2024/02/02
われわれの世代にとっては、西洋がすべてであった。学ぶということは、西洋発の知識を理解し、取り入れていくことであった。大人になって、本格的に学問を究めようと思うと、ほとんどが西洋の文献に当たることになる。
学問としての哲学はプラトン、アリストテレスのギリシャに始まり、デカルト、スピノザ、ライプニッツからカント、ヘーゲルを経て近代哲学が完成しているから、哲学研究者を志すなら、これらを熟読しなければならない。
具体的な社会についても、西洋の考えが支配的である。民主主義という発想自体が欧州発だし、市場経済という制度もやはり西洋産だから、政治経済を学ぶ人たちは欧米のものばかりを読んでいた。
政治制度において、為政者ではなく、市民が意思決定者であるという民主主義思想の始まりはイギリスのロックであり、それを洗練させたのがフランスのルソーである。さらにドイツのカントを経て、社会契約論は1970年代にアメリカのロールズで頂点に達する(研ぎ澄まされ過ぎて、難解になってしまったが)。
市場経済論はイギリスのアダム・スミスを出発点とするが、マルサス、リカードからマーシャル、ピグー、そしてケインズなど、近代経済学はイギリスの独占であった。
理系に移ると、あらゆる科学の手本は物理学で、それを完成させたのがイギリスのニュートンである。その後、古典力学的世界像は相対性理論と量子力学によって揺らぐが、アインシュタインはドイツ、ボーアはデンマーク、シュレジンガーはオーストリア、ハイゼンベルクはドイツ出身である。
生物学は2段階で、現在の姿になる。1つ目はイギリスのダーウィンの『種の起源』(1859刊)で、2つ目は1953年のワトソンとクリックによる二重らせんの発見である。前者はアメリカ人、後者はイギリス人である。
現代社会において生活必需品となったコンピューターの原理は、イギリスのチューリングによって考案された。1930年代から50年代にかけて、計算理論から人工知能の基本理念まで、偉大な業績を残した。コンピューター・サイエンス界のノーベル賞は「チューリング賞」と名付けられており、イギリスの新しい50ポンド紙幣にその顔が印刷される。
ただ、これらはすべて過去の遺産に過ぎない。
独断と偏見で私の好みを並べてしまったが、広く世間を見渡しても、街角から「西洋」が消えかかっている。往年の映画ファンと言えば、大半が洋画の愛好家ではなかっただろうか。20世紀中頃の西部劇も、1980年代のラブコメディーも、1990年代からの破格予算のSFや超スペクタクル映画も、すべてハリウッド産であった。
同じように、われわれの年齢からその前の世代にとっての音楽と言えば、だいたいが洋楽であった。ハードロックやヘビメタに染まった人もいれば、『カウントダウンUSA』の上位を占めるようなポップス好きも多かった。英語がわからなくても、適当に口ずさめることが当時のティーンエイジャーの勲章だった。
フィクション系の本の虫たちも、われわれの世代までは翻訳本だけを読んでいた。むしろ日本人による本格ミステリーやスパイ小説がなくて、レイモンド・チャンドラーからジョン・ル・カレなどを朝まで読み耽ったものである。
西洋かぶれの私にとっては、こんな話はエンドレスだが、とりあえずここで右記の西洋の作品群を反転させてみよう。洋画ファンだった私にとっては、興行成績で邦画が洋画を上回ることなんて、絶対にありえなかった。映画スターはみな外人でなければならず、日本人はテレビ俳優に過ぎなかった。しかし今やテレビとタイアップした映画をはじめ、ランキングの上の方に来るのは邦画ばかりである。
音楽も、みんながマイケル・ジャクソンを聴いていたような時代は終わり、嗜好が細分化したのと並行して、全体に占める洋楽の割合が激減している。欧米でスーパースターがいなくなる一方、邦楽が洋楽化して、多くの日本人が国産で満足できるようになった。同様のことは探偵・犯罪ものなどの物語にも言える。
学問は固定したものだから、西洋が起源であることに変わりはないが、民主主義が金科玉条の理想でなくなった分、西洋の影響力は弱まっている。というより、手本であったアメリカやイギリスで強権的ポピュリズムが花盛りである。市場原理主義への反省から同様に、西洋流の自由経済論も廃れ始めている。近代科学の発祥地は西洋であるが、21世紀科学の中心になるコンピューター・サイエンスの覇権はアメリカから中国に移行しつつある。
このように一度、西洋を相対化して、目の前で自壊しつつある欧米を眺めていると、西洋って何だったんだろう、と不思議な感覚に襲われる。われわれはこんな連中を手本にしてきたのか、と思うと悩ましい。少なくとも、西洋を目指せばいい時代は終わった。21世紀は自分自身を目標として、力強く生き抜いていかなければならない。
(月刊『時評』2020年2月号掲載)