2024/02/02
一般レベルのAI観が混乱した状態にある。AIの中身が説明されないまま、AIの将来性についてだけ報道されているため、極端な悲観論と根拠なき楽観論が同居している。
ではAIとは何か。人間の知能をコンピューターで再現することだが、「知能」を正確に定義できる人はいるのだろうか。要するに世間が混乱しているのは一般人の責任ではなく、専門家の間で合意できていないことを的確にメディアが報じていないことにある。というのも、マスコミ自体がAI論議の限界を把握していないからである。
私のような文系がAIに関心を持っているのは、1980年代までは人工知能論が哲学で討議されていたからである。歴史を振り返れば、AIの理論的創始者のチューリングがコンピューターの原理を説いたのは1930年代で、「人工知能」という言葉が登場したのは1956年であった。
人工知能という用語を提唱したマッカーシーや、初期の本格的なAIを開発したニューウェルとサイモン、さらにはAI界の巨人ミンスキーはみなルール・ベースのアルゴリズム(問題解決の手順)に依拠していた。その頂点が知識工学であり、その成果がエキスパート・システムである。
これは単純化すれば、「もし~ならば、…である」(if~then…)というルールを数多く集めてプログラムを作成し、それに事例を入力することで解答を得るタイプのAIである。具体的には、医師の診断を援助するエキスパート・システムならば、「もし熱があり、のどに痛みがあり、悪寒がするならば、インフルエンザである」というように、「もし」の部分に症状を入れることで、原因を探るシステムである。
これは論理学を前提にしているAIであるため、論理哲学が中心であった分析哲学の研究者にとっては、馴染みのある学問分野であった。確かに数学やプログラミング言語など、コンピューター・サイエンス特有の道具は必要であるが、当時のAIシステムは真理関数や述語論理を前提にしていたため、同じものを学んでおり、かつ人間の知能については専門家であった哲学者はAIの有効性に猛烈な攻撃を仕掛けていた。
サールという哲学者は「強いAI」「弱いAI」という用語を導入したことで有名である。今では前者は「汎用AI」、後者は「専門AI」と呼ばれている。現在でも汎用AIは可能かという議論は続いているが、サールはコンピューターが答えを出すことと、人間のように「理解」することとは別だから、人間レベルのAIは不可能だと結論付けた。
さらに、ハイデガー(ドイツの実存主義哲学者)を研究していたドレイファスは、人間が外的世界から知識を得ることは、脳が情報処理を行うこととは異なり、身体全体で経験することだから、やはり人間レベルのAIは実現できないと断定した。
しかし2000年代以降、哲学者によるAI論(人工知能の哲学)がほとんど見当たらなくなった。同時に、この頃から一般レベルの理解度と、人工知能に関する専門的知識との間にあった溝が、修復不可能なほど広がってしまった。そしてそれが現在のAIへの理解不足につながり、浅薄な知識の上に築かれた極端な悲観論と根拠なき楽観論という分断を生み出した。
こうなった最大の理由は、人工知能が素人では把握できないほどの専門性を備えるようになったことにある。この頃からAI界の覇権は知識工学から機械学習に移っていく。この転換を引き起こしたのは、数学レベルの飛躍的な向上とコンピューターの驚愕的な進歩である。
それまでのAIが答えを導くための道筋をすべて論理的にプログラムに書き込んでおかなければならなかったのと対照的に、機械学習はコンピューターに人間の成長と同じ過程をたどらせようとする。つまり膨大なデータを読み込ませることで、コンピューター自身にプログラムを書かせるものである(だから処理速度とメモリー容量の改善が求められた)。
これが大変な理由は、論理の抽象性が数段上がるため、その分それを形式化する数学の抽象性も数段上がるためである。英語圏の哲学者は論理学には慣れているから、微分積分と線形代数までならついていけるが、常微分・偏微分が入り、代数が非線形化するとお手上げである。
このようにAIが文系に理解できなくなることで、AIができることとできないことについての冷静な議論も不可能になった。だからすべてを「人工知能」という言葉でひとくくりにしてしまうため、一方では通常のコンピューター・プログラムとの区別がつかないから無知に基づく楽観論が蔓延(はびこ)り、そうかと思うと議論の振り子が一気に反対に飛び、AIを得体のしれないものとして妙に怖がったり、一部の国にしかAIの技術はないと諦めムードになってしまう。
この状況を打破する急がば回れの特効薬は、数学教育を強化することである。これからの世界はAIが制するが、AIを制するためには数学力が不可欠である。
(月刊『時評』2019年6月号掲載)