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大石久和【多言数窮】

最も重要な判断ができない国

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 毎年、夏になると悲劇の沖縄戦のことや、広島・長崎への原爆投下が話題となり、亡くなった方々への鎮魂の祈りや不戦の誓いが行事として執り行われる。その精神は原爆碑にあるように「二度と過ちは繰り返しません」なのである。そうすると、われわれが問わなければならないのは「なぜ一度は過ちを犯してしまったのか」の筈だ。

 1945年4月30日、ヒトラーが自殺してナチスドイツは崩壊し、5月7日には降伏文書が結ばれた。この時点で最大の恐怖の敵が消えたのだから、アメリカは鋭意進めていた原子爆弾の開発を中断してもよかったのだが、むしろ加速していったのだった。

 それはすでにソ連との冷戦の兆しが見えていたからでもあり、日本が戦い続けていたからでもあった。トルーマン大統領は「原爆が完成するまで日本を降伏させるな」と言っていたという話もあるから、「原爆投下によって戦争終結を早め、アメリカ将兵の命の損耗を防ぐ」というのは単なる名目で、日本への投下自体が開発を急ぐ理由だった疑いが濃厚だ。原爆の実験成功は、1945年7月だった。つまり、ナチスドイツ存在時代には間に合わなかったのだから、投下対象は原爆開発のはじめから日本だった可能性が高いのだ(早くからドイツには投下しないと決めていたとの話もある)。

 サイパンが墜ちて日本の全域が米軍の空襲圏となり、現実に1945年3月には東京大空襲を受け10万人もの命が失われたし、日本中の多くの都市も、そこに住む人びとも燃え尽きていった。4月からの沖縄戦では日米双方で20万人もの人命を失い、沖縄県民の4人に1人という人命を毀損した。日本を守るために始めた戦争なのに、「本土決戦」を叫ぶという愚かな事態が日本人の命を吸い込んでいくように進んでいった。

 したがって沖縄戦の終了(6月23日)のはるか以前に、「もう敗北を宣言しよう」とならなければならなかったのだ。なぜ、それができなかったのか。それは結局のところ、敗北を決断する人がいなかったことに尽きる。なぜいなかったのか。対米戦を始めることを決意した人がいなかったからである。「私が開戦を決めました」と言える人がいないのなら、戦争終結を判断ができる人がいないのは、理屈からも当然だ。

 そんなバカなことがあるかという感じなのだが、戦前の国家指導者たちは、GDPが5倍以上もあって自動車生産能力が100倍もあるアメリカとの戦争に勝てるはずもないことはわかっていたのに、無責任にも全員が「もう戦争回避などと言える雰囲気ではなかった」と口を揃えているのだ。確かにアメリカは巧妙に日本を戦争へと誘導していったことは、今日いろいろな観点から検証されているし、真珠湾攻撃も予知していたという。

 それにしても「万に一つも勝ち目がない」のであれば、開戦は絶対に避けなければならない。しかし、愚かにも日本国内の上層部同士が醸し出す雰囲気が戦争を始めてしまったのである。これはコロナ騒動で見せた日本人の同調主義そのものだ。

 こうして政治家も軍人も意思決定をしないまま、毎日何万人もの日本人の人命を失いながら、また、二つもの原爆を落とされながら、ズルズルと戦争を継続していたのだった。(われわれはそれを昭和天皇に救っていただいたことを忘れてはならない。統帥権問題があったとはいえ、戦争停止という最も重要な判断を軍も閣僚も進言できなかったからである。)

 いま日本では、紛争などで日々多くの人命を毀損していっているという状況にはないが、急速な国民の貧困化と自殺の急増や少子化の進展に加え、世界経済における日本の存在が消えつつあるという第二の敗戦が確実に進行している。今回は財政再建至上主義がこれを生んでいるのだが、政治家が政策変更ができないというのは「戦争終結を決意できなかった」戦前と同じで「国民が貧困化しているが、今さら財政再建主義が間違いだったとは言えないな」なのだ。マスメディアが共同正犯だというのも戦前とまったく同じである。

 前回には示すことができなかったデータを少し見てみよう。総理は何度も賃金を上げるように企業に要請しているが、実態は以下の通りである。九州大学・相川清氏による資本金10億円以上の大企業の行動履歴である。1997年を100とした時の2020年値を示している。

経常利益 319 / 役員給与 132 / 設備投資 96 / 従業員給与 96 / 配当金 620

 なんと大企業は、政府がインフラなどの投資を縮小しているときに、歩調を合わせるかのように設備投資を減少させていたのだ。政府総支出の伸びはG7の中で日本が極端に少ないこともほとんどの国民は知らないから、企業の設備投資縮小の罪悪性もわからない。

 だからこそ、1995年にアメリカFRBのグリーンスパンが「日本は戦後初の本格的なデフレに入っている」と指摘したが、その後、恥さらしにも、世界歴史に例のない30年近くもデフレに沈むという愚かなことがこの国で起こってしまったのだ。そして株主への配当(近年、外国人株主が急増している)を、なんとも優しいことに6・2倍と大幅に増やしてきたのである。

 この設備投資100→96は、デフレ継続の大きな要因なのだ。そして従業員給与も減少させてきたのだから、国民の貧困化が進んだのも当然だった。労働分配率(企業利益の労働者への配分)はG7の中でも最低の59・3(フランス69・0 ドイツ66・2など)なのに、なんと、総理の願いをあざ笑うかのように、過去最高の企業利益にもかかわらず、2022年度には2年連続の分配率の低下となったのである。

 つまり政府・政治と同様に経済界がやるべきことをやっていないにもかかわらず、経団連は夫婦別姓や外国人移入促進という、国の形が変わるほどのインパクトがある政策導入なのに、アセスメントもしないまま間違った主張を繰り返しているし、経済同友会も同様だ。

 財政再建至上主義・財政均衡主義も「私が決めました」という政治家はいないのだろう。財政当局の説得に応じて財政再建を唱える政治家は大勢いるのだが、その結果に責任を取るところまで考えて決意したのではなく、いつの日か「説明に一応納得したに過ぎない」と言い訳を始めるに違いない。

(月刊『時評』2024年9月号掲載)