2024/11/06
多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。
政治を再建する、いくつかの方法
政治が国民の信頼を完全に失っている。パーティー券問題で自民党は大きく傷ついているし、野党も相変わらず揚げ足取りに終始するばかりで、どの政党も国民を幸福にするための意味のある政策提言など何一つできていない有様なのだ。
国民を豊かにできない政治は政治ではないと、ここでは繰り返し述べてきたが、何か根本のところでこの国の政治制度が間違っているのではないかと考えるようになった。そこで出会ったのが、表題とした『政治を再建する、いくつかの方法』(大山礼子・駒澤大学教授/日本経済新聞出版社・2018年)である。本書には、日本政治の閉塞状況の来る所以と、その処方箋提言がいくつも記載されており、是非多くの方にお読みいただきたい好著である。
その内容の一部を紹介して、一緒に考えていきたい。まず、教授は「内閣が提出した法案の9割以上が無傷で国会を通過し、成立しているということだ。これでは、国会審議には意味がないといわれてもしかたない」として、国会は重要な任務を果たしていないのではないか、と指摘する。
口角泡を飛ばすような派手な言論が展開されているようなのだが、そこには、わめき声だけが響いているのであって、法案の修正に至るような冷静で本質的な言論のやりとりはないということなのだ。まさに指摘の通りである。国会は演劇場ではないのだから。
また、国会質問についても指摘がある。「新聞用語などでいうこれらの質問は、正式には「質疑」とよぶもので、「質問」とは別物なのである。「質疑」とは、そのときに議題となっている事柄に関して、提案者などに対して疑義をただすために行われるものであり、これに対して、「質問」とは、議題とは関係なく、内閣の権限に属する事項すべて、つまり国政全般にわたって、内閣の説明を求め、あるいは見解をただす行為をいう」と述べている。
また、衆議院では1985年を最後に緊急質問は行われておらず、「国会の議場における口頭での「質問」は、もはや絶滅したといってよい」と指摘している(質問主意書はあるが)。「現在の国会では口頭質問がまったく実施されなくなっているが、議院内閣制下の議会で定期的な口頭質問の機会を設けていないのは、おそらく日本の国会だけ」となっているのは、「1955年の国会法改正により、自由討議に関する規定そのものが削除されてしまった」からというのだ。
この認識は、「予算委員会等の質疑が口頭質問の代用品になっている現状には、やはり問題があるのではないか」「委員会の審議にはほかの役割があるはず」で、「予算そっちのけで論戦に終始する予算委員会の現状は再考の余地がある」との考えから来ているが、指摘の通り予算委員会なのに予算の内容にかかる厳しい議論がまるでないように見えるのだ。
昨年の予算が参議院の予算委員会に回った頃に、その前年の国民の悲惨な自殺の実態が公表され、小中高の子供たちの自殺が過去最高になったとの報道があったにもかかわらず、これを防ぐための予算措置などについて、国会での議論がまったくなかったことが象徴的だ。
さらに教授は、世界の主要国の議会の中は、もはや日本のように古めかしい原則(会期制度)を堅持している国はほぼ見当たらないと指摘し、「こま切れの会期を改め、通年会期化することも検討すべき」なのだが、この「会期制度の改革を阻んできたのは、会期切れ・廃案戦術にこだわってきた野党の反対だった」と述べている。
このことと、教授が指摘している、会期末には審議途中の議案は継続審査の手続きを取らない限り廃案になるから与党は審議打ち切りで採決しようとし、野党は粘り勝ちで会期切れを待ち廃案に持ち込もうとするという戦術とが整合的なのだ。まさに、日本の国会では、「なぜ、こうした不合理な運営がまかりとおっているのだろうか」なのだ。
頻繁な衆議院の解散についての疑問もある。「政情不安定な途上国でもない限り、これほど頻繁に議会を解散する国はめずらしい」として、総選挙の実施には約650億円(2012年実績)もの国費が投入されており、頻繁な解散は膨大な税金の無駄遣いだと指摘。「解散は国民が選挙で選んだ議員を一斉に解雇するに等しい行為」であり、党利党略にもとづいた恣意的な行使は許されず、歯止めが必要だと述べているし、海外での解散権の濫用防止規程も紹介している。解散は、イギリスは5年に1度なのに日本は1・5年ごととなっていて、不安定な政治を生んでいる。
不思議なのは解散権の根拠である。不信任の69条解散以外は、天皇の国事行為に「衆議院を解散すること」とあり、天皇の国事行為は内閣の助言と承認によって行われるから内閣が解散できるという解釈になっているのだが、これは規定の逆用と言えるほどの不思議な理解であるように筆者には思えるのだ。この国事行為規定が濫用的な解散権の行使の根拠になり得るのだろうか。
パーティー券収入の使途が不明だが、日本の国会議員歳費の高さにも言及している。
「少なくとも先進国のなかで、日本の国会議員ほどの高給取りはほかに例がない」として主要国と比較。2018年現在、日本は約2171万9800万円、米国17万4000ドル、英国約7万7400ポンド、独11万4500ユーロ、仏約8万6500ユーロだという。円安の今では、ベラボーに高い感じはしないが最高レベルにあることは間違いがない。
ただし、日本でも文書費・秘書手当が約3800万円支給されているが、アメリカ下院の秘書手当などは、125万ドル~143万ドルと高額で立法作業に従事させているのが日本との際だった差違となっている。アメリカでは何十人もの議員秘書が立法作業をしている。
また、大問題と考えるのは、日本の選挙運動に対する規制の厳しさは少なくとも先進国の中ではトップレベルだと指摘し、公職選挙法は「べからず集」と呼ばれるが、日本では「すべての選挙運動を禁止したうえで、例外的に許されるものを列挙している」という。
外国人が一番驚くのが戸別訪問の禁止で、「選挙区内の住宅を候補者が直接訪問し、投票を依頼する戸別訪問は、諸外国では選挙運動の基本」なのに日本の一律禁止は過剰規制であると述べ、国連の自由権規約委員会は、日本の選挙運動規制に対して「政治活動の自由に対する非合理的な制約ではないかとの懸念を表明している」と紹介している。
日本の選挙制度は「角を矯めて牛を殺す」の通り、政治と政治家を抹殺してきたのだ。
(月刊『時評』2024年6月号掲載)