2024/11/06
森喜朗氏の女性に関する発言を巡って激しい議論が沸き起こったが、この事件でも実に底の浅い表面的な議論がメディアを占領したし、情けないようなパフォーマンスも登場した。
森氏は定員の40%を占める女性理事を減らせなどとは一言も述べていない。にもかかわらず彼を叩きまくるのであれば、2018年の東京医科大学入試での女性差別事件の際に女性問題について本質的な論議をしたのかと問いたいのである。
この事件は「明白な憲法違反事案」だったのだが、それをどこかが社説などで糾弾したりしただろうか。ワイドショーは憲法違反だと騒いだだろうか。日本国憲法第14条は「すべて国民は法の下に平等であって、性別により、政治的、経済的、社会的関係において差別されない」(一部省略)と規定する。
「女性だという理由だけで医者への道を閉ざす」のは明確で明白な第14条違反である。にもかかわらず、文部科学省は気でも狂ったか、この時「選抜方法は入試要項に記載すべき。条件を公開せず恣意的な運用をすることは望ましくない」とコメントしたのだ。
そのような入試要項は憲法違反で即刻回収に決まっているのだ。この文科省コメントは強烈に批判されなければならないがされたのか。日本で女性の登用が進まず世界で120位(156ヵ国中)と騒いでいるが、この入試差別問題に正対できないで何をしているのか。
フランスでは1996年6月に「女性と男性の平等に関する憲法改正」が提起され、憲法第3条に「法律は、選挙による公職と公選による公務に、女性と男性が平等にアクセスすることを促進する」と規定し、さらに第4条で「政党・政治団体は、第3条の最終項に定められた原則の実施に努める」と規定した憲法改正を行った。
これを受けて、2000年6月「公選職への女性と男性の平等なアクセスを促進する法律」が制定され、2001年の市町村議会選挙から実施された。フランスに女性議員が多いのはこうした努力の結果なのだ。
また、ドイツでは女性の不平等をなくす連邦基本法改正を1994年10月に行った。基本法第三条の第一項に女性差別禁止規定があるにもかかわらず、特に女性の不平等に特定して禁止した第二項を追加し、「男女は平等の権利を有する。国家は、男女の平等が実際に実現するように促進し、現在ある不平等の除去に向けて努力する。」という条項を設けたのだ。
日本はこうした努力を何かしたのか。国会議員はパフォーマンスをするだけでいいのか。フランスやドイツのような憲法改正に動かないのか。日本政治は何もしていないではないか。
こうしてわが国は、G7のような先進西欧諸国と価値観を共有できない国に堕落したのである。経済的にも先進国クラブから転落した日本は、国家は何を価値として追求するものなのかをアメリカ、フランス、ドイツといったG7の国々と共有できていない国となったのだ。
これは安全保障の観点からもきわめて危ういことだといわなければならない。なぜなら、いざという時G7などから「共に進むべき同じ仲間」と見なされないことになるからである。
ドイツではメルケル女史の活躍が長く続いている。かつてはイギリスのサッチャー女史が大胆な政策で国を牽引していった。欧州委員長のドイツ人のフォンデア・ライエン女史も大活躍しているが、彼女は7人もの子供を育てながらドイツ政界を泳ぎ切ってきたのだ。それが可能となる環境がG7には整備されているけれども、日本にはないということなのだ。
ハーバード大学の学生は男女半々だというし、ソウル大学も1990年代頃は女子学生が少なかったようだが現在では学生の40%が女性だという。ところが、わが東京大学はいまだに女子学生は20%に留まっている状態だ。
こう見てくると日本は女性しか持ち得ない価値観や感性を社会の中で生かすことが出来ていないことが明白だ。情けない政治の混迷を見ていると、何も出来ない男性陣に変わって女性陣に救ってもらいたいと切実に感じるのだ。
ところで、先のメルケル氏もサッチャー氏も理科系の出身である。2021年の東京大学合格者数を見ると、文系1227人、理系1766人(計2993人)となっており、国はこの国を運営するためには東大卒業生の59%が理系であることが必要だと考えていることになる。
また、2021年度の国家公務員総合職採用予定数(大卒程度)を見てみると、法律・経済など事務系260人に対して工学など理科系185人となっており、国は総合職に41・5%程度の理系人材が欠かせないとしていることを示している。
ところが、実態は「係長級」などには一定の理系・技術系人材がいるのだが、より高いレベルでの政策判断をすることとなる「審議官次長級」や「局長級」になると極端に減少し、事務次官級になると全省庁の中で「一人いるかいないか」というレベルになってしまう。
こうして新型コロナ関連の情報システムとして、「ジーミス」「イーミス」「ネシッド」「シーハス」「ココア」などが次々と企画され多額の資金を投入して開発したにもかかわらず、発注側に理解力も判断力もないためにシステムが使い物にならない事例が続出している。
この話には既視感がある。1985年頃に薬害エイズ事件が大問題となったことがあった。厚生省の生物製剤課長は1984年頃まで医学出身の郡司篤晃氏が務めており、彼の責任が厳しく追及されたのであった。その当時の彼の上司は「薬務局長」であったが彼はマスコミに対して、驚くべきことに「私は薬のことはわかりません」と述べたのだ。
「薬がわからない薬務局長なんてあるのか」との声が上がりこの時はかなり問題になったのだが、この薬務局長は後の裁判では専門的判断能力がないとして不起訴になるというおかしなことが起こったのだ。能力のない人間を担当局長にした責任はどうなっているのだろうか。
現在、この局長ポストは厚労省の「医薬・生活衛生局長」という名称に変わったが、現在も専門知識のある人材が薬務行政を指揮してはいない。東京大学の川原圭博教授は、今回のCOCOA事件について「行政経験しかない職員が高度な判断をするのは無理」と述べているが35年前の風景そのものである。
(月刊『時評』2021年8月号掲載)