2024/09/06
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
昔の優等生に遭う
猛暑が続くが、久寿乃葉のエアコンは壊れたまま。念のために付け加えるが、倒産間際で直す資金がないのではない。大家さんが「大工事はやめてくれ」と難癖をつけ、それに菜々子が反発してらちが明かないのだ。
「ママは薩摩オゴジョで頑固だからなあ」とお客様方には呆れられるけれど、女にも沽券があるのです。そうした中でも足を運んでくださる人がいらっしゃる。ほんとうに〝有難い〟ことである。
「今日はママの故郷の人間を連れて来たぜ」。額から大汗を垂らしながら階段を上がってきたTさんの後ろに一人の男性。「いらっしゃい」の呼びかけには応えず、菜々子の顔を凝視している。カウンター席に腰かけた後も視線が動かない。
「松下菜々子さんではないか?」半オクターブ上ずった声がした。
「エッ」と菜々子も見返す。「あれ!Y君?」。遠い昔、中学校の同級生ではないか。
怪訝顔のTさんにY君が説明している。
「この人は学校一の美人でね。ボクもあこがれていた一人。再会するなんて奇遇だ」。Y君は、あんなことがあった、こんなことがあったと菜々子を含むクラス仲間での他愛無いエピソードを紹介しているが、菜々子はほとんど記憶がない。Y君で覚えているのは社会科のテスト。菜々子が散々な成績でみんなの前で点数を公表されて赤恥をかいたとき、彼は百点満点だった。先生が「成績不良者は居残り勉強。Y君は面倒だろうが、日本国憲法のポイントを教えてあげるように」と指示した。
彼が挙げたのは、①主権在民(民主主義)、②基本的人権、そして③平和主義の三点。
「たしかに学校ではそう教わった」とTさん。菜々子ママはそれを覚えられなくて落第したわけかいと辛辣。あのね、公立中学校では落第はないの。それに菜々子は覚えなかったのではなくて、納得ができなかったの。考えているうちに試験時間が終わったというわけ。
憲法の三原則
汚名返上の機会だ。15歳の当時に戻ってY君とのやり取りを思い出そう。
まず①「主権在民」。政治の権限が国民にあるということだけれど、威張っているのは政治家で庶民は法律に縛られて右往左往しているだけに見えた。Y君は「政治家の権限は国民の信託の結果。善い人を選べば社会はよくなる。悪い人を選ばないようにすればいいんだよ」と説明したけれど、どの候補者も自分は善い人ですと連呼するだけで選挙民には選別の材料がない。候補者が出そろってから1年間くらいは観察を続けることが必要ではないか。口先だけの詐欺師みたいな人に票を入れて「しまった」となっても後の祭りになりかねない。憲法の前文にも「正当な選挙」とある。その方式についての国民合意ができていなければ主権在民は実体を伴わない。
「うるさく口答えすると思ったのだが、そうしたことを言っていたのか」とY君。「ボクは教科書をまる覚えで点数を稼いだから」と頭を掻いた。
次に②「基本的人権」。思想の自由などは主権在民の基本事項として納得できるけれど、〝生活できない人には国家が所得を保障する〟などはインチキに感じられた。牧場のウシやブタではないのだから、食い扶持は自分の才覚と汗で稼ぐべき。そして自由と義務はセットのはずだから、行動の自由と裏腹の関係で、自存自活の義務に結びつくのが道理。「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」なんて、働かずに食うや食わずの極貧平等生活を国家方針にすると言っているようで嫌だった。
「〝最低限度の生活〟には、生かさず殺さず絞り取られた水呑み百姓のイメージがあるなあ」とTさんも首を横に振る。
「かと言って〝最低限度〟の水準を高めるならば、いくら税金を上げてもバラマキに追い付かず、国家は常に金欠状態になってしまう。まさに今の先進国の状況だ」とY君。
基本的人権には大きく「自由権」と「社会権」があるとされるようだけれど、菜々子が中学時代に憲法前文を眼光紙背に徹するがごとく読んだ結果では、書かれているのは前者の自由権だけだった記憶がある。憲法改正はされていないから、今も同じと言えるだろう。
平和主義
最後の③「平和主義」でも菜々子は授業についていけなかった。9条で日本は交戦権を自ら否定し、「攻められても抵抗しないことを宣言した」と先生は言ったのだが、ほんとうにそう信じているのかと授業が終わるまで、先生の口元をポカンと見つめていた。9条1項は「正義と秩序を基調とする国際平和を希求する」と書き出しているのだから、述語はそれを乱そうとする国や組織が出てきた場合の対抗方針が書かれていなければならないはず。それが国語の文法原理である。しかるに「(わが国だけは)戦争と武力行使を放棄する」では意味が通じないではないか。
すべての諸国と〝軌を一にして〟戦争放棄するとの条件が付されていれば、まだ現実味がある。しかるに、今まさに攻め寄せて来ようとする相手に対して「わが方は丸腰であり、決して反撃しない」と一方的に宣言し、約束する意図は何か。堀を埋めて攻め滅ぼされた大坂夏の陣の教訓にも反する。
「自分も以前からその点が疑問だった」とTさんが口を挟み、憲法前文の次の箇所を読み上げた。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。Tさん曰く、「この文章で重要なのは当然後段の〝われら(日本国民)の安全と生存の保持〟のはず。カルト宗派の教典ではないのだから日本国民の滅びを目指すわけがない。前段はそのための方法論。ここで〝平和を愛する諸国〟とは要は民主主義国のことで、そのことは続く文章で説明されている。では世界中の国々すべてが〝平和愛好国〟であるかどうか」。世の中に強盗が一人もいなければたしかに警察は要らない。
Y君が引き取って続ける。「とてもそうは言えませんね。憲法前文も〝民主主義は政治道徳の普遍の原理〟であり、世界中の国がそうなるように〝日本国民は国家の名誉にかけて全力をあげ(そのために行動をす)る〟と明記しています」。つまり現状は違っている。
「そうした解説を居残り勉強で教えてもらった記憶がないけど」と菜々子の嫌味。Y君は「憲法制定は終戦から1年そこらの時期。世界中が民主主義国になるとの幻想に酔っていた時代だったから」と言い訳している。しかしあなたが菜々子にご高説を賜ったのは、戦後も終わって、共産主義のソ連や中華人民共和国が武力とプロパガンダを武器に民主主義を次々とひっくり返していた時代ですよ。
Y君、耳たぶまで赤くした。「まだ子どもだったから。それに教科書には共産主義の恐怖なんて書いてなかったし…」。それだから学校秀才は困るのよね。
中共国をどう評価する?
テレビや新聞では中国に親近感を抱かせる記事や解説が多い。政治家や政党の中にもそれを隠そうともしないのが少なくない。なぜなのだろう。
子ども時代に会得した知識は抜けないものである。理想のように語る人が少なくない三点、①主権在民(民主主義)、②基本的人権、③平和主義についての三点について、かの国の現実を分析してみよう。
主権在民については、「選挙で国民の信を得たことがないのに、共産党と名乗る集団が国家と国民を支配する構造になっている。その結果、民主主義者であることが犯罪であるとされ、天安門事件に参集した者などは十把一絡げで〝人民(共産党)の敵〟とされている」とTさん。民主主義者への敵意は執念深く、終生名誉を害され、命までも狙われる。
基本的人権については、「ウイグル、チベット、モンゴル、満州族などでの固有文化や言語の破壊は、同化政策といった月並みの言葉では形容できない」とY君。外モンゴル人の友人がいるそうで、モンゴルは昔、中華民族を征服して元という国を建てたと酒場で話していたら民警に連行され、「モンゴル族は中華民族の支流に過ぎず、チンギスハンが征服した西方の広大なステップ地帯は歴史の必然として中国の領域に戻されなければならない」と説諭されたという。
平和主義についてはどうか。日本政府は核廃絶を訴えるが、中国は核弾頭の配備数を着々と増強し、その照準は日本の主要都市にも合わせられている。領土欲では地続きの地域だけでなく、海を越えて台湾侵攻の威嚇に加え、東シナ海(尖閣)や南シナ海(フィリピンの環礁など)での狼藉、さらに近時は太平洋やインド洋で海洋覇権を唱え、国際秩序などどこ吹く風の横紙破り。菜々子が理解できないのは、そうした中国政府の主張に賛同し、その要求に応じるべきと真顔で公言するわが国内の政治家や政党がいることだ。
民主主義の原点は〝公正選挙〟
「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動する」。これは憲法前文のしかも第一文である。民主主義では主権者は個々の国民。しかしみんなで集まって議論議決するのは不可能だから、国会議員に「権力行使を信託する」。そこで〝公正な選挙〟で選ばれるべき人の条件である。それは何か。
三つに絞ればこうなるだろう。まずA:民主主義者であること。憲法で主権在民を国是としていることからの必然だ。次にB:愛国者であること。日本国と国民の生存を守るのが国会議員の使命であるのだから、外国政府筋から資金提供を受けるなど論外である。最後にC:家業でないこと。貴族制など政治の家業は否定されており、選挙で選ぶのは個人であるから、選挙地盤の世襲などあってはならない。
さて有権者が正しく判断すればいいのだが、条件からかけ離れている者には立候補させない手段も効率上必要なのではないか。Tさん、Y君はそう主張したけれど、それはそれで方法論が難しそう。
(月刊『時評』2024年8月号掲載)