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大石久和【多言数窮】

地方語喪失国・日本

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 スイスで高速道路を利用して移動した時に腰が抜けるというほどの驚きを経験したことがある。それは、高速道路の案内標識で用いられている言語が頻繁に変わることと、表示に用いられている言語が地域ごとに一つだけになっていることであった。

 日本に比べてもかなり面積の小さな国であるにもかかわらず、スイスには4語もの公用語があって、その言葉は地域別に見事というほどに使い分けられている。

 最も広く使われているのがドイツ語で、これはスイスドイツ語と呼ばれる方言のようなのだが標準ドイツ語もメディアでは用いられているという。人口シェアでいえば、このドイツ語が約64%、次にフランス語が約20%、さらにイタリア語約6%、スイス独特のロマンシュ語が約0・5%となっている。

 これらの言葉が、高速道路の案内にエリアごとにピッタリと対応して用いられているのだ。フランス語圏に入ればフランス語表示だけとなるという調子である。われわれ日本人の感覚では、64%もドイツ語圏が広がっているのなら、標準表記としてドイツ語があり、そこにフランス語圏ではフランス語、イタリア語圏ではイタリア語が並列表記されているとなるのが当然のような気がするのだが、そうはならずにフランス語圏ではフランス語しか表示されていないのである。

 公用語が4語であるなら、道路案内もいっそ4語で表示すればいいではないかとも思うのだが、そうなっていないのは圏域の公用語への強いこだわりの証明だろう。これでは生活上、不便に違いないのだが「自分とは何者なのか」を常に意識するアイデンティティーへのこだわりが使用言語への執着を生んでいるのだと考える。

 これは余談だが、日本では鉄道の案内表示などでも「日本語・英語・中国語・韓国語」の四カ国語での表記が標準とされおり、時間を追って順々に表示される場合は中国語や韓国語表示が終わらないと日本語表記を見ることができないという不便を生み出している。

 これは国土交通省の指導によるものらしいのだが、亡くなった葛西氏が仕切っていたJR東海ではほとんど意味のない四カ国語の並列表示は行われておらず、日本語と英語のみとなっている。これが当然でこれを日本標準にすべきものだろう。

 これを見ても、自国語へのこだわりがまるで希薄な日本であることが分かるのである。それはわれわれが日本人であることへの執着もないことを示している。

 スイスの地域言語へのこだわりと比較しても、日本人には民族アイデンティティーというものがまるでないことが分かるのだ。これは地続きの隣国を持たないところから来ている。他国民と自国民を意識して区別する努力がまったく不要であった長い歴史が「帰属意識」も「アイデンティティー」という言葉も持たない国を作ってきたのである。

 世界を見ると、驚いたことに自国内の地域言語を尊重する姿勢は、スイスだけのことではないのである。オランダという国はスイスとあまり大きさが変わらない小さな国だが、ここでもいくつもの地方公用語が存在している。北部ではフラマン語が使用され人口シェアは約58%、南部ではフランス語が約31%だが、ここでは多くの他言語も用いられているという。さらにドイツ国境付近では、ドイツ語が公用語だというのである。

 イギリスの言語の多様さも驚くばかりである。もちろんイギリス英語が最も広く使用されている公用語なのだが、サミットが行われたコーンウォールでのコーンウォール語、ウェールズ語、スコットランド語、アイルランド語などがそれぞれの地域での公用語だというのだ。

 ウェールズなど、イングランドと地続きで日本の感覚では日本の中国地方か東北地方という感じなのに、ウェールズ語は必修言語で英語は第二言語とする学校も多いというのである。

 これは「そんな国もあるものだ」でわれわれ日本人が片付けてもよい問題ではないと考える。特に戦後の日本は方言、地方言語を熱心に消滅させてきた時代だと言える。「標準語が使えないと恥ずかしい=方言しか使えない田舎者とみられることは嫌だ」という感覚は随分昔から日本人に埋め込まれ、それが同調圧力によって浸透していった。

 昔の流行歌には「何もない」と地方を嘆いたり「地方を捨てて東京に来た」ことがモチーフになっているものが多い。「生まれ育った地方(ふるさと)とは捨てるべきもの」との感覚が根深くわれわれに埋め込まれてしまったのだ。唱歌「ふるさと」で「いつの日にか帰らん」と願ってきたふるさとは、今や「帰るところ」ではなくなったのである。

 東京語、標準語しか使えない人ばかりの日本は、のっぺらぼうで特色ある地域を持たない国となった。なぜ、スイスもオランダもイギリスでも不便で仕方がないだろうに、それぞれの地域の言葉を大切に守っているのかと日本人は考えないのだ。

 地域の歴史が染み込んだ特色ある方言をほとんど放逐してしまったわれわれは、間違いを犯してきたのではないかとふり返る必要がある。国会議員定数について、ひたすら「10増10減」に走る愚を合衆国性を象徴するアメリカ上院の定数と比較して批判したことがある。

 この定数議論は、この国が特色ある地方を持ちそれぞれの地域文化を守り育ててきた歴史を冒涜する「憲法規定解釈の金科玉条主義」の典型で、方言の放逐とともにこの国の歴史と伝統文化をブルドーザーで押しつぶしているようなものなのだ。

 これは、日本人が「なりたい人間像」を失ってしまったことに原因がある。フランスの国歌が典型だが、フランス人は「フランス革命」を潰そうとした諸国と戦争を起こし、その時に革命軍を鼓舞する歌を作ったが、それが現在のフランス国歌・マルセイエーズとなっている。

 つまり、フランスには「こうなりたい国家・国民像」があり、その実現のためにフランスを構成しているのだという国民の自画像が存在する。これは、アメリカでもイギリスでも同様だ。

 しかし、日本にあるのは国家像のない「存続だけがわれわれの存在理由である」と歌う君が代の世界なのだ。それを地域への帰属意識で支えていたのだが、その地域は崩壊してしまった。地方を大切にすることができなくなった国に将来はないと断定できるのだ。

(月刊『時評』2022年10月号掲載)