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大石久和【多言数窮】

共感の強制・ゲシュタポ不要の国

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 共感の強制とは奇妙な表題である。一般に共感など強制されるものではなく、自分の意思と感覚で自然に生じるものであるからだ。ところが、コロナ対策としてのマスクの着用にしても、外出時に道路を歩いている時などは、それほど神経質になることはないと専門家からの話があっても、猛暑のなかほぼ全員が鼻までキチンと覆っている。

 これは共感というよりは同調の強制というべきものだろうが、同根の現象である。「人と同じでなければならない、人が感じたように感じなければならない」との強烈な強制がこの国には存在している。

 小さな話から紹介すると、テレビ番組では筆者が「顔小窓」と命名した画面の表示がある。例えば「美しい風景です」と紹介している画面のなかに、ゲスト出演しているタレントなどが、丸い小窓のなかで説明に頷いているところを見せている映像が頻繁に出ている。

 それが討論番組でなら意見を述べている人の画像が出ている時に、その人と対峙している相手側がどのような反応をしながら聞いているのかを視聴者に見せることに意味があると言える。「追求されて困っているぞ」とか、「余裕で受け流しているぞ」とかの様子を見せることは、番組の視聴者に討論の内容を感じさせたり考えさせたりすることになるからである。

 ところが、先に紹介したタレントの頷き映像は、「タレントがこう感じているのだから、あなたもこう感じなさい」という共感の強制以外の意味はない。日本では討論番組でもないのに「顔小窓」付き番組が氾濫して「共感を強いている」のだ。

 これ以外にも、お笑い番組などで会場での反応を実際以上に視聴者に示そうとして、観衆の笑い声を増量したりする「反応強制」番組は数多い。

 顔小窓などであるうちはほとんど何の問題もないが、マスクの着用強要に同調指向が作用するとかなり問題になってくる。さらに大問題につながるからである。それは何なのか。

 日露戦争時にアメリカに住んでいた朝河貫一(日本人初のエール大学教授)が1909年に「日本の禍機」を著し戦争以降の日本の満州での行動に対して、「このままだと中国の反感を買い、やがてアメリカを怒らせて戦争となり、日本は敗北することになるだろう」との注意喚起をした。彼の予言はわずか36年後に現実のものとなり、日本は廃墟となって敗北した。

 アメリカだけでも開戦時においてGDPが日本の5倍以上もあり、自動車生産能力が100倍以上もある巨大国に宣戦を布告して(同時にイギリスにも宣戦布告をしている)真っ向勝負を挑むという狂気に追い立てられたのだが、日本国民は戦前のナチスには存在した秘密警察ゲシュタポや戦後の旧東ドイツのシュタージのような組織に一人ひとりがギチギチに管理されて戦争に駆り立てられて行った訳ではないのだ。

 日本にも治安維持法や特高警察があり、国体護持のために無政府主義者や共産主義者を取り締まって危険分子を一掃するとの方針を立ててはいたが、何事も中途半端なこの国では、一般の国民が軍や政治から私生活の隅々までも厳しく監視されることはなかったと言える。

 東ドイツが崩壊して秘密警察シュタージが解散したとき、多くの人びとの私生活が監視されていたことがわかり、また普通の人びとが相互監視団を構成し密告をするシュタージの一員として活動していたことが明らかになった。人びとは「親しくしていたあの人に私は監視されていたのだ」ということがわかって人間不信となり騒動ともなった。

 日本でも大戦前には朝日新聞はじめとする新聞などが「鬼畜米英」とあおり「暴支膺懲」と叫んだにせよ、国力が桁違いに大きく、技術力ではまるでかなわないアメリカとの戦争を決意するところまで行ってしまったのはなぜなのか。ナチスドイツ秘密警察のゲシュタポもいなかったこの国で「超巨大国との開戦を決意する」ことがなぜ可能となったのだろうか。

 信じられないことに、これは非国民というレッテルを忌避する同調圧力が働いた結果なのだと考える。「全体の流れに逆らっている」との非難を極端に嫌がる性癖が、「流れに逆らっている反戦指向の連中」をあぶり出して厳しく攻撃する姿勢を生み、そしてそれに広範な人びとが付和雷同し消極的にも積極的にも支持したのである。

 このあぶり出し攻撃の力は、SNSにいろんな情報が飛び交い、人びとがそれにあっという間に流されている現在では、戦前や戦中以上の力を持つようになったと考える。

 そして、その大元にあるのは「お上には逆らわない」「お上とわれわれは別々の存在である」との抜きがたい思想をわれわれ日本人は持っていることなのである。最近の端的な証明は、電力行政失敗の責任は政府のみが負うものであるのに、節電要請に際して謝罪もしない政治に対し、国民からほとんど何の責任追及や反対の声も出ないことである。

 江戸時代以前から大名や代官は集落の自治にはまったく干渉せず、村請制による年貢の上納だけがつながりであった。大名は多くが国替えをさせられているが、人口のほとんどを占めていた農民側から見れば、自分たちとは何の関係もない支配者の交代でしかなかった。

 これは都市城壁の中での行政などに「公」の意識を持って責任を発揮した「市民」を生み、それが近代国家になったときに「民主制」と「主権者」という概念に昇華していった西欧諸国とは大きく異なる点である。別稿が必要だが、われわれが何事についても問題を「公的」に捉えず、個人的解決を指向するのもこのためなのだ。

 このことは、ここ30年近くの貧困化、経済の非成長と税収伸びの停滞、あらゆる分野で日本の地位の低下などに政治の反省がまったくないのに、国民が怒り狂うことがなく、デモの一つもないことに顕著に表れている。おまけに政治を監視すべきメディアは機能を発揮していないどころか、国民の貧困化を助長する報道を続けているのに不買運動もない。

 要するに、日本政治も国民もこの国を統治できていないのである。日本国憲法前文は「政治がもたらす福利は国民がこれを享受する。(大意)」と規定するが、この前文規定はまったく機能していない。最近の国政選挙でもこの憲法前文を守り抜く決意を持った政治家を有権者が選ぶことができたとはとても考えられないのである。

(月刊『時評』2022年9月号掲載)