2024/10/07
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
損得論が幅を利かす
「社会保障制度に加入するのは本当に得なのか」。
お座敷の議論が切れ切れに聞こえてくる。関心をくすぐられたので、冷酒の替えを届けがてら様子を聞きに行く。先ほどの声の主はKさん。元は金融商品開発部門の銀行員だったが、今は某有力大学の特任教授で、公務員志望者クラスで社会保障科目を受け持っている。本人曰く、近年は公務員試験でこの分野の出題が増える傾向にあり、ご自身の特別授業には大学当局から多大な期待を寄せられている。
冒頭は授業中に学生から出された質問だという。座卓に対座しているのは大学時のクラブ仲間というNさん。経済官庁のキャリア官僚を勤めあげ、今はある業界団体に請われて(天下って?)専務理事をしている。
「公的年金損得論は週刊誌でも取り上げる題材だし、もっともな質問に聞こえる。それでキミはなんて答えたんだい?」
Kさん、菜々子を質問学生に見立てて(顔を正面から見据えて)、その場面を再現した。
「採用試験や資格試験ではそういう設問はない。なぜならばわが国の社会保険制度は〝強制加入〟になっていて選択の余地がなく、〝損得〟を判断する意味がないからである」
「質問者はその回答で納得したのですか」と菜々子。
「イエスであり、ノーだった。年金、医療、介護の社会保険については制度の骨格や趣旨を授業で叩きこんでいるから、試験で損得を問う問題が出ないことは瞬時に理解したが、保険料未納の背景に加入者の損得計算があるのではないかと食い下がられた」
Nさんがニヤッと笑った気配がした。「キミのことだからここがチャンスと社会保障制度の建て前と現実の落差について解説をして、学生相互でグループ討議とかディベートを仕掛けたのだろう? 授業がきびしいと大学事務局の評価が下がるぞ」
少々薄くなった白髪を掻き揚げつつ、Kさんは頷いた。
国民皆保険の建て前と現実
Nさんに促されたと理解したK先生、菜々子に噛んで含めるように即席講義を始めた。さすがはプロの教授。要点を5分間でしっかりまとめた。
まず〝国民皆保険〟。字義では「日本国籍を持つ者が漏れることなく加入する保険」ということであろう。「そんなの当然ではないか」と思うかもしれないが、国家が行う社会保障の対象は長い間、資本主義経済体制で必然的に生じてくる生活疎外者であり、心身の故障で働けず、支援の人間関係が損なわれている者への対策であった。十把一絡げに制度に組み込むことを社会保障の一般化というのだが、たかだかこの数十年の傾向にすぎない。「言われてみればたしかそうだね」。Nさんがつぶやく。「そして行政機構肥大と国家財政悪化の主因になっている」
それには答えずKさんは話を進める。Kさんが指摘する〝国民皆保険〟の問題点は三つ。
「資本主義は一般国民の窮乏化をもたらすと理論化されていたのが誤りであることが明らかになってきている。ならば社会保障の一般化(=国民皆保険)自体も必要ないことにならないか」
「いったん始めた政策の変更や縮小は難しい。民主主義社会では既得権益擁護の政治力が抜きん出るから」とNさん。よってポイント第一はスルー。
「〝国民皆保険〟なのに国民でない者が対象になっている。この点をどう考えるかが第二のポイント」とKさん。年金では国民年金法、医療では国民健康保険法というように社会保険の根拠法律には〝国民〟の名が冠されている。しかるにその法律が加入者の定義を「日本国内に住所を有する者」としている。不整合状態になっているわけだ。
外国籍者への社会保険適用
Nさんが口を挟む。「〝国民皆保険〟は昭和36年実施だが、その時点では加入者資格は日本国籍者とされていて矛盾はなかった。昭和56年だったかに外圧に屈してろくろく議論せず(ⅰ)、国内居住外国人を強制適用対象に加えた。当時、旧厚生省の友人が〝非国民主権的決定〟とこぼしていたのが記憶にある」
さてK先生はどういう解決策を持っているのか。
「社会保険は〝国民共同連帯の具体化〟なのだから、〝国民=日本国籍保有者〟に一致させなければ制度の趣旨がぼやける」。これが社会保障制度研究者としての結論という。加入者の範囲を再度、国籍に一致させよということらしい。
「でも外国籍者も加入させて久しい。制度変更は政治的に難しいのではないか」。元官僚らしくNさんが制度改正への慎重論を述べる。しかしKさんによればポイント第一とは事情が違う。「わが国は民主主義国で国民主権を採用しており、〝国民による国民のための政治〟が基本。選挙権を持つのも公職に選出されるのも日本国籍保有者に限定される(ⅱ)。日本国憲法では国籍を持たない者の政治的権利は承認されない。憲法との整合性を重視すれば、社会保険の加入者は日本国籍加入者に一致させるのは当然の要請だ」
菜々子の知識でも、世界の基本構成単位は国家。そのために国籍があり、人は本籍国で政治権限を行使することになっている。主権国が認めれば取得や除籍が認められる。わが日本は取得希望者が多いのに、運営要件が不明瞭で甘い。
「国籍とは、その身がどこにあろうともその国によって護られる権利であり、代償としてその国に最後まで忠誠を尽くす。国民年金法の〝国民連帯〟はそれと軌を一にしている。外国国籍者でもわが国の社会保険に加入したい人に門戸を広げるという考えもあり得るが、その場合は準国民と判断する十分な根拠が証明された場合に特別加入を認めるという仕組みであるべき。むやみやたらに外国籍者を加入させるのは国民皆保険の精神に反する」
「学生への授業でそこまで明確に話すのか。留学生もいるのだろう」。心配顔のNさんをよそに、「もちろん。公務員が所管法律や条例の解釈において、制度の本質意義を軽んじ移りやすい世論迎合で適当に判断すれば後世の国民に災禍を残す。公務員の憲法遵守義務とはその基本原理である国民主権原理を護ること。常にこれを発想の基準にしなければならない(ⅲ)」とKさんは意気軒昂。
皆保険対象外の日本人
日本の国民主権実施の一体系として国民皆保険を位置付けるK教授の説明をもう少し聞こう。20世紀末の冷戦終結時では世界が民主主義(日本国憲法では〝政治道徳の普遍原理〟と定義する)の栄光で包まれるバラ色の将来像が語られたものだが、今は逆に民主主義を廃絶すべき敵と位置付ける権威主義国(俗に悪の枢軸と表記される)が近隣民主主義国への選挙干渉や領土侵奪を堂々と行う危機の時代になっている。民主主義国側での体制強化や結束が問い直される所以である。
そうであれば、逆に日本人でありながら〝国民皆保険〟から漏れている者があるとすれば由々しいことにならないか。学生を模して、震える小さな声で聴いてみた。
待ってましたとKさん。「国民が全員強制加入の原則を曲げてはならない」と即答した。まず在外邦人は原則適用除外という現在とは逆転させる。その上で超長期の海外在住者に限り、事情斟酌の上で適用保留(=保険料非徴収)する申請制度を設けるという。
Nさんが質問する。国内居住者でも保険料滞納などがあるのに、海外居住邦人を積極適用すれば保険料収納での苦労が増えることにならないか。「役人的な発想ではそうだろうな」とKさん。彼の整理では、社会保険は日本の国民主権の実施手段。社会保険は日本国民に認められる固有の権利。その反面義務として保険料納付義務がある。国民人頭税のようなものであり、その不払いは国籍放棄宣言に匹敵する問題行動ということになる。
「国民年金保険料を滞納しても懲役などの罰則はない。しかし国民だれも受け取るはずの基礎年金がないなどの形で〝非国民〟ぶりが明るみになる。それに加えて一つ提案したい。延滞者に甘い対応をすべきではなく、延滞処理にかかる費用を当人負担にすべきである。そうした意味を込めて延滞利息(法定14・2%)を100%に引き上げる。つまり滞納した期間については本来の2倍を納付しないと年金につながらないことにする」とKさん。
これが冒頭の〝損得論〟への回答にもなるという。この答えもあらかじめ用意していたみたい。K先生、久寿乃葉ではたいがい飲んで飲んで飲んでの印象。お帰りの際に勾配60度の階段で足を踏み外さないよう心配するのだが、今日はまだ大丈夫そう。それにしても一つの提案をする前に想定される指摘への対応策を準備していることに感心した。
「話のまとまりがついたから大いに飲み直そう。ママ、でかい徳利を頼むよ」
あれ?〝国民皆保険〟の三つ目のポイントの議論はまだされていないような。でも聴講者役も疲れたし、まあいいか。菜々子だって飲みたい。カウンターのお客さまは引き上げ準備のようだし、話題を変えて三人で秋の夜長を飲みつくそう。
ⅰ ILO第102号条約を批准するためには外国籍の者への社会保険適用を進めなければならないと国内で認識された問題。国内居住外国籍者には、世代を超えて永住し続けているいわゆる在日韓国(朝鮮)人から、種々の目的で中短期滞在している者まで範囲は広い。住所登録が線引きになっているが、在外家族への保険給付(健康保険被扶養者)、高齢家族呼び寄せ(介護保険)、母国帰還者への将来給付(年金)などのほか、長期不法残留者問題など課題は膨らむばかりに見える。
ⅱ 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…」(憲法前文)。「国民年金制度は、日本国憲法第25条第2項に規定する理念に基き…国民の共同連帯によって…」(国民年金法1条)など。
ⅲ Kさんは4月の衆院補選での他候補の演説を実施不能にさせる選挙妨害や、都知事選での同一政党からの(当選は一人しかあり得ないのに)多数立候補とその候補者掲示板の営業目的販売など、明らかに公正な選挙を破壊する行為であるにもかかわらず、現行公職選挙法に明確は禁止規定がないから手が出せない(つまり合法)と発言して恥じない都選管の公務員をやり玉に挙げていた。
(月刊『時評』2024年9月号掲載)