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大石久和【多言数窮】

祖父母の心を支えたもの

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 現在は、東洋大学で教鞭を執っている坂村健教授はかつて、「(日本人は)不安を抑える脳内物質セロトニンを受ける神経細胞のレセプターの量が遺伝的に少ないため不安に弱い」、しかしそのことが「慎重で責任感が強い日本人を生んだのだ」と述べたことがある。

 したがって、個人としての責任領域が明確になりすぎると力が発揮できないとも言い、そこでグループとしての責任を課すことで、助け合いが起こり見事な力を発揮するというのだ。

 まさに、高度経済成長は企業内におけるこうした「少数を単位とした責任集団」が数多く存在して見事な成果を収めてきたのだった。これを破壊してしまったのが、グローバルスタンダードと称したアメリカ流の、西洋人の力を発揮させるために生まれた方式を「企業統治改革」として持ち込んだことだった。

 こうして根無し草になったわれわれは、ただただ無目的に漂うだけの存在となってしまった。しかし、令和時代のわれわれはもう忘れてしまったようなのだが、東洋の小国が世界に存在感を示し続けてきた昔の日本を支えた祖父母たちは、何を心のよりどころとしてきたのだろう。

 一つは、このか弱い個人を包み込む村落共同体であったことは間違いないだろう。今の若者は「うっとうしい」と片付けてしまうに違いないが、それぞれの小集落への帰属意識…それは束縛も強いものであったが…こそが弱い個人を支えていたのだ。

 このことは、小さな区切られた狭い可住地しか持たない日本人特有の生き方だったのだ。このテーマも重要なのだが今後の別稿に譲ることとし、今回は仏教である。

 昔もそうでなかった人は多くいるけれども、祖父母の時代には現在よりも仏教が身近な存在であったことは間違いがない。ここで説くのは仏教の薦めでないことには留意して欲しい。

 日本人の勤勉性の高さについてはいくつもの説明仮説があるが、「勤労は仏への帰依」と考えてきたことも大きい。江戸時代に忙しく働かなければならない農民が「仏様に祈る時間もないから、われわれは極楽に往生できないのか」と問題提起したのに対し、「畑に一鍬、一鍬と打ち込むことこそが仏への帰依なのだ」と説かれ、これが勤勉への裏書きとなった。

 われわれの周りにはどのような仏がおられて、どのようにわれわれを救済しようとしてくれているのだろう。祖父母たちは何に帰依しようとしたのだろう。寺巡りをして記帳をしてもらう若者が増えているようだが、何を説いた仏様の記帳なのかを学ぶのは無駄ではない。

 法隆寺の金堂には、他の寺にはほとんど見られないことだが如来だけでも三体が安置されている。如来とは悟りを開いた最高位の仏様で、普通はお寺のご本尊として一体が祭られていることが多いが、この金堂には顕教(密教に対する用語・真言宗以外の教え)の代表的な如来である薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来が祭られている。

 ではまず、薬師如来とは何者なのか。この仏様は東、つまり太陽が昇り一日が始まる方向にある瑠璃光浄土という世界におられる仏で、この仏様はわれわれがこの世で病気などをせずに生きていくことができるように、薬を与えてこの世に送って下さった仏なのである。

 したがって法隆寺の金堂でも東側に安置されていて、古い様式だと薬を持たない造形もあるが、時代が下るほどに薬壺は欠かせなくなってくる。この浄土が瑠璃光浄土というので、瑠璃光という名を持つお寺はご本尊が薬師様であることが多い。

 真ん中に鎮座するのは釈迦如来である。仏教を開いた王子様が悟りを開いて如来になったのだから人間の生活空間の中心におられるはずで、だから東西の真ん中なのである。感覚的には、われわれは薬師様にこの世に送り出していただいて、阿弥陀様に迎えられるまで釈迦如来に導かれながら無事に人生を過ごしていくことを願うという感じだろうか。この釈迦がおられる浄土は無勝荘厳国というのだそうだが、ほとんど知られていない。

 さて、やがて人はその生涯を閉じるときが来る。その時に西方の極楽浄土からわれわれが地獄に落ちないように「望むのなら極楽にいらっしゃい」と駆けつけてくれるのが阿弥陀如来である。したがって、この金堂でも西側に安置されている。

 阿弥陀信仰が最初に盛んになったのは平安末期だった。釈迦の入滅後、時間が経つとその教えが衰える末法時代が来ると説かれており、この時代にその末法に入ると信じた平安貴族たちは恐れていたのだ。ある藤原貴族が臨終の際、手首に紐を巻きそれを阿弥陀仏と結んだというほどに、地獄への転落を恐れて極楽浄土に救済されることを願ったほどだった。

 阿弥陀信仰が庶民のものになるのは、平安末期の地獄のような悲惨な災害や飢饉によって民衆救済の宗教が必然となり、浄土宗の法然、浄土真宗(どちらも後世の命名)の親鸞が説いた称名念仏が広がった結果だった。それまでは仏教は国家鎮護の宗教だったのだ。

 阿弥陀仏はまだ菩薩時代(宝蔵菩薩)に衆生救済の48の願を立て、その中の18願に「もし人びとが極楽に往生したいと如来になった私に願い出ているのに、それがかなわないなら如来から降格してもかまわない」(筆者流の解説)と言って菩薩から如来に昇格したという。

 そのように説かれた阿弥陀様なのだから、それを信じて受け入れます「南無阿弥陀仏」(=阿弥陀仏に帰依します)と口に唱えるだけで(=称名念仏)、極楽浄土に行くことができるという簡単さ、つまり有り難さだったものだから、日常忙しく生活せざるを得ない民衆に救済の教えとして広がったのだ。ここには徹底して自力を否定し、ひたすら他力にすがることを本旨とすべしという強力な「他力本願」の思想がある。

 阿弥陀如来が極楽浄土に迎えに来てくれる様子を描いた来迎図という絵がある。古い時代のものは阿弥陀様がぽっこり浮かんだ雲の上に立っているのだが、時代が下るにつれ、その雲が後ろにたなびきはじめ、新しい時代のものほどスピードを上げて迎えに来る感じとなっている。「地獄に落ちる前に早く極楽へお願いします」というのだ。

 人が自分の力でできることなど、たかが知れている。すがるものが何かあり、それに守られていると信じることができるか。その安心が自分の努力を後ろから支えるのである。祖父母が持っていたその支えをわれわれは放棄してしまったのだが、それでいいのだろうか。

(月刊『時評』2023年6月号掲載)