
2025/03/06
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
暖房が効かない
「足先が冷えるねえ」
カウンター席でNさんが足先を小刻みに震わせている。
「ごめんなさい。エアコンの暖房能力はこれで目いっぱいなの。電気ストーブもつけるから暖まるまで待ってね」
天井に備え付けだった業務用の大型空調が壊れ、諸般の事情で今はお座敷の窓に取り付けた6畳用の家庭用エアコンが頼り。だがその暖気がこのカウンターまではあまり届かないのだ。
「キミはソウル在住で寒さには慣れているのではないのか」。連れのCさんがたしなめた。二人は会社の同僚。昨年夏からNさんは海外支社駐在になり、正月休暇で一時帰国中。本社勤務のCさんと情報交換を兼ねて一献酌み交わそうと久寿乃葉で落ち合った。
「ソウルの緯度は37・6度。35・7度の東京より2度も北方にある。先般も市内が吹雪いて40センチの積雪とかニュースで言っていたぜ」
Nさんが頷いて返す。「たしかに外は氷点下が続くから、外出には厚いコートと防寒ブーツが必需品。だが、家の中は別。年内は暖房をほとんどつけなかった。建築家ではないからよくは知らないが、家の断熱性能がまるで違っているようだ」
Cさんが少々鼻白んだ。「日本の政府は住宅の断熱基準を逐次強化しているぜ。オレのマンションは最新基準で窓なんか特殊気体入りの複層ガラスになっている。でも、この時期になると朝晩は暖房なしでは過ごせない」
ソウルのマンション断熱
Nさんはあっさり同意した。彼も赴任前に東京にマンションを購入している。たしかに断熱機能は向上しており、古い社宅では毎朝の日課であった窓周辺の結露拭きは必要なくなった。だが、Cさん同様、東京では晩秋以降、暖房を欠かせない。
日本では兼好法師の時代から「住まいは夏を旨とすべし」だったという。菜々子の郷里の家々は障子一枚だったから、外気との温度差はほぼない。こうした構造では暖房効率は至って悪い。それではまずいということで、断熱性能基準の強化が進められているわけだ。だが、国際的にはまだ低水準なのだろう。
Nさんのソウルのマンションも、構造が鉄筋コンクリートである点では共通のはず。どこに断熱の秘訣があるのか、菜々子の好奇心が問いかける。
Nさんは紙に図解してくれたが、それを示せないのが残念。ポイントを紹介しよう。日本のマンションのベランダは屋外空間の仕分けになっているが、ソウルのマンションはここが違う。建物の両面に幅2メートルほどのベランダ風の空間が全面付置されている。そして東京のベランダと違い、そこが外気とガラスで遮断されている。もちろん複層ガラス。ベランダと室内を隔てるガラス戸も複層ガラス。つまり室内と外気とは最低4枚のガラスで仕切られている。壁内の断熱材も分厚いのだろうとNさんはつけ加えた。
「外気温が〝凍える〟寒さであっても、ベランダは〝冷える〟という感じ。そして室内は〝快適〟さを保てている」。室内と外気の間に緩衝地帯があるイメージだ。
床暖房が標準装備
ソウルのNさんの住まいの冬対策はそれだけではない。床暖房が入っているという。Cさんが反応した。
「日本でも最新のマンションは床暖房がついているぜ。そうでないところでもリフォームで導入するケースが多いようだ。家内がパンフレットを取りよせたが、けっこうかかるらしい。それに設置後は床が数センチたかくなるから段差の心配をしないといけない」
この口ぶりでは彼のマンションには床暖房はないようだ。
「ボクの東京のマンションには床暖房があるけれど、対象はリビングだけ。寝室、書斎、キッチン、廊下、玄関などに移動すると足元が冷えて仕方ない。ちょうど久寿乃葉の板場のよう」とNさん。
この建物は断熱基準のかけらもなかった70年以上昔の建築だから何を言われても菜々子は平気だが、Nさんとほぼ同時期に購入したマンションの格の差を指摘されたようでCさんはムっとしたようだ。それに構わずNさんが続ける。
「ソウルでは床全面に暖房が入っている。マンションの各部屋の床下に張り巡らしたパイプ内を温水が循環する仕組みになっているようだ。あの国の伝統であるオンドルの考えを引き継いでいるのだろう」
N家の暖房対策
「床暖房があるのならエアコンは要らないわね」
日本より緯度が高いヨーロッパのパリなどでは、冬の暖房はあるが、夏のクーラーはないことが先般のオリンピックの際に紹介されていた。ソウルも同様なのだろうか。Nさんの答えは、温暖化の進行でエアコンを入れるところが多くなってきたというものだった。つまり設置の主目的は夏場の暑気対策。エアコンの機能上、冬には暖房機の用を果たすけれど補助的利用という。
Nさんはその床暖房も年内はほとんど使用せずに過ごせたという。駐在員手当が出るのだから暖房費をケチることはないじゃないかとCさんが少し嫌味な質問をしたのだが、「基本料金までは使わないと損という考えもあるが、寒くもないのに暖房をつけて暑すぎるからと窓を開け放すほどエゴイストではないぜ」とNさん。
高断熱の経済効果
ソウルで注目すべきは何といっても建物の断熱構造。室内と外気の間に窓付きベランダを設ける発想に感心した。その結果、Nさんのように暖房使用が少なくなれば、熱源であるガスや電気の料金が安くなり、家計は大いに助かる。同時に、国家経済としても石油、天然ガス、石炭などの消費量を減らせることになる。国民経済に寄与するだけでなく、温室効果ガス発生量の抑制にもつながる。
わが国では昨今、太陽光発電装置が各地に異様な景観を見せている。加えて普及のために各家庭の電気料金に上乗せ賦課金が加算されている(そうでなくても日本の電気料金は突出して高い)。エネルギー政策というならば、消費者にも益がないとおかしい。しかもソーラーパネルの耐用年数は机上の計算ほど長くはないとも聞く。機器は壊れてなくても発電効率が低下すれば、新しく取り換えなければならない。古いパネルを誰が費用負担して、どのように処分する算段なのか。家電製品では販売・購入時にあらかじめ処分費を徴収することになっているが、個人を含む太陽光発電事業者に撤去処分費の預託システムがないと将来に大量の放置や不法投棄が予想される。根本矛盾ではないか。
これに対し住宅の断熱性能強化は電力需給を緩和させ、電気料金低減になるかもしれない。また暖かい快適生活では風邪をひかず、快眠で昼間の作業効率も上がるはず。そうした計算を政府はどこまでしているのだろうか。
住宅断熱促進策
ともあれソウル並みに断熱性能を高めるにはどうするか。「幼稚園児ではないのだから公費で助成するとの安易な方策は即時却下」の方針で始めたが、かなりお酒も入っていて「帯に短し、たすきに長し」の珍案迷案。覚えている限りで書き出そう。
まずCさんが「ベランダを窓で覆っても建築規制の容積率に算入をしないこと」を提案した。所有権は民主主義社会の基本権利だが、おのずから公共の福祉との調和が求められる。ただ、今どきベランダで寝起きする者などいないのだから、覆いがあれば居室とみなして規制対象なんて乱暴すぎる。外気温との緩衝としての適正幅を定めての適用ならは科学性も認められようとCさんは力説したが、これだけで普及するかなあ。科学性を言うならば、年々の暖房費軽減で初期工事費を回収できるのは何年後かなどの客観数値を政府が示さないと損得に敏感な国民は動かないとNさんがコメント。
普及障壁は住宅価格の高値定着だ。かつて某総理が生活大国を標榜した際、「年収の5倍以内」を唱えたが、今は10倍でもきかないのではないか。そこで住宅ローンの残高に見合って購入者の所得税を控除減額するのだが、そっくり国家の税収減になる。Nさんが提案したのは制度の効率化。住宅の数は飽和過剰に変わっていて、空き家対策で自治体が苦悩していると前置きし、「ローン減税の対象住宅の要件として〝超高度の断熱性〟を求めること」を挙げた。現行の大甘な建築法規上の断熱基準適合如きでは不該当。税収源を圧縮できて一石二鳥になるはずだと。でもねえ、これまでの住宅税制は家を建てて売りたい業者の意向を過度に忖度しているように見える。
「税制の筋を通す覚悟が与党政治家にあるかなあ」。思わず口から出た言葉尻を掴まれた。菜々子ママも提案しろよと責められた。暖房費のかからない家…老後の生計費…年金財政の安定…と頭を回転させるうちに閃いた。大事な厚生年金、国民年金の積立金が市場運用で損失を出すリスクを小さくするには。物価連動で運用できれば御の字のはず。
「新築・既築を問わず、断熱ベランダや床暖房のかかり増し工事費に対して、公的年金積立金を原資に物価連動、実質無利子の資金を貸し付けるのはどうかしら」
日本中でリフォームが始まっても、年金積立金は200兆円近い規模だから貸付原資に不足は生じないだろう。そして肝腎なことだが、工事ラッシュで景気もよくなる。
(月刊『時評』2025年2月号掲載)