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大石久和【多言数窮】

「日本語が危ない」が示すもの

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 定期購読誌「選択」が「ローマ字略語『氾濫』への辟易」を掲載したのは、2020年11月号であったからかなり前のことになるが、その傾向はますます酷くなっており、ここで心配が示された「日本人の『思考力退化』の表れ」という指摘は本質をついている。

 CX、DX、EXなどの用例を紹介して「カタカナ表記では長すぎて不便だったり、日本語に翻訳しきれなかったりする用語があるのは確かだが、実は多くは簡便な漢字表記も可能。(中略)結果として、物事を深く思考しない社会人が大量発生しつつある」というのは真実だ。

 DXという文字を新聞や経済雑誌で見ないことはないが、投稿者は「デジタル改革」で十分意味が通るではないかというのだ。DXという言葉は、本来「改革」や「仕事の方法を変える」ことに中心的な意味があるのに、デジタル化すればそれが改革だと間違った捉え方をされていることが多い。

 東京大学の松尾豊教授は、「いまの経営者にはお手上げだ。AIとITとの区別もつかない」とボロカスに言っているが、こうした経営者がDXと言っておれば「意味のあることを言ったことになる」との感覚で語っているような気がしてならない。

 普通に日本語で語っておれば深い知識のないことなどがすぐにばれてしまうのだが、アルファベットを使っておれば、何かを語っているという気分になれるというわけだ。

 かなり前にアルファベットの三文字熟語の氾濫への嘆きを、このコラムで示したことがある。今流行のSDGsやMaaSにしても、「これを知らない奴とは話せない」といった感じの仲間内を限定するための「隠語」として作用しているし、うがっていえば作用させようともしている。

 これは世間一般に使われている言葉をわざわざひっくり返した言葉にして仲間用語として用い、「これがわからない奴とは付き合えない」としたヤクザ用語の世界と変わらない。これは身内で閉じこもることを認知しあうための呪文なのである。

 何かを指す言葉としてアルファベットの洪水的使用実態は、以上に示したように「わかってもいないのに、わかったふりをせざるを得ない」というコミュニケーション断絶の会話を生んでいるが、これでは社会が進歩・前進するはずがない。

 ところが、ネーミングという意味では更なる大問題があるのだ。一つは企業名である。かなりの数の日本企業が日本語である「漢字・かな・カタカナ」を捨てて、英米語であるアルファベットを用いた名称を登記名として採用し始めている。

 国内で活動しほとんどの顧客が日本人であるにもかかわらず、アルファベットを用いているのだ。SOMPOやAGCにしても、日本国内向けの仕事がほとんどなのではないのか。なぜ、漢字やカナではなく日本語ではないアルファベットを用いなければならないのか。

 これは日本語忌避なのだが、その精神に日本および日本人忌避があると考える。明治大学の齋藤孝教授は「日本語消滅の危機」を説いているが、まさにそれに該当する事案である。

 NHKの年末の紅白歌合戦に出場する歌手の名前が、その半分もがアルファベットで表記されていることに衝撃を受けたことを以前にも記したことがあるが、これも日本語忌避なのだが、その本質は、さらに恐ろしい日本人の「日本国および日本人」の忌避なのである。

 1995年頃から、世界の先進国のなかで唯一まったく経済成長せず、ただひたすら国民の貧困化が進み、所得の上昇がないために国民負担率(所得に対する税と社会保障費負担との合計の比)は50%に迫り、江戸時代の農民の五公五民と同じという有様である。

 この貧困化の原因である非正規雇用は縮小の兆しはないし、そのために出生率は減少の一途をたどる始末なのだ。最近もコロナ禍の影響で、更に少子化が進むとともに婚姻数も大きく減少したと報じられた。婚姻数の減少は、近い将来の出生数の低下に必ずつながる。

 若い人たちが子供を持ちたいと思わない社会に明るい未来などあるはずがない。また近年の消費税の相次ぐ引き上げは、非正規雇用の拡大を助長するという大きな副作用を伴ったのだが、その指摘はほとんどない。

 この少子化、つまり日本人の消滅(テスラのイーロン・マスクも指摘した)という事態に対して、政治は「国難だ」というが、非正規雇用の減少を図る努力を何もしていない。

 大企業は検査の不正ばかりを繰り返しているうえに、このコロナで多くの国民が生活苦に呻吟しているというのに自社株買いが過去最高になるという株主へのゴマすりに終始して、従業員への給付の増大も設備投資もさっぱり増やさずデフレの継続に手を貸している。この「大企業経営者が無能であること」も大いに日本人の気持ちを萎えさせている。

 不登校の学童は増え続けているうえに、子供が親の介護や家庭の家事を担わなければならないヤングケアラーの存在も問題となっている。これらは生活の貧困化が引き起こしているのだ。

 「日本人であることをやめたい=日本語を放棄したい」と思う若者が増えるのも、当たり前ではないかと考え込んでしまうのだ。それは幼児虐待にも表れているのではないか。

 かわいいわが子であるはずの幼児への、いじめを通りこした残虐な仕打ちによって死に至らしめた事件の報道がこれでもかというほどに相次いでいる。この報に接すると、われわれ日本人は少数の子供しか持たなくなっただけではなく、もう子育ても出来なくなったのかと深い悲しみが湧いてくる。

 同様の事件は海外でも皆無ではないのだろうが、最近飛び込んでくる事件はあまりに悲惨だ。最終の保護者であるはずの父や母から命がなくなるまで卑劣な暴力にさらされる逃げ場のない小さな命の恐怖を思うと怒りで震えが止まらない。

 この親たちは、わが子といえども「子供は独立した人格であり、日本の次世代を背負う人間である」ことなどまるで自覚できていない。これもその基礎に無知と貧困がある。

 この国はこれからどうなるのだろう。日本の若者を先頭に日本語が放棄されつつあり、それは戦慄すべきことに日本人であることへの忌避が始まっていることを意味している。

(月刊『時評』2022年7月号掲載)