱の大正天皇の摂政になった直後の皇太子裕仁親王、のちの昭和天皇も感染していた事実も、先に触れた。

 しかしいまは、そうした個々の感染例は、最高度のVIPの罹患でさえ忘れ去られている。そもそも〝スペイン風邪〟自体、コロナ禍と重ね合わせて取り上げられることはほとんどなく、無視されているのが実情だ。

テレビの扇動を示す好著

 誤解・歪曲を恐れずにいえば、2021年夏の第5波は、少なくとも多くのテレビや、その場に顔を出す〝ニュース芸人〟、〝専門家〟を含む電波井戸端会議の常連コメンテーターにとって、待ちに待ったものではなかったか。事件・災害が発生すれば、これをネタに騒ぎを大きくして視聴率を稼ぐショーバイのテレビにとって、当初コロナは笛吹けど踊らず、煽りに煽ってもなかなか火の手があがらなかった。それが〝大火〟になったのだ。

 京都大学大学院教授(都市社会工学)で安倍政権で6年間内閣官房参与(防災・減災担当)を務めた藤井聡、元厚生労働省医系技官でアメリカCDC(疾病予防管理センター)勤務経験を持つ医師の木村盛世が対談した、『ゼロコロナという病』という新書(2021年7月 産経新聞出版刊)がある。テレビや常連〝専門家〟ら関係者が、どのように視聴者国民のコロナに関する不安を煽り立て、病的というほかない群衆心理を醸成していったか。個人名やテレビ局名・番組名まで〝証拠〟を挙げて、小気味よく追及している。

 多くの人に本書を読んで貰いたいが、一端を紹介すると、2020年当初の時点で、以前にテレビ朝日系の「モーニングバード」の常連出演者だった木村は、後継番組の「羽鳥慎一モーニングショー」に継続出演依頼を受けたとき、スタッフに〝コロナの話題は長引きますよ、ガンガン煽って、ガンガン行きましょう〟といわれた、と証言する。同じころTBSの「ひるおび」も、〝政府の姿勢は手緩い、強力な緊急事態宣言を出すべきだ、と主張してほしい〟という注文つきの出演依頼を受けた。〝ガンガン煽る〟ような問題ではない、と冷静な姿勢を述べた木村は、前者の番組から即追放された。後者の番組は、〝そんな無茶な主張はできない〟と断ったにもかかわらず、経歴に照らして視聴者に対する説得力が強いからどうしても出てほしい、と執拗に出演を要請され、やむなく出演して反論すべくスケジュール調整を終えたら、やはりそういう考え方を変えないのなら出演しないで結構、と掌返しを食い、それいらいナシのツブテだという。

 この本は、大学人では京大の西浦博、神戸大の岩田健太郎、テレビの常連〝専門家〟では尾身茂、岡田晴恵、テレビ局員ではテレビ朝日の玉川徹らを名指して、具体的に何年何月何日にどの番組で彼らがどう発言したか、列挙している。西浦に関しては、2020年4月号から21年6月号までの間、『週刊文春』が西浦の名を麗々しく掲げ、〝告発60分〟〝直撃110分〟〝独白120分〟〝怒りの直言〟〝内部告発70分〟といったタイトルの長尺インタビューを、計12回、週刊誌だから5冊に1回ほどの頻度で載せ続けた事例を、結果的に極端な的外れだった西浦の〝予測〟の数々と、『週刊文春』がつけた誇張した主見出しを列記して掲載している。

ゼロコロナは、特に日本では無理

 これらから、テレビを筆頭に週刊誌などの大衆メディア、反体制を気取る〝リベラル〟系新聞やそれに追随する〝ガクシャ・ブンカ人〟などが、いかにコロナ禍を半ば政治目的で、それ以上に視聴率や販売部数をあげようという商業目的、あるいは出演料という日当稼ぎ気分で、利用しようとしてきたかの証拠が、歴然と見てとれる。

 藤井・木村は一貫して、コロナは新型の風邪の1種で、ゼロコロナというのはこの世から風邪をなくせというに等しい、と指摘してきた。コロナに対してPCRが万能であるかのように、とりわけ玉川らは主張し、立憲民主・共産などの野党も主張するが、PCRは似たような症状の患者を、コロナか別の風邪か区別する診断手段としては有効だが、予防や治療とは無関係だ、と強調してきた。

 いいかえると、感染しても無症状者が多いコロナは、共産中国のような強権国家で、PCR検査で陽性と断定すれば、症状に関係なく、もちろん人権もヘチマもなく、有無をいわさず拘禁して、彼が住んで活動していた都市全体を住民ぐるみ完全封鎖し、命令に反すれば厳罰に処す暴力支配ができれば、ウイルス拡散を抑える結果を生む可能性がある。しかし欧米先進国のような自由民主主義体制の国では、たとえ軍事対処・治安維持目的の戒厳法規を持ち、それを発動することができるとしても、侵略や叛乱、大規模テロや大災害はいざ知らず、コロナ対策のレベルではおのずから限界があり、PCRに予防手段としての効果を期待することはできない。まして日本のような、戒厳法規はおろか非常事態対処法制さえない、敗戦・被占領下で定着した弱体法制を引きずる国では、PCRを使った共産中国の真似なんかできるわけがないのだ。

 ゼロコロナは、ひところ立憲民主党の枝野幸男が声高に主張していた。総選挙を迎えて、さすがに己れの無知・非常識に気づいて恥ずかしくなったのか、その事実を否定しようと躍起になったようだが、いったん口から出た妄言が消えることはない。選挙で共産党と組むことをためらわなかった枝野だから、独裁的強権支配にはよほど魅力を感じているのだろうな、と合点するほかなかった。玉川や彼を使い続ける朝日系列メディアの思想傾向も、この同類と判断するほかない。

繰り返されつつある愚策

 コロナとの関連では、国民1人当たり10万円のバラ撒き、という超愚策が実行された点も、見過ごすわけにはいかない。念のため付言するが、生活困難者に公的扶助の手をさし伸ばすのは、コロナ禍に限らず、常に社会福祉政策の基礎基本である。それと全国民一律同額のバラ撒きとは、全然違う。それを2020年初夏に1回やって、多くは貯蓄に回り、一部は〝アブク銭〟を掴んだ気分の少数の若者の思慮を欠く行動によって風俗街発の第2波の誘因となり、政策的にはまったく無意味だったことが、明らかになっている。

 その愚策を秋の総選挙でも、与野党例外なく、多少の理性や思考力の差を反映して給付対象の限定や給付額の幅はあるものの、臆面もなく並び立てたのだから、その程度の低さと、有権者国民をここまで見くびった安易さには、呆れ返るほかない。財務事務次官が月刊誌『文芸春秋』に寄稿し、バラ撒き合戦、と批判したのは、職掌上当然の行為だ。

 読者はご承知と思うが、筆者は前回の国民一律10万円バラ撒きに強く反対し、当時の安倍内閣の閣僚・自民党国会議員が受給を辞退したのは当然だし、自分は独立不驥の言論人としての信念で妻とともに受給手続きに応じないが、いやしくも地方議員を含む各級議員・首長、国や地方の公的組織の管理職全員と有志職員、大企業の管理職と有志社員、中小企業の経営者と自営業主、報道・言論に携わるものは全員、そして福沢諭吉のいう〝独立の気力なき者は国を思ふこと深切ならず〟に共感するすべての国民は、非受給を選ぶべきだ、と本誌で述べた。また国の2020年度決算を見ると、前回の非受給者は1億2700万国民のうち40万人に止まり、人口・世帯動態や所在不明の単身者の増加を勘案すると、自発的な受給拒否者は、最低では5万人に止まると推測され、日本人の質的劣化は由々しき状態にきている、とも指摘した。

有権者国民のレベルの方が上

 今回の総選挙に見られた与野党の醜状は、この有権者国民あってこの劣性政党・政治あり、というほか、言葉もない。テレビが操作する〝世論〟というか、世間一般の空気が、国民・政治の総劣化の根源をなしていることも、痛感せざるを得ない。

 なにしろ解散を受けたテレビ朝日系の、各党政策責任者を集めた討論番組の司会を担当した、一応は政治記者の経歴を持つニュース担当者の第一声が、今回の総選挙の最大の争点はコロナに際しての国民給付のあり方だ、という愚劣さ、はしたなさ、なのだ。総選挙公示の前日に日本記者クラブが主催しNHKが中継した党首討論でも、バラ撒き公約が大きな議題になったし、それを伝える公示日の朝日新聞は、〝給付 首相は詳細語らず〟という見出しを一面トップに掲げて、各野党や公明党が、どうせオレたちは実施責任は負わないのだから、という気楽さで〝具体的〟なバラ撒き額を並べるのに、岸田がそこまでは踏み込まなかったと、いやしく、さもしい根性を偏向姿勢とセットにして、まことに分かりやすく示していた。

 総選挙の結果、万が一にも野党連合政権でも実現したら、首班になるはずの枝野は、かつての鳩山由紀夫が沖縄・普天間基地の問題で〝公約〟実現が完全に不可能とわかったときに、政権について勉強したらはじめてムリとわかった、といって逃げることを考えていたのか。どうせ勝つわけはない、とタカをくくっていたのか。そこはわからないが、いずれにせよ〝まっとうな〟姿勢ではない。

 先に触れた財務事務次官の〝バラ撒き競争批判論文〟の当否を問う、総選挙公示直前の世論調査があって、そこでは、当然とする回答が45%で、否定する回答をやや上回っていた。この世論調査が示す方向性といい、大方の予想に反して自民党が単独で衆議院261議席の単独絶対安定多数を確保し、長く野党でも〝禁じ手〟としてきた共産党との共闘を敢行した枝野幸男が率いる立憲民主党が、共産党とともによもやの後退を喫して、第2次岸田内閣が本格的長期政権を目指してスタートした選挙結果といい、テレビの〝ニュース芸人〟、日本記者クラブや朝日新聞より有権者国民のレベルのほうがずっと上だった、という事実を示す例証だろう。

ワクチンが遅れた日本的状況

 そもそも菅から岸田への政変にも、コロナに乗じてテレビや偏向新聞が大合唱ででっちあげた俗流世論が大きく作用していた点は、明白だ。再三に述べてきたことだが、日本のコロナ感染者数と死者数は、G7各国に較べてなんら見劣りするものではなく、むしろ最善の成績を示している。たしかにワクチン接種はやや遅れたが、これはかつてはワクチン開発・生産大国だった日本が、コロナワクチンは完全に輸入に頼ったこと。その背景に、ワクチンに残念ながら完全には避けられない場合がありうる副作用に関し、日本の裁判所がメーカーに対して厳しく製造責任を問うた結果、メーカーが開発・製造に尻込みするようになったこと。そして、世界的に大きな規模が求められるようになった新薬や新型ワクチンの治験に対して、これは人体実験だ、とする偏向マスコミや左翼弁護士などからの非難が拡散したため、国内メーカーの開発意欲が失われたこと。いずれも特殊日本的な状況が影響していることは明らかだ。

 菅は就任初期、ワクチン輸入に格別の力を注ぐ一方で、テレビの尻馬に乗ってワクチン接種の遅れを責める野党に対し国会で、野党は徹底的な治験でワクチンの安全を確保すべきだと主張していたではないか、そうしていたら接種はもっと遅れていただろう、と反論した。まことに正当な指摘だが、スネに傷持つテレビや新聞は菅の答弁を小さく扱い、前掲の藤井・木村の対談本が列挙するように専ら国民の不安を煽ることに狂奔した。

図に乗る野党への反論疲れ?

 テレビの情報番組を筆頭に、既成メディアでも怪しげな風説が公然と流布される時代である。SNSによって、〝情報〟や〝意見〟をだれもが自由奔放に、真偽取り混ぜて発信でき、それをだれもが野放図に拡散できる時代である。しかも甚だ信用が置けないSNS〝情報〟には、有権者に結構影響を与えるだけでなく、もともとシロウトのヤジ馬にすぎない〝ニュース芸人〟や視聴者の気分を反映する有象無象のコメンテーターも、ワケ知り顔で〝盗用〟していたりする状況にある。

 国際的な謀略から面白半分まで、フェイクやルーマーが横行する一方で、反論権やポリコレ(政治的正当性)の過剰主張で情報・言論活動が複雑怪奇さを募らせている。そうした中で政府側が国会などの場で公に誤りを正すことは、当然至極という以上の喫緊の課題といわなければならない。情報環境がいまとはまったく違う過去の時代に長期政権を保持してきた自民党は、〝カネ持ちケンカせず〟式の感覚も作用して、野党の無茶苦茶な国会質問に対しても相手のメンツを立てて、低姿勢で対応してきた。しかし3年4か月の民主党政権を経て返り咲いた安倍政権は、かなりきつい姿勢で、野党であれメディアであれ、反論すべきものに対しては反論してきた。

 菅も当初はこの姿勢を踏襲していたが、面倒臭くなったのだろう。寡黙な秋田人の性格も手伝い、いちいち対応せず聞き流しているうちに、テキは図に乗って、あることないこと、罵詈讒謗を極める。とうとう心がプツンと折れてしまった感じで、菅は突然の自民党総裁公選不出馬イコール政権の投げ捨て、ということになってしまった。

若年層に高い自民党支持率

 これで勝鬨をあげた偏向新聞と俗流テレビの連合陣営の鼻を見事に空かしたのが、総選挙での岸田・自民党の善戦である。これでしばらくは彼らも鳴りを静めるだろうが、いつまでも黙っている連中ではない。年が明け、新年度予算を成立させるのが最大使命の通常国会が終われば、参議院選挙だ。そこに焦点を合わせて、偏向新聞と俗流テレビは新しい攻勢をかけてくるだろう。

 もちろん、冬から来春にかけてのコロナの流行状況も、大きく影響する。この秋の鎮静で徐々にながら回転を初めた経済活動が順調に持続されるか。その成果が岸田が看板政策とする〝分配〟に行き着くには一定の時間がかかるとしても、危機対応のために締めていたサイフのヒモが多少とも緩んで消費に明るさがさしてくるか。そこが当面の注目点だ。安倍―菅―岸田と続いた政局激動に、本来あるべき政治報道の筋目も節度もかなぐり捨てたテレビ〝情報番組〟の世論操作が反映していたことは、はっきりしている。しかしこの傾向が、永続するとも思えない。

 今回の総選挙に際して行われた世論調査、投票所の出口調査には、いままで少なくとも顕著には見られなかった共通した特徴が、現れている。選挙法改正で新しく有権者になった10代を筆頭に、20代・30代の自民党支持率、裏返すと立民・共産への拒否感が強く、逆に反自民・〝革新信仰〟が残っているのは60代・70代だというデータが明確になった点だ。いいかえると、SNSを駆使して日常的に多様な情報に接し、互いに意見交換している世代は、デマや風説に流されやすい面はあっても、自分なりに判断し、情報を選択し、意見を表明する習慣を身につけていて、自由度が高いいまの政治体制に対する好感度が高いのだろう。

 とりわけ筆者が笑ったのは、半世紀前にゲバ棒を振り回して騒いでいた連中の口調そのままの立民・枝野のエンゼツに対する嫌悪感が、若者たちのSNSに満ち溢れている、というレポートを見たときだ。テレビはもはやかつてのゲバ棒世代である年寄りのヒマ潰しの道具に成り下がっていて、だから反自民・サヨク指向が視聴率を稼いているのだ、と納得がいった。

 テレビはそれでショーバイになるが、政党は若者に見放されては成り立つまい。その辺の判断を、立憲民主党の枝野執行部は、どのようにつけていたのか。

(月刊『時評』2021年12月号掲載)