2024/03/07
100年を超える歴史を有し、日本の物理、化学を牽引してきた理研こと理化学研究所は、今、日本で唯一の自然科学の総合研究所として、深刻な状況下にある地球規模の課題への解決に向け、知見、技術、設備等のリソースを融合・連携させている。進展著しい量子、AIなど最新の研究分野をリードしながら、幅広い叡智(えいち)を結集してよりよい未来を展望する五神理事長に、理研が目指す方向性と最新の研究動向を解説してもらった。
理化学研究所 理事長
五神 真
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――五神理事長は、2021年3月まで東京大学の総長を務めておられましたが、22年4月の理事長ご就任まではどのような活動を?
五神 その1年間は物理学教授に戻り、やり残したテーマなど研究に取り組んでいました。総長時代の6年間も毎週研究室のメンバーとミーティングを行っていましたし、論文発表も続けていましたので、研究に戻ることは自然でした。そこへ当研究所理事長就任のお話がありましたので、理事長に着任してからの一年間は兼務する状態でした。私は1983年に助手になって以来、約40年間ずっと東京大学に教員として勤めました。
理化学研究所のミッション
――理研は、設立100年超の歴史を有する日本屈指の研究機関ですね。
五神 はい、理研の原点は100年余り前、高峰譲吉博士が渋沢栄一氏に「これからの世界は必ずや機械工業よりも寧ろ理化学工業の時代になる」と説いたことにあります。明治維新以来の日本の殖産興業政策は重工業中心の産業復興モデルでした。理研が設立された1917年は、明治維新から半世紀が経ち、1914年に始まった第一次世界大戦の最中でした。当時、日本では西欧からの医薬品や工業原料の輸入が途絶し、それまでの先進国からの技術導入だけによる振興モデルの限界が意識されました。資源の乏しい日本は、模倣ではなく、独創力をもって自ら産業を興すべきであり、その駆動力として科学技術の重要性が認識されたのです。重工業から理化学工業へと産業構造を転換し、その発展を支える役割が求められていたのです。こうして、物理学と化学の基礎研究を行い、同時にその応用研究をする「純正理化学」の研究所として設立されたのです。
その後、幾多の困難を乗り越え、常に科学技術の最前線でその発展を牽引してきました。例えば仁科芳雄先生は現在の原子物理学の源流となるなど、多くの功績が現在に継承されています。これまで、物理学で日本は湯川秀樹先生や朝永振一郎先生など12人のノーベル賞受賞者を輩出していますが、その礎が草創期から構築されたということです。
―― 科学技術の発展に対し、100年前とは違った内容や観点から期待する声が増えているのではないでしょうか。
五神 まさしく、地球規模の課題に対し科学による解決、対応が求められる時代に突入したと言えるでしょう。数年にわたって全世界的にまん延した新型コロナ感染症然り、地球温暖化と連動する異常気象、水質汚染や廃プラスチックの問題、地域ごとやジェンダーなどさまざまな社会的分断、今般のウクライナ侵攻やイスラエル・パレスチナ問題に見られるような国際緊張の高まりなど、困難な課題に数多く直面しています。
ポツダム気候影響研究所長のヨハン・ロックストローム博士は、プラネタリーバウンダリーを提唱し、科学的な観測データをもとに〝地球が不可逆変化を起こして元に戻れないレッドゾーンに入りつつある〟と指摘しています。これらの課題はすべて、人類の行動に起因する問題で、その解決の道筋をつけることは現代に生きる私たちの責任です。手元の知識を俯瞰的に分析して再編し、進むべき新たな領域を見極め、新たな知恵を生みだし、いっそう豊かにする努力を続けなければなりません。
――このような深刻な課題を解決するすべはあるのでしょうか。
五神 経済学で「コモンズの悲劇」という議論があります。コモンズはコミュニティーが小さいと守ることが出来ますが、大きくなると、互いの牽制が効かなくなり、荒れ果ててしまう。これがコモンズの悲劇です。では、地球全体という、大きなコモンズを守るすべはないのか。
その解決の鍵はDX(デジタルトランスフォーメーション)にあると私は確信しています。
具体的には、例えば私たちがどこかで外食しようとするときなど、まずスマートフォンで調べ、そのデータを参照して自身の行動を選択・決定します。また、世界各地で起こっている事象を瞬時に、ほぼリアルタイムで感じることが可能です。このようにサイバー・フィジカル空間が融合した生活が定着した今、私たちは時空を超えて世界の人々をごく身近に感じられるようになりました。DXが地球を小さくしているのです。人類は皆、課題を共有する宇宙船地球号の一員だと実感し、遠くの他者と互いに感じあい、それをもとに人々が行動選択をする、その行動変容によってグローバルコモンズが守られるのです。個の自由と多様性を尊重しつつ地球と人類の持続への道筋をつけるというのはわが国が掲げるSociety5.0とも重なります。
――理事長は、そのSociety5.0が打ち出された第5期科学技術基本計画検討のための調査会の専門委員や、「未来投資会議」(2016~20年)の議員にも名を連ねておられましたね。
五神 日本は第5期科学技術基本計画の中で、第5の社会、「Society 5.0」を目指しますと言っています。しかし、その詳細はこの第5期科学技術基本計画の中にはほとんど書かれていません。
私もこの第5期科学技術基本計画を検討する調査会に加わっていましたが、Society 5.0という言葉は閣議決定のふた月ぐらい前に突然入ってきた言葉でした。実際にその内容は、第5期科学技術基本計画が走る中で具体化されていきました。例えば私が参加した未来投資会議でも、DXが明らかに重要であって、それをうまく活用することで、誰もが活躍できるという議論が行われました。Society 5.0は地球環境の持続性を求める中でインクルーシブネス、包摂性を前面に出した社会、経済のシステムなのです。
それは、知恵が価値を生んで、個を生かす社会、インクルーシブな社会になるということです。
例えば、北海道のような大規模農地を機械化して農業の生産性を上げるのではなく、都市周辺の小規模農地において、データを活用したスマート農業で、付加価値の高い作物の生産性向上が実現しています。未来投資会議では、それを実践している方が自分の作った野菜を持ってきて紹介していました。彼の農地は10アールぐらいの小さな農地がばらばらに散在していて、大規模集約化とはまったく違う方向ですが、気象をはじめとしたデータをうまく使って収穫の時期などを精密に制御して、非常にコストパフォーマンスよく高品質の農産物を生産しているのです。あるいは医療分野で、データを活用すればテーラーメード医療もできますし、遠隔医療やリモート手術も可能です。
鍵になるのはやはりデータ活用です。高品質大量生産モデルのときとは技術が違っていて、安いコストで一品生産できるようになれば、人が物に合わせるのではなくて、物作りを人に合わせ、個の多様性を生かすサービスが登場することになります。そのようなダイバーシティを尊重した社会がSociety 5.0なのだと考えればよいという議論をしてきました。
――デジタルが、グローバルコモンズの悲劇を解決する有効なツールになると。
五神 必須のツールではありますが、自動的になるわけではありません。世界にデータが広がるほど、一部の国や企業によるデータの独占、データを持つ者と持たざる者の格差など、新たな問題が表出しています。他方では特定の主体によるデータの集中管理が進み個人の自己決定権が大きく制約される監視・管理社会化が顕在化しています。まさにデジタルを使ってより良い社会、すなわち個人の自由で意欲的な活動を人類と地球の持続的な発展につなげるという新たな成長シナリオを描くには、これらの負の側面に挟まれた隘路を進んでいかねばならない状態です。この難所を切り抜けていくためには手元の知恵では足りず、従ってアカデミアはもちろん各分野から知恵を集結させていく必要があります。
一方、資本主義自体が一つの誤りであり、今後これ以上の成長を求めることは間違いだという議論もあります。
――やや極端な意見のようにも思われますが。
五神 私は、成長を放棄してしまうことには賛同できません。何故なら、解決に向けては常に知恵を出し続ける努力をしなければならないからです。それには意欲をもって知恵を集積していく活動が求められ、若者に未来は無いなどという議論が広まれば知恵の創出を削ぐことになりかねません。教育者としての立場にあればなおさらです。困難ではあっても皆で成長への道筋を歩み、インクルーシブかつサステナブルな社会を創出しよう、というのがSociety5.0の目指すべき姿となります。