2024/11/06
いまの日本は表題としたような会議や委員会に社会や企業としての意思判断を委ねてしまっているかのように、外部有識者から成る委員会ばやりである。しかし、それでいいのだろうかと疑問も多い。企業の不祥事などに際し頻繁に設置される第三者委員会なるものの結論のその後の取り扱いなどを見ていると、「主体者の無責任体質」がわが国では極点に達した感がある。
「責任の所在が不明」「責任を取る人がいない」というのは昔からの日本の特徴で、ノモンハン事件以前から第二次世界大戦の敗戦に至るまで、作戦の失敗が続いてきたにもかかわらず責任を取った人はまずいない。特に司令官クラスでは皆無と言ってもいい。
日本人を3万人以上も殺す結果となり、白骨街道を生んでしまった先の大戦末期のインパール作戦で、作戦の立案者で現地司令官だった人物は何の責任も追及されることなく、戦後も長く生きながらえていたのだ。
コロナショックのいまも、いろんな施策が混乱のなか進められているが、「誰がいつどこで何を決めたのかわからない」と批判されている。責任を取る者が存在しない事態になっているのだ。
わが国の経済や財政の司令塔として機能することが期待されている経済財政諮問会議というのがある。ここの民間議員というのが、よく政策の提案を行っている。最近もコロナショックの直前に「官民の病院あわせて13万床の病床の削減を行え。加えて病院の統廃合をせよ。」と提言したが、コロナショック最中のいまこれを言い出せば大変な騒動になったことだろう。
メディアもこれを大きく報道したのに、わずか数ヶ月前にはこのような議論をしていたことなど誰も指摘もしないで知らん顔を決め込んでいる。提言はいまだ実行されていないが(されていたらとんでもない医療崩壊を経験することになっただろう)、この提言責任はどうなっているのだろう。
責任を追及もしない国・日本の面目躍如ということなのだ。多分、病床削減を提案した民間議員(選挙で国民に選ばれてもいない人を議員という呼称することはトンデモ級の誤りで、これは日本人と日本語の劣化の象徴だ)は、自分でデータを整理して考察したりしてはいないのだ。
経済学者と企業経営者から成る民間議員が、病床数を議論できるほどの医療に関する専門知識を持ち合わせているとは考えられない。なぜこのような断言ができるかといえば、不思議な経験をしてきたからである。
小泉純一郎内閣はこの諮問会議を多用したが、ある時、民間議員が「インフラ整備は抑制せよ」との提言をまとめたのだ。たまたま企業経営者であった民間議員とは知り合いであったので、「インフラの整備水準が他の先進国から大きく劣後していることはよくご存じではないか。是非、修正をお願いしたい。」と述べたのだ。
返ってきた答えが衝撃的だった。「あれは僕には直せない」というのである。では、この民間議員提言の責任者は一体誰なのか。この提言を受けて防災インフラの整備を抑制して災害で国民が亡くなった時、責任を取るべき人は誰なのか。議会制民主主義の国ではなかったのか。
責任の取りようがない黒子が国家の重要政策を左右している。昨年の民間議員提言通り病床数を削減してコロナ騒動の収拾がつかなくなったとしたら、考えるのも恐ろしい事態だが「それでも責任を取る人はいない」のがわが日本国なのだ。
会計学者の八田信二氏は「第三者委員会の欺瞞」(中公新書ラクレ)で、第三者委員会のあり方を厳しく批判している。サブタイトルは、「報告書が示す不祥事の呆れた後始末」となっている。彼が取り上げた事例は以下の通り。
①朝日新聞社・・慰安婦報道問題
②東芝・・不適切な会計処理
③日本オリンピック委員会・・東京オリンピック招致活動
④神戸製鋼所・・検査結果の改ざん
⑤雪印種苗・・種苗法違反
⑥日本大学・・アメフトにおける重大な反則行為
⑦東京医科大学・・入学試験における不適切行為
⑧厚生労働省・・毎月勤労統計調査を巡る不適切な取り扱い
⑨レオパレス21・・施工不備問題に関する調査報告書
これらのほとんどは責任については曖昧なまとめとなっており、氏はこうした事例を紹介しながら「誰のための、何のための第三者委員会なのか」と疑問を呈するのである。そして、まとめに「これは明らかに、日本人全体の規律意識の劣化と倫理観の低下の表れ」というのだ。
この国はどういうことになってしまったのだろう。
企業の経営者の経営責任はどうなってしまったのか。最高経営責任者などと名乗っているが、本当に最高の、そして最終の責任者としての自覚と行動を伴っていたのか。なぜ第三者委員会などに頼まなければならないのか。
世界の人びとには「積み重なる歴史観」が刷り込まれている。過去に重なって現在があり、過去に向き合うことで現在があると考えているのが世界の大半の人びとの感覚だ。ところが、こちらはNHKの「歴史秘話ヒストリア」の謂ではないが、歴史は大河のようであり、過去は流れ去って今に存在しないために向き合う過去などどこにもない世界を生きている。
したがって鳩山由紀夫氏の発言と行動に代表されるように、過去の発言も流れ去って今にないから、まるで何も言わなかったかのように振る舞える。この日本という世界では「過去から責任を問われることなどない」のである。
君主の言葉は一度発せられたら取り消せないという「綸言汗のごとし」が日本でよく喧伝されるのは、この国では、それは「望むけれども手に入らない」あこがれだからなのだ。IMDの競争力ランキングがたった一年で30位から34位に転落していくように、年とともに自信を失い漂流する日本国とその国民から、もともと希薄だった「責任を取る」という意識が消えていっている。
コロナ感染拡大に対しての「自粛要請」では誰も責任を取る必要もないし、取りようもない。だからこそ、この国では自粛を要請するのである。
(月刊『時評』2020年11月号掲載)