2024/11/01
多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。
皇室報道と敬語
「明日への選択」という雑誌の2023年8月号に、ジャーナリストの宮田秀一氏が、共同通信が「未成年皇族には敬語は不要」という非礼を働こうとしていると警告している。共同通信に「記者ハンドブック」という用語集があるが、2022年3月発行の最新版では「主語が未成年皇族の場合、敬語は不要」となったというのだ。
宮田氏は、かつてのハンドブックには皇室用語の扱い方として「敬語が過剰とならないように注意する」とあったのが、2008年には「主語が未成年皇族の場合、必ずしも敬語を使う必要はない」と新たな基準に変わり、そしてついに「不要」となったと紹介している。
また氏は、時事通信は2023年の「用字用語ブック」で「今後の天皇、上皇の死去の際には、『崩御』は使わず、『ご逝去』を使う」と明記したとも示している。
さらに朝日新聞は自身の世論調査で「皇室に関する新聞報道では敬語を使った方がよいか」と問い、「使った方がよい」が74%占めていたのに、これを無視し、朝日は北海道新聞、沖縄タイムスとともに記事には一切敬語を使っていない新聞だと紹介している。
これについて、朝日新聞は「敬語は皇室と国民の関係を『上下』とみるような気分を生み、『国民の総意に基づく』と定められた国民主権下の象徴天皇制をおかしくしないだろうか」と示したというのだ。
推測だが、共同通信や時事通信も朝日と似たような感覚で使用する用語を「敬意を表さない方向」に変化させていったものと考える。これは記事の中で皇室に敬語を用いる、読売、日経、産経、NHKとは大きく異なる姿勢である。
この皇室敬語や崩御の使用禁止の問題は、単に敬語の取り扱いの問題を超えて「日本の歴史をどう見るのか」や「長い歴史の全期間を通じて国民とともにあった天皇の存在をどう考えるのか」に関わる大問題であり、戦後GHQが原案を押しつけてきた現憲法に象徴天皇との規定があるからと思考停止する問題ではないと考える。
それは、前号で示した小堀馨子准教授が説くように、民主主義自体に思想的精神基盤がある訳ではなく、それを支える基礎として国民の宗教文化伝統があり、それは国家存立の基礎であるからである。現在の日本の政治や経済の状況や、政治家・経営者・大学教授など指導層でもあり知識層でもあるはずの人たちの様子を見ていると、この国は国家が立つべき基礎が崩れてきているのは確かなのだ。それは、彼らがあまりにも日本の宗教文化の根幹を理解できておらず、そのためこれを無視しているからなのだ。
明治を迎えることができて列強の植民地にならずに済んだのは、天皇の旗である錦旗を掲げて幕府政権を破ることができたからであって、この錦旗のもとに集まるということがなければ凄惨な戦いが繰り広げられた可能性があり、それは必ず列強の干渉を生んだに違いない。
鎌倉、室町、江戸と長年続いてきた武家の政治が可能であったのも、将軍の権威が天皇から征夷大将軍に任命されることによって保証されていたからであるし、平安時代の貴族政治も天皇の外戚になれたからこそ可能だったのだ。
奈良時代は紛争の多い時代であったが、ここでも天皇の存在が時代を回してきたのだ。神武天皇が実在だったのかとか、ルーツの天照大神など神話の話ではないかと議論する以前から、われわれ日本人は天皇の存在とともに歴史を刻んできたことは事実なのだ。
そもそも敬語とは上下関係を表すためのものではないのだ。三省堂の大辞林の説明によると敬語とは「聞き手や話題に上っている人物・事物に対する話し手の敬意を表す言語的表現」なのである。敬意の表現であって、上下関係の表現などではないのである。
皇室敬語は、歴史の始まりのところから国民とともにあった皇室と日本人の関係を鑑みた「わが国の歴史や昔からの日本人の長い間の生き様を象徴する宗教文化伝統」に対する敬意の表現なのである。皇室の人びとが偉いからだとか、われわれの上に立つ人だから、という理由で敬語を使っている訳ではないのだ。憲法が「象徴制」を入れたからなくなってしまうような浅いものなどでは決してないのだ。
特に、共同通信の未成年皇族の場合には使うに及ばずとは、何のことだかサッパリ理解できない。何か差別が生まれたり、被害を受けたりする人が出るとでも言うのだろうか。
皇室敬語の否定は、苦労しながら歩んできた日本人の歴史の否定であり、日本人が2000年以上もの長い間に積み上げてきた苦労や努力と功績の抹殺行為なのだ。
小堀馨子准教授は、また次のようにも述べている。
「日本人が『宗教』という言葉でひとくくりにして忌避してしまう社会現象は、実は倫理観・死生観・世界観など多岐にわたる多様な要素を有しており、それらは国民や民族の生き方に染みついている。宗教の存在は無視できるものではない。」
われわれは、彼女のこの指摘に虚心に向かい合う必要があると考える。民主主義とは思考の限りを尽くして生まれた純粋培養された思想ではなく、それぞれの国の民主主義は、それぞれの国の歴史や宗教的背景を基礎として成り立っているからである。
世界には王室を持つ国がいくつも存在しているが、誰かに祈らせるのではなく国王自らが祭祀をしているのは日本だけだと言われている。天皇は祭祀する世界唯一の存在なのである。
最近のガザの問題、パレスチナとイスラエルの問題は複雑な領土問題も大きな背景なのだが、ここには拭いがたい宗教的対立が存在する。この対立を抜きにしてこの紛争は理解できない。われわれ日本人から見るとまるで理解不可能な厳しい宗教対立が人びとを駆り立てている。数千年もの長い間、紛争に次ぐ紛争を経てきた民族は「命令する強い神」の存在を必然として、それをそれぞれに受け入れてきたのだ。
ここで示した皇室の敬語論を見ても、一部のメディアは宗教に基づく多様な価値観の存在をまるで理解できておらず、従って日本と日本人をも理解できていないことが明らかとなった。皇室敬語の否定の主張で、そのことが露呈してしまったのである。
(月刊『時評』2024年3月号掲載)