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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第251夜】

パリ五輪の課題をどう生かすか

pixabayより
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私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

エアコンがつきました

「健康保持のためエアコンを使用しましょう」。連日30度を超える猛暑の夏日が続く。電気代を惜しんで健康を壊さないようにと、政府広報で呼びかけている。

 ところがわが久寿乃葉の屋根裏に設置されている本格的業務用空調装置は壊れたまま。直したいのだが大家さんが承諾しない。費用は持ちますと提案しても建物構造への工事は困るの一点張り。お客さまからは「いつ空調は直るのか」と苦情を受ける。

 それが〝コロンブスの卵〟で解決した。久寿乃葉は戸建て民家の間借り。家庭用エアコンでどうかとある人がつぶやいた。電気工事店に相談したら、窓の外に室外機を取り付けるなど雑作もないと、期間1日、業務用空調修理の10分の1の費用で完成した。

パリでもエアコンが必需品

 この夏の一大イベントはパリのオリンピックだった。その開催時期が8月だったことで、地球温暖化の深刻さを全世界が改めて認識した。パリ(緯度的には樺太並み)の街づくりでは寒冷への備えはあっても、熱射病死など想定していない。オリンピックの選手村にもエアコンを設置していなかった。これに選手たちが猛クレーム。各国が独自にエアコンを持ち込むなどの騒動になったと報じられた。

 お座敷ではオリンピックが話題になっていた。料理を運んだついでに会話に参加する。「これを契機に温暖化対策での各国の共同取り組みが進むようになればいいわね」。エアコンの冷風が行き渡り、飲み物は熱燗に代わっている。盃を掲げたDさんが声を挙げた。

「日本選手団は金メダル20個で堂々世界第3位。乾杯しようではないか」

 順位は3年前の東京オリンピックと同じだが、今回はアウェー。誇れる数というわけだ。ちなみに1位、2位は前回同様、アメリカと中国。「もっと国家予算を投じて選手強化する必要がある」とDさんは主張したが、菜々子はちょっと注文あり。

「おカネをかければメダルは増えるでしょうが、国威を発揮できてよかったで終わったのではつまらない。オリンピックは全世界の国々が参加する行事でしょう。全人類の福祉を前進させることに知恵をつなげなければ」

獲得メダル数を人類課題に関連させる

「突拍子な思いつきを語っていいですか」。Jさんが菜々子の目を見ながら、手を挙げた。地球温暖化の主因の一つがCO2の排出増。低質石炭などの化石燃料を消費しない、原発や再生エネルギーを増やす…。対策項目は科学者が山のように提案している。しかるに政治的思惑から進まない。

「各国にCO2排出許可量を割り当て、それを超える国から罰金を強制徴収することにしてはどうか」というのがJさんの提案。放っておけば排出量は無限に増えていく。増加を一律禁止した上で、獲得したオリンピックメダル数に応じて、排出増加の権利を得る。菜々子には分かりやすい案に思えたが、疑問の声も出た。

 まずAさん。「もともとCO2排出量が少ないアフリカ諸国などが『先進国の横暴だ』と騒ぎ立てるだろう。彼らは、CO2削減は先進国だけがすればよいと主張している」

 Jさんが反論する。「例外を設けたのでは対策は進まず、全人類の将来が危ぶまれることになります。途上国の指導者がCO2排出量増加の権利を得たいなら、スポーツ振興に政策目標を変えればよろしい。途上国でもスポーツ大国になった見本が中国であると持ち上げれば、習近平礼賛の独裁者たちにも説得性があるはずです」

 次にBさん。「途上国は総じて出生率が高く、人口が急増している。CO2排出量を増やせなくなると生活水準は逆に低下してしまう」

 Jさんが答える。「それが狙いです。出生率を下げるのは、中国の〝一人っ子政策〟のように実績があり、専制独裁政権では取りやすい政策です。先進国が軒並み人口減に移行する中、途上国は人口増加を続け、その生活を維持するために先進国が経済援助を続ける矛盾した構図を変える必要があります。途上国が先進国を凌駕する速度で人口抑制を進めることで、その生活水準を先進国並みに引き上げる。これが合理的政策です」

 Jさんは博士号を持つ科学者。人類共存の将来像として正しい。菜々子にはそう思えたけれど、現実の政治で生かされる可能性は厳しいかもしれない。

「オリンピックには200もの国が参加するが、銅メダルまで入れても獲れるのは半分の90か国。残りの国は納得しないだろう」とDさん。

 Jさんが涼しい顔で答える。「連合チームを組めばいいのです。例えば中央アジアの諸国、南米諸国、サブサハラのアフリカ諸国など。さらに外交力です。インドは経済発展著しいのに、銀1、銅5個の成績でした。問題は競技種目です。例えばクリケットが含まれればインドは確実にメダル獲得です。オリンピックの競技種目を国連の安全保障理事会で丁々発止議論するなんて、平和的でかつ実効性もあると思いませんか」

 再びAさんが「人口当たりのメダル数概念を入れるべきかな。金メダル数でアメリカと中国が40、日本は20だが、日本の人口に対してアメリカは3倍、中国は10倍いる。人口換算すれば日本はCO2排出量交渉で有利になれる」 

「人口数が大国の条件といった世界大戦前の旧概念を変えることが必要ということだね」とBさんがまとめたところで、環境問題は終わり。

オリンピックと侵略戦争

 オリンピックにはロシア(東京五輪での金メダル数5位)は参加しなかった。国際オリンピック委員会(IOC)が拒絶した。理由は簡単、国際法に違反してウクライナに侵攻しているから。これには異論もあるという。曰く、オリンピックは平和の祭典だから、戦争参加国を締め出さず、参加させるべきだ。あるいは所属国家のために参加資格を奪われるのは、競技のために心身を鍛えてきた選手への人権侵害にならないか…。

 ここでも口火を切ったのはDさん。

「ウクライナの人々の立場を思いやるべきだろう。戦争が正当化されるのは防衛戦に限るというのが現代の国際法。ロシアには攻める理由がなく、ウクライナには自衛戦争の大義がある。国連憲章でも、『加盟国が侵攻を受けた場合は安全保障理事会が必要な措置を取るまでの間、被侵略国の自衛権を侵害しない』となっている。ウクライナ支援にわが国も参加しているが、まったく妥当なことだと思うね」

 わが国が政府方針としてきた「武器輸出禁止」をこの際変更するかなどをめぐって、議論百出状態になっている。このあたりの憲法解釈論は、法律専門家にはおもしろいのかもしれないが、一般国民では、領土と国民の生命財産の安全保障の確立が優先する。

「国連憲章どおりに国連軍を組織するのはどうでしょう。オリンピックの獲得メダル数に応じた国連軍への拠出を義務づけるのです。兵士と装備と兵站を公正公平に出し、国連事務総長が総司令官になる」

 世界平和や地球温暖化の大課題をオリンピックに絡めてしまう。Jさんの構想は大きい。そのJさんから「菜々子ママは今回のオリンピックで考えることはありませんか?」

一時的な社会の揺らぎ

「敢えて言うならトランスジェンダーの問題かなあ」。みんなすぐにピンときたようだ。女子ボクシングの試合で、選手の性別が注目を集める事案があった。が、これは正しくは、当該の選手は、性分化疾患により骨格が男性に近いため、トランスジェンダーとの誤解を受けたというもの。

 一方、実際にスポーツにおける男女の出場枠について、トランスジェンダーの選手の対応が問われているのは確かなようだ。このテーマはこれからのオリンピックにおいても引き続き議論の的になるだろう。

 オリンピックはともかくとして、トランスジェンダーに関しては客観事実(染色体)と主観認識(当人の性主張)に違いがある場合に、どちらを優先すべきかという議論がある。

 近年は後者を優先すべしという声が強く、前者を唱えると袋叩き状態になる。客観と主観の差異による当人の苦痛が分からない冷酷な非人道者というレッテルが張られる。アメリカでは二大政党間の主要な争点にもなっている。

 だがこれは一時的な社会の揺らぎ現象ではないかというのが、菜々子の直感。政治難民をどんどん受け入れることで寛容な社会に発展するという主張があったが、今どうなっているか。ヨーロッパ諸国は難民が同化せず、社会分断をもたらしている。トランスジェンダーも数十年後には誤りの社会運動だったとなるのではないか。

 実は『トランスジェンダーになりたい少女たち』という本を読んだばかりだった。著者はアメリカでの事象を丹念にヒアリングする。そして十代思春期のある女子クラスで過半がトランスジェンダーをカミングアウトしたなどの事実を発見する。なぜそんなことが起きるのか。思考面での感染流行に過ぎないのではないか。

 著者が危惧するのは、カミングアウトを周囲はそのまま受け入れるべしとの圧力。その結果、乳房切除やホルモン剤多用に至る。そして年月を経た成人後に、浅慮を悔いて苦しむ者が多数見込まれることだ。当人にも社会にもその後遺症は大きく、悔いても戻らない。

 LGBTと一括りで議論されがちだが、同性愛(LG)とトランスジェンダー(T)はまったく別物である。思うことはもっともっとあったが、酒席ではきつい話題かも。「お酒のお代わりを持って来るわね」と話を打ち切った。

(月刊『時評』2024年10月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。