お問い合わせはこちら

大石久和【多言数窮】

世界の外側にいる日本人

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す (老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 コロナ感染症対策として、集団感染や都市での医療崩壊を招かないために各国が外出制限や帰国者の自宅待機を行い、それを厳しい罰則付きの規制としたのに対して、わが国では「自粛要請」という自粛と要請の責任の所在がきわめて曖昧な外出抑制を行ってきた。

 海外各国の制限や規制は、国によっては違反者には最大で約5000万円程度の罰金や最高で禁固6ヶ月というきわめて重い罰則が付いていた。これに対して、わが国では罰金や罰則が何もないという、世界から見るとなんとも不思議な「規制」を行って来たのだった。

 また見方を変えると、責任の存在が不明確であるため、「外出しなかったことによる経済損失」の補填責任が要請した側に存在しないようにしたのではないかとも思えるのだ。

 こうして改めて、責任の所在が曖昧な「不思議の国・ニッポン」を世界に印象づけたのだった。厳しい命令によって社会をコントロールし、その結果責任はすべて命令を発した側が取るという世界の共通ルールの外側にわれわれが立っていることが明らかとなった。

 なぜ、われわれ日本人は世界の共通ルールの外側にいるのだろう。

 ところで、世界の主要国のなかで「一神教によって社会を形成していない(社会を支える基盤に一神教が存在しない)」のは日本だけである。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は共通聖典として旧約聖書を持つ一神教で、これが世界のほとんどを覆っているし、宗教規制が厳しい中国も国体、つまり国を統治する論理として唯一信頼できるものは力(=権力と暴力)であると信じている一神教の世界にいる。

 中国の有名な映画監督のジャ・ジャンクー氏は、「暴力は間違いなく中国文化における一つの伝統です」「中国人は暴力だけが問題を解決できると考えるようになった」と述べている。さらに、一橋大学教授である中国人の王雲海氏は「中国の秩序を形作っているのは、むき出しの政治権力だ」と言い、また、「社会秩序は常に強い政治性または権力性を有する」「社会秩序は常に強い『物理性』を有し、個人の時間や空間を最大限にまで制限する」とも述べている。

 これらの発言は最近の香港情勢を踏まえてなされたものではない。香港問題が起こるはるか以前からの考えの表明なのである。一般的な意味での宗教を否定している中国は、コロナショックの今、日本の尖閣諸島に過去に例を見ない頻度で執拗に艦船の侵入を繰り返すなど、世界中で暴力的な攻勢を強めているが、これは中国が対外緊張により国内を締めようとしているのだ。

 この現実を見ると、伝統の統治理念である「易姓革命」の再来におびえる中国は、やはり「力のみを信仰する一神教」の世界に属していることがわかる。政権は社会秩序を維持するために不満分子に常に圧力をかけ続け、不満が大きくなるほどにさらに圧力を強めて、ちょうど圧力釜が限界に達すると爆発するように暴力革命へと至るのだ。中国数千年の歴史はこの繰り返しであったから、現共産党政権もこの恐怖からは逃れられないと考えている。

 いよいよ一神教の世界の外にいるのは、われわれ日本人だけだと明確になってきた。では、一神教の世界とはどのような世界なのか。徳川宗家十八代目の徳川恒孝氏は、自身の著作のなかで、その世界を次のように説明している。

 「単一で絶対的な力を持つ創造者をただ一人信じ、この教えをしっかり守ることで、人間は神の国へ行くことができるという宗教」「絶対的な服従と信仰を求め、これを破ったもの、信じないものには厳しい罰を与える強い性格の『神』を持つ」「その神は、大変しっと深く、狭量である」

 中国での一神教の神は、法律を超越したところに立つ無謬の政権トップである。

 こうした一神教信仰の精神が、コロナ感染症対策としての外出制限に厳しい罰則を科す思想的根源なのだ。この外にいる日本人は厳しい罰則を拒否するのであるが、ではなぜ一神教はこの国に定着しないのか。それは国土の違いからくる民族の経験の差がそれをもたらしていると説明するのが国土学である。

 広大な平原から成る国土に住まいを求めなければならなかったユーラシアの人々は、生活の安全を確保するために強固な都市城壁の建設を必然としてきた(インフラの発明でもあった)。膨大な費用を要し、多大な人力を投入しなければならない城壁建設を都市整備の不可欠な前提としたのは、強力な異民族などの暴力的な侵入が頻繁に、かつ大規模に繰り返されたからであった。

 戦いにおいては、守る側は守り切らないと「全員の惨殺」が待っているし、攻める側も攻めきることができなけば返り討ちによる悲惨な「全員の壊滅」を経験することになる。

 紛争による死を極小化するためには、戦いに参加する全員による戦いへの共通理解と一糸乱れぬ結束が欠かせない。そのためには作戦中央への権力の集中が不可欠だ。

 「唯一の中央を深く信じて、その指示をしっかりと守り抜くことで勝利への展望が開ける戦いの世界」とは、まさに一神教の世界である。

 この世界は、「全員が完全に一致してある約束を守らなければ、必ず全員の死を意味する」経験を繰り返し繰り返ししてきた世界である。相手の殺戮のみを意識して索敵している敵の陰で、前哨戦に敗北した敗残兵が身を潜めて隠れている時、誰かが急に泣き叫んだり大声でわめいたりすることは、身を隠している者たち全員の確実な死を意味する。

 全員が守らなければ全員の死を意味した厳しい試練を、歴史の長きにわたって繰り返し経験してきた世界がユーラシアなのだ。一神教とは、この世界で、このために、生まれ育まれてきた宗教なのである。

 明治に入ってキリシタンの禁が解かれたのに、その後日本でキリスト教の普及が進まないことが不思議だと述べた人がいる。しかし、少し考えるがいい。何の咎(とが)もなく、何の間違いも犯していないのに、自然の気まぐれで理不尽にも命を奪われたわれわれ日本人が「絶対的な服従」を受け入れることで、初めて命がまっとうできるなどという考えを持つことができるだろうか。

 そのようなことができるはずがない。紛争の世界でこそ、相手に勝利して自分と自分が愛するものの命を守るためには、全体の完全な一致団結と一糸乱れぬ行動が不可欠だ。それを支えているのが「絶対的な存在である神の命令への絶対的な服従」なのである。

(月刊『時評』2020年9月号掲載)