2024/11/06
多言なれば数々(しばしば)窮す
(老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。
1994年に法改正し1996年の衆議院議員選挙から実施されてきた小選挙区比例代表制という選挙制度は、日本ではうまく機能していないのではないかと、最近、本欄で示したことがある。
選挙民(筆者も含めて)が「自分でこの人を選んだ」という感覚を持てず、むしろ「選ばさせられている」という感じを持ってしまうのと丁度うらはらに、議員の側に「選挙民に選ばれた」という感覚が薄いことが最大の問題であると考える。
1995年の財政危機宣言以降の財政健全化志向の政策選択によって、先進国のなかで日本国民だけが大きく貧困化しているにもかかわらず、政治の側から(与野党含め)「これではいかん、政策転換が必要だ」という声がほとんど出てこない原因がここにある。
選挙民は「なぜこの人が私の選挙区の候補者なのか」を理解できないのである。候補者の選定プロセスがまったくブラックボックスの中だから、選挙民から見ると「政党から押しつけられている」という印象で、つまり当選者が選挙民から遊離しているのである。
これでは投票率は上がらない。小手先の投票率向上運動などでは上がるわけなどないのである。投票率の低下は選挙制度の本質に関わる問題から来ているからである。
ここで、イギリスのマーガレット・サッチャー氏の議席獲得までの流れを追い、小選挙区制度の運用ぶりを確認して参考にしたい(サッチャー氏の自伝を参考にした)。
1925年生まれの彼女は、1947年にオックスフォード大学の化学科を卒業し、プラスチックの製造会社に就職したが、当時のイギリスは「イギリス病」を言われたほどに経済が低迷していた時代だった。
国営企業が多く、経済・財政が効率的に運営されていないことに危機感を持っていた彼女は、理系学部に在籍しながらも経済に関心を持ち、大学時代から新自由主義経済学の大親分ともいえるフリードリッヒ・ハイエクの経済学に興味を持って勉強をしていたのだった。
卒業後すぐの段階から保守党の国会議員になる決意を固め、党に申し入れたところロンドンの東の選挙区が提示され、まず、そこの保守党候補者になることを目指したのだった。
ここには5人の候補希望者がいたので、希望者は「15分のスピーチと10分の質疑」という試練を受けることとなった。自伝ではこの試練の場の公開程度がよくわからないが、後に示すのと同様に、選挙区の保守党の候補者選定委員会にかけられたと考える。この最も重要な「当該選挙区での候補者選定の公開性と独自性」が日本にはまったくないのだ。
そして、1948年にこの選挙区での保守党候補者に決まった。ところが、党が彼女にあてがったこの選挙区は労働党が非常に強く、保守党はいつも2万票もの差をつけられていた。
1950年24歳の彼女は選挙に臨み6000票も差を縮めたものの、あえなく敗北。1951年にも選挙があり再度挑戦して、さらに1000票縮めたがこれも落選。
いろんな苦労の曲折を経て、ついに1958年引退議員が出た北ロンドンのフィンチリー選挙区での候補者に志願することができたのだった。保守党が強い選挙区ということもあって、候補者志願者が非常に多く、なんと150人もの「候補者候補」がいたという。
彼女は長年スピーチの腕を磨き、紙を見ないで話す訓練をしたなどと書いているが、さらにスピーチの論理性や、強調の仕方、抑揚のポイントなどを習得する努力をしてきたに違いない。そして新しい選挙区の現場の事情を知る努力もしたのだった。
選挙区の選定委員会による面接の結果、最終的に4人の候補者にしぼられ、党支部の執行委員会の演説会に呼ばれ、地味な服装に留意して「幸運の首飾り」をつけ、満員の会場での演説に臨んだのだ。攻撃的な質問にも耐えた後、投票が実施され(投票者が演説会場の人びとだったのか、執行委員会なのかは書いていない)、一回目も彼女が第一位だったがここで二人が脱落し、二人で争う二回目の投票でも一位となって候補者となった。
1959年9月33歳になったサッチャーは、この選挙区で出馬し16000票もの差をつけて、見事に、そしてやっと保守党の国会議員となったのである。
居住地での投票を済ませてから、今回の選挙区に駆けつけ勝利を味わったのだった。(居住地以外で立候補することもわが国ではまず考えられないことだ)。
こうして後に、ハイエクに学んだ新自由主義経済学に基づく経済改革を大胆に推し進め、イギリスの再生を果たすこととなる「鉄の女」が誕生したのだ。
同じ小選挙区制度でも、候補者に課せられる試練の大きさが日本とは全然違うことがわかる。特に決定的に異なるのは党の選挙区の選定委員会が大きな権限を持つ分権型であることだ。これが本来の小選挙区制なら、日本のは党中央集権型の擬似小選挙区制度だ。だから、イギリスでは世襲候補者などあり得ないのだ。
サッチャーの経験だけで、イギリスでは以下のことができているなどとはいわないが、「国政を担う能力、識見、人格を備えているか」「自分の意思や意見を他人に正しく伝えることができるか」「人の考えをまずは虚心に聞き取ることができるか」などについて厳しい試練を経なければ、候補者にはなれないと感じるのだ。
日本でも「国政を担い、国家を預かるための準備と覚悟ができているか」を厳格、厳密に検査確認する作業が絶対に不可欠に思えてくるのである。小選挙区比例代表制を導入する時にその仕組みを入れ込むべきだったのに、それを怠ったのだ。
なぜかというと、中選挙区制には選挙区における候補者同士の厳しいせめぎ合いによる「(特に政権党の)候補者同士の競争と選挙区民による選別、淘汰」というメカニズムがあったが、小選挙区制ではそれを完全に喪失することに気付かなかったのだ。
コロナ禍で世界に曝した科学技術力の低下と、脱却できないデフレとコロナ不況の下で、世界で唯一愚かにも財政健全化を叫ぶという不思議は、この喪失から来ているのである。
(月刊『時評』2021年10月号掲載)