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大石久和【多言数窮】

観念論ばかりの日本国= 「日本観念論」

おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。
おおいし・ひさかず/昭和20年4月2日生まれ、兵庫県出身。京都大学大学院工学研究科修士課程修了。45年建設省入省。平成11年道路局長、14年国土交通省技監、16年国土技術研究センター理事長、25年同センター・国土政策研究所長、令和元年7月より国土学総合研究所長。

多言なれば数々(しばしば)窮す (老子)
――人は、あまりしゃべり過ぎると、いろいろの行きづまりを生じて、困ったことになる。

憲法の改正  
 憲法は、制定時の国民の価値観を示す総体的意思の表明であると言えるが、第二次世界大戦後の時代の価値観の変化に応じて世界のほとんどの国が、根幹法規である憲法を何度も何十回も改正しているけれども、日本だけが唯一その例外となっている。
 
各国の改正回数は、ドイツ59回、フランス27回、イタリア15回、アメリカ6回などであり、つまり世界各国は「基本法規の改正を繰り返さなければならないほどの時代変化にともなう価値観の変化があった」と考えてきたのに、日本だけは1946年の価値観で制定した基本法規で十分だと言っているのである。
 
 交戦権規定を欠いた憲法を持つのでは真の独立国とは言えないにもかかわらず、その議論もできないという状況なのである。この状態を維持させているのは、この憲法が「平和憲法」であるとの理念上の観念であり、憲法とは政府を縛るものであるとする「立憲主義」という考えだ。
 
 イタリア憲法にも戦争放棄の規定があり、わが国だけに平和憲法があるわけでもないのだが、観念的に平和憲法として改正議論を封鎖している。政府を縛る立憲主義などという主張も、それなら国民の責務はどう規定するのだということになる。
 
 どのような議論を展開するにせよ、われわれは世界に向かって「わが国だけは、基本法規を直さなければならないほどの国民の価値観の変化や世界的な潮流を、この72年の間、何も感じ取ってきませんでした」と言い続けているのである。
 
 たとえば、女性の権利は各国ともに憲法で拡大してきているが、前回に示したようにドイツでは、男女同権規定に加えて男女差別の縮小に向けた国の努力義務を新たに加憲したが、わが国は72年前の規定で十分だとして東京医科大問題を起こしているのである。

PB(プライマリーバランス)信仰  
 国債以外の税金からなる歳入と、国債費などを差し引いた歳出とのバランスを、プライマリーバランス(PB)と言い、菅直人が総理を務めていた民主党政権時代に、財政の運営方針としてこのPBの黒字化が盛り込まれた。
 
 しかし、すぐわかるようにこれを財政運営の方針とすると、景気が良くて歳入が多い時には減税が出来るが、景気が悪くて歳入が少ない時には増税をしなければならないことになる。
 
 つまり、景気が良い時にはそれを過熱し、景気が悪い時にはさらに悪化させるように作用するのである。したがって、世界の国ではPBを財政の運営指針とはしておらず、政府債務のGDP比を用いている。
 
 世界の国では、経済成長は必ず税収増をもたらすから成長によって財政悪化を防ぐという考えをとっているのである。ところが、わが国ではPBに経済成長の概念がないことから、「財政再建は経済成長から」という世界的には当たり前の議論ができないでいるのだ。
 
 アメリカとわが国を比較するのがわかりやすい。両国とも財政的には大きな赤字を計上し累積債務も大きい。しかし、そうなったメカニズムがまったく異なるのである。
 
 1990年頃から両国の動きを比べてみると、アメリカは2015年頃までにGDPは約3倍に伸び、それにともなって税収も3倍にも増えている。しかし、わが国は1995年をピークに経済成長してこなかったために、税収はまったく伸びていない。
 
 それどころか、1991年頃には総税収が60兆円もあったのに、直近の2018年でも58?59兆円レベルに止まったままなのだ。もし、アメリカのように経済が3倍にも成長しておれば、180兆円もの税収があったはずなのだ。
 
 2018年夏にまとめた概算要求は102兆円であるから、もしそうなっておれば全歳出を国債の発行なくまかなえていたことになる。経済成長をせず税収が伸びなかったわが国は、世界の主要国のなかで唯一、20年にもわたって公共事業費を削減し続けて半減以下にし、防災のための事業費も半分以下となった。
 
 また、OECD加盟国のなかで教育への公的資金支援が最低の国という情けないことになったにもかかわらず、OECDのなかで政府債務が最も増加した国なのだ。
 
 アメリカは税収は伸びたけれども、歳出を大きく伸ばしすぎたから、わが国と同じような赤字となっているわけで、事情は大きく異なると見なければならない。

日本観念論  
 これらを「日本観念論」と言ってはどうかと考える。国家間の戦争が、総力戦時代に入ったことは、第一次世界大戦の経験で明らかだったのに、GDPが約5倍もあり、自動車の生産能力が100倍もある国と全面戦争を開始したという国柄だから、もともと事実をふまえた議論ができず観念論的な思考から抜けることができない国民なのだ。
 
 これは、われわれ日本人が、国策上の根本的な問題である安全保障を考えることができないことを示している。国家運営の最も基礎の部分に安全保障がない国など他に存在しないが、わが国は、この70年間一貫して安全保障を国策の外に置いて、他国からはさげすみの目で見られてきたが、われわれは手前勝手な理屈を振り回して平然としてきた。

 このような国が深いレベルでは他国から国として信用されるはずもない。こうしたことには目をつぶって、国内だけでしか通じない論議を繰り返してきたのである。
 
 論理的に証明することができる根拠を持った議論ができない国柄だと断じるほかはないのだ(該当する日本語があるのに、エビデンスなどという外来単語を喜んで使っていることがその証拠である)。
 
 先の大戦の敗戦後しばらくして、哲学者の和辻哲郎は「鎖国」を著し、なぜこのような惨めな経験をしたのかを考えた。彼の結論は「日本人の科学的精神の欠如」というものであった。観念論を捨てて科学的精神を獲得しなければならない瀬戸際にわれわれはいる。
(月刊『時評』2018年11月号掲載)