お問い合わせはこちら

大石久和【多言数窮】

ソロモン・アッシュの実験

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す(老子)

――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 標記は、心理学を学んだ人ならよく知っている1950年頃のアメリカでの心理実験で、「人はいかに同調圧力に弱いか」を調べたものである。この実験は紹介する人によって参加人数など若干の違いはあるのだが、筆者が学んだのは次のような実験であった。

 実験に応募した参加者を6人ずつのグループに分け、いくつもの実験集団を作った。そして、他のグループと隔離しながら6人の集団ごとに「ノートに記した線(線分)の長さ」を記憶してもらった。

 次に主催者が用意した別のノートを見せ、そこに記された「数本の線分と先ほど記憶した線分と同じ長さのものはどれか」を選んでもらったというきわめて単純な実験である。

 すると、すべてのグループで6人中5人が一致して「ある線分」を「これが先ほどのと同じ長さです」と答えたのだ。順番が最後の1人は、どのグループでもほとんどが5人に同調して「私もこれだと思います」と答えたというのである。

 ところが、任意の実験参加者とされていたはずの6人の内の5人は、実は主催者が送り込んでいたサクラで彼らは一致した意見を述べるように指示されており、最後に答えた1人だけが真の被験者だったのだ。5人も一致して同じ答えをされると、おかしいと思っていても真の被験者である最後の1人も多数意見に同調してしまったのである。

 実験後、真の被験者に感想を聞くと、多くの人は「実は、私はあれが同じ長さとは思えなかったのですが」と言ったのだが、実験室では5人に賛同したのである。

 これが同調圧力である。一人一人が独立的な判断をし、個人が自由に行動するような(とわれわれ日本人には見えている)アメリカ人ですら、このような他人に合わせなければならないとする同調圧力があったのだ。

 ということは何かにつけ集団主義で、全体の和を乱すなと日頃から注意を受け続けている日本人の同調圧力たるや、すさまじいものがあると考えるのが素直というものだ。アメリカのソロモン・アッシュの実験では参加者6人だったが、日本では3人の参加者の実験でもアメリカ以上の同調率になるのではないかと考えるのだ。

 つまり、たった二人でも「これだ」と言えば、三人目も「どうも違うな」と思いながらも簡単に同調して「私もこれです」となるのではないかとの懸念なのだ。なぜ、そう考えるかと言えば「個性の尊重」などが大声で叫ばれるのと裏腹に、この国は財政再建至上主義のように一つの動きにまとまってきて、多くの人が疑問もなく受け入れているからなのだ。そして同調主義が批判からの逃避の道具となっているのではないか、との心配なのである。

 最近だと、矢野論文が厳しく糾弾した「バラマキ批判」とそれに完全に同調している日経新聞を初めとする各紙の論調である。また、これで総選挙で消費税減税を掲げたはずの野党群も、選挙後その主張のトーンが著しく小さくなってしまった。

 みんなと同じであれば大丈夫、罪も追及も逃れられるという無責任がこの国を覆っている。

 一例に一般新聞の休刊日を見てみよう。1956年までは年に2日であった休刊日は、その後年々増加していった。1967年までは3日、1972年までは4日となり、2019年以降は毎月1回の12日となって今に至っている。

 愉快なのは、全紙の休刊日数がそろっているだけではなく休刊日がまったく同じで、「みんなで休めば大丈夫」の世界ができていることである。これを偶然の一致と考える人はどこにもいないだろう。

 かなり前のことになるが、産経新聞があるとき休刊日に駅売りの即売に挑戦したことがあった。宅配はしないけれども駅のキオスクなどでの新聞販売はするという大胆な挑戦だった。しかし、この時の新聞界の騒動はすさまじいものだった。産経は事前に販売日を予告していたから、その日には他紙は東京紙も地方紙も一斉に即売だけでなく宅配も行ったのだ。

 「みんなで一緒に」の世界に「僕だけ」が殴り込んだ形となったから、大騒動となって産経新聞は他紙からつるし上げられたのだ。この時の他紙が用いた産経への恫喝のセリフはヤクザが裸足で逃げていくほどの「酷さ」だった。

 こうして産経新聞は他紙からの攻撃に音を上げて、今では「みんなで安心立命」の境地で仲良く暮らしている。月に一度という高頻度で、国民は一般新聞からの情報をどこに行っても入手できない日を迎えるという世界でもまったく希有な国となったのである。

 このように、この国では「僕だけ」は絶対に認められないのである。わが国の強烈な同調圧力はコロナ騒動でも顕著だと感じるのは、ワクチン嫌いの日本人がかなり積極的にワクチン接種を受けたからである。

 混合ワクチンはかなり前に強制の予防接種から任意に変更されているし、子宮頸がんワクチン接種は副反応問題が起こったために政府は推奨しなくなり、イギリスの接種率82%、アメリカでも55%だというのに、わが国では0・8%という低さにとどまっている。そのため子宮頸がん死亡者数は、直近では日本が世界最大となって年間3000人にも達している。

 ワクチン接種には必ず副反応が伴う。リスクを確率現象として捉えることができず「絶対に安全か否か」という世界から抜け出ることが出来ないわが国では特に近年忌避され続けてきたのだった。二年も経っていまだに国産のコロナワクチンが開発できない原因もここにある。

 今回の本題ではないが、この絶対安全指向が反原発の基礎となっていて、結果的に電力エネルギーの安定供給を脅かす危険が生まれている。電力の融通ができるEUとは違うのだ。今年は冬の寒さが厳しいと電力喪失という悪夢を呼び込む危険が指摘されている。

 ところが、副反応が決してゼロではないのに、われわれは今コロナワクチンを懸命に接種している。これは、この国を支配する「強烈な同調圧力」の所為なのである。未知の恐怖の病を前に「ワクチンを打たずに、コロナにかかって他人を脅かす危険な一人」になることを必死になって逃れ、「皆と同じようにワクチンを打った人」になる決意をしたのである。

(月刊『時評』2022年1月号掲載)