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大石久和【多言数窮】

日本語の危機

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す (老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

 コロナショック不況とでも言うべき1930年の大恐慌以来の大不況がやってきた。世界中で消費が消えてしまったという大不況である。大胆で大規模な対策でしか乗り切れないが、財政再建至上主義で凝り固まったこの国は、また例によって「きめ細かな対策」という名の下に小規模で、手間暇ばかりかかる効果の少ない対策に終始しようとしている。

 ところで、河野太郎大臣はネイティブからもかなりの英語の使い手だと評価されているという。その英語名人が、コロナ騒ぎに際して「必要以上に英語を使うな。お年寄りにわからないではないか。日本語でいい。」と苦言を呈したのだ。

 クラスター(小規模感染者集団)、オーバーシュート(患者の爆発的増加)、ロックダウン(都市封鎖)など簡単な日本語で表現可能で、そうすればわざわざ言い換えを添付しなくてもすぐにみんなが理解できるのだ。英語を使いたがる都知事への皮肉も込められているのだろうが、実にまともな意見だと高く評価したい。

 九州大学の施光恒教授は、過剰な英語教育傾斜やカタカナ英語の氾濫を、日本語の破壊であり、日本人から思考力を奪うものとして批判している。彼は「特に、役人や政治家、公共放送たるNHKなど公のものごとに関わる人々や機関が、わけのわからないカタカナ語を得意げに使う風潮は大いに問題だと思います」と述べている。

 彼はNHKが「教育テレビ」から「Eテレ」に名称変更したことも、日本語を大切にしていない一例だと批判しているが、まったく同感である。

 施氏は、かつて「ヘイトスピーチ」という用語を法務省がそのまま使うことも批判していた。「ヘイトスピーチ」というカタカナ英語を用いずとも、「国籍や人種に基づく不当な差別発言」とか、「憎しみをあらわにする攻撃的発言」と日本語で正確に表現した方がいいというのだ。

 それは、「不当な差別発言」という言葉を用いると、「何が不当なのか」「不当ではない公正な関係を作るにはどうすればよいのか」との問いが自然に浮かんでくるし、また、「憎しみをあらわにする攻撃的発言」と言えば、「憎しみはなぜ生じているのか」「解決や融和をもたらすにはどうすればよいのか」という方向に考えが向くと言うのである。

 なぜわざわざ「ロックダウン」とか「ヘイトスピーチ」などという英語を使わなければならないのか。河野大臣や施教授の言うように「都市封鎖」「不当な差別発言」という表現で、誰もが簡単に理解できるではないかという方向になぜならないのだろうか。なぜ中央省庁までもが、言い換えを聞かなければ理解できない用語を用いるのか。

 施教授は、言語社会学者の鈴木孝夫氏の日本語の表記システムについての認識を紹介している。鈴木氏は「日本語の表記システムに漢字があることが、一般庶民と知識層との間に諸外国のような際だった格差が出来ない一因だ」と言うのだ。

 特に日本の漢字が特徴的なのは、中国や朝鮮半島などとも異なり、「音読み」と「訓読み」があることが知的格差を作らないという点で大きいとも指摘している。それはどういうことなのかというと「英語では知識層が使うような専門的語彙は、一般庶民には初見ではまったく意味がわからない」からだと指摘する。

 たとえば、日本では「猿人」と書くこの言葉は、英語では「pithecanthrope」と記すのだそうだが、鈴木氏が名門のエール大学の人文社会系の大学教員などにこの単語を見せたところ、意味のわかる人はいなかったという。

 ところが日本人は「猿人」を見れば大体の意味がわかるのである。英語の世界では、ラテン語やギリシャ語に精通した人であれば初見で理解できることもあるようだが、一般人には無理なのだ。ところが、日本人はほとんどの人が理解できるのだ。

 これは実に意味のある指摘だといわなければならない。過去に何度もあった「日本語は英語化すればいい」などというとんでもなく間違った運動を拒否してきたことに意味があったのだ。その日本人が「日本語や日本語表記」を実に軽く見ていることは、冒頭から示してきた通りだ。

 近年それがさらにひどくなってきている感がある。1995年にアメリカのGDPの約70%にまで肉薄した日本経済は、この年に財政危機宣言を発してその後、何もかも削減することが正しいと財政再建至上主義に傾斜してきた。

 その結果、インフラ整備は先進他国が2倍、3倍と伸ばして内需を拡大するとともに、国民生活の安全と効率化を目指してきたのに、日本だけが半減させてデフレを継続してきたし、都道府県と政令市が運営する感染症対策センターとでもいうべき保健所数は、1995年以降、なんと51%にまで削減して、このコロナショックでの医療崩壊におびえる始末なのだ。

 この日本政府の政策の誤りと、カタカナ英語の氾濫は実は同源なのである。さらに、それは以前に本コラムで紹介したアルファベット三文字略語の流行とも重なるのだ。CEO ( =最高経営責任者)とか、TOB(=株式公開買い付け)などという言葉を、日本の経営者が喜々として用いるようになったこととも同根なのだ。

 社長とCEOは概念が異なる。株主に奉仕するための最高責任者がCEOなのだ。これは、同じ頃から日本企業に定着し始めた「四半期決算制度」「役員任期の短縮」などとともに、株主向けの企業行動の短期評価の表現であり制度なのである。

 1995年の財政危機宣言以降の財政再建至上主義によって、「歳出に負担をかける科学技術研究もやらない、大学への給付も削減し続ける、公務員数の削減も止めない、保健所は減らし続ける、日本のGDPの世界シェアが落ちていっても気にしない、国民の貧困化にも無頓着」などとしてきた無策と無気力化政策が、国民の意欲を破壊し、日本人の日本への愛着を放棄させて、安易なカタカナ英語への傾斜を助長してきたのである。

 最近では、アルファベット表記のガラス会社まで生まれる始末だ。アルファベットは日本語ではないのだ。そこまで「日本であること、日本的であること」を忌避するようになってしまったのだ。

 母語を大切にしない国と国民に将来がないのは当然のことである。

(月刊『時評』2020年6月号掲載)