2024/11/06
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
衆院補選を終えて
「お義母さん、昼間からビールを飲んで顔が真っ赤ですよ。ママの仕事の邪魔をしないよう、切り上げて帰りましょう」
開店前の久寿乃葉である。促がされたA子さんは近在の和菓子屋の御隠居。80代だが耳も口も達者。店を継ぐ息子の妻であるB子さんとのやり取りには笑わされる。二人の用向きは山歩きの誘いだったのだが(ⅰ)。
お酒を飲ませればその人の本性が現れるというが、これには男も女もない。江戸下町の市井女性の政治に対する鬱憤を聞くことができた。
久寿乃葉は深川に所在する。それでハハンと来る人は4月末に行われた衆院補選を思い出すだろうか。同時に行われた3選挙区の中でも俄然、全国の視線が集まったのが東京15区。地域的には江東区とぴったり重なる。首都のことでもあり、主要政党が選び抜いた(はずの)候補者を立て、党の幹部が連日応援演説にやってきた。その模様はマスコミでも大いに報じられたのだが、実際に投票する区民とは視点が少々違っていたようだ。
低投票率は選挙疲れ?
一つの議席をめぐって9人も立候補者が立った。投票率が高くなり、無党派層の動向次第で想定外のことが起きるのではないか。そういう声もあったのだが、蓋を開ければわずか40%しか投票に行かなかった。そのせいもあるだろうが、4月28日の午後8時に投票が締め切られるとほぼ同時に、各マスコミは当選確定者を報じた。
重要な選挙なのに投票率が逆に2割方も下がってしまう。江東区民は何を考えているのか。菜々子にも鹿児島の親せきから叱責の電話があったほどだ。
なぜ歴史的な低投票率になったのか。江東区民はこの1年で3度目の選挙権行使になる。昨年春に区長と区議の選挙。そして当選した新区長に選挙違反があって辞任した。やり直しの区長選が行われたのが昨年の年末。ところが前回区長の選挙違反の主犯が現職衆院議員であることが明るみになって辞任。それで衆院議員の後任を選ぶ必要が生じた。
いわゆる〝選挙疲れ説〟だが、A子さんが一喝。「選挙権がない他の地域の連中にとやかく言ってほしくないね。だれを国会議員にしたらこの国がよくなるのか。私だって真剣に考えたんだ。区民はみんな同じだと思うよ」
「考えに考えた結果、お義母さんは棄権したのですか」と突っ込むB子さん。
「投票したかどうかは、選挙権行使の基本に関わることだ。だれに投票したかどうかと同じく、だれにも明かさないよ。嫁のあんたにもね」
B子さん、ちょっとばかり鼻白んだようで、「私は投票に行きましたよ。あなたの息子さんと手をつないで」と言い返す。「でも選挙ポスターの顔写真を穴が開くまで見ても、当人の腹までは見通せませんからね。ダメな奴を落とすなら簡単なのですが…」
与党の候補者がいない
「区から配られた選挙公報を読んだけど、各候補者が持ってきた調子のよいスローガンのられつ。あやしげなやせ薬の宣伝文と変わりゃしない。当人とは会ったこともないのだから、その人を公認または推薦している政党がどこかから判断することになる。ところが今回は与党が候補者を出してないからねえ」
A子さん、注意深くしているようで自身の支持政党を明かしてしまった。
すかさずB子さんが「以前自民党の元議員も立候補していましたよ」。
「政治手腕がある人でも、わが国土を虎視眈々と狙っている中国から汚いカネを受け取る人はダメ。いざ緊急事態となったときに獅子身中の虫になりかねない。『君、国を売り給うことなかれ』。よくも立候補できたものだ」のA子さんにかぶせて、「でも1万票近く入りましたよ。江東区民の民度に疑問ありとされても仕方ないのかも」とB子さん。
与党不在の選挙
国会議員の選挙なのに与党が党籍のある候補者を出せないというのはさすがに問題ではないのか。その党所属の衆院議員が立て続けに逮捕されたのは事実だが、いずれも議員個人の問題。今度はB子さんが議論を提起した。
「問題議員を自主排除できなかったことは大いに反省すべきですが、それと候補者を出さないのは別問題。この与党は自主憲法制定、少なくとも憲法改正を党是としていながら実情は動きが悪い。しかもあろうことか、今回の選挙では憲法改正反対論者に推薦状を出そうとしたので、筋が通らないと知り合いの区議に抗議しました」
推薦の話は沙汰止みになったため、都知事の全面応援にもかかわらず、この候補は惨敗した。では本来の与党支持者の票はどこに流れたのか。
「党幹部の思い上がりに対するお仕置きの意味があるのさ。支持者がそっぽを向くとどうなるか頭を冷やして考えろ」とA子さん。
でもそれでは説明の一部にしかなっていない。世論調査ではどの党よりも〝支持政党なし〟が多いのだ。この無党派層にしてみれば与党の純粋候補者がいてもいなくても同じ。今回は9人も候補者がいたのだから、次善、三善の消去法で投票できるはず。
政策を知る術がない
候補者の政策を比較検討するには公開での討論会が一番。アメリカの大統領選挙に代表されるように、政治的中立の司会者を介してのディベートが適切であり、効果的。国会議員として国家、国民の将来を預かろうというのだから、森羅万象の政治マターについて哲学、理念が明確で、それを説得推進する力がなければならない。選挙公示日に青年会議所関係だったと思うが、東京15区全候補者が一堂に会する討論会が行われた。菜々子はネットでそれを見たのだけれど、テレビや新聞ではまったく紹介されなかったようだ。
「そんな催しがあったのですか。見てみたかったなあ」とB子さん。江東区民でも見たことがない人が多そうなことに菜々子が驚いた。候補者の主張を一方的に報じるより何倍も有権者の選択の素材になる。
討論会には9人の候補者中8人が出席した。ただ一人の欠席は国会での最大野党の公認候補者。(そしてこの人が当選した。)絶好の政策周知の機会なのになぜ逃げるのか。司会者は選挙期間中に二度目を計画していると言っていたので期待していた人が多かったはず。でも、それはなかった。
それよりも選挙はとんでもない方向に向かって行ったのだ。
選挙妨害
候補者の一人の陣営が他候補者へのとんでもない選挙妨害を始めたのだ。映像を見た人は感じただろうが、まともな神経や行為ではない。他の候補者に向けて大音量で罵詈雑言を浴びせ、その候補者や応援弁士の演説を物理的に不能にするのだ。耳に難聴症状が出て加療を要した者もいる。
B子さんはその現場に出くわしたという。あまりにひどいのですぐに警察が来てしょっ引くと思ったが、その気配がない。候補者の演説を聞こうと群衆が詰めかけているのだが、妨害音量が大きすぎて演説の一行分も聞けない。妨害者は数名なのだし、みんなで袋叩きにしてしまえばと声に出したら、「手を出したら彼らの思うツボです」と隣で聞いていた紳士に諭された。
でもねとB子さん。あんなに派手に妨害されていると、妨害されている側が問題を抱えているいかがわしい者に見えてしまう。それで投票の足がすくむ者が出てこよう。「そこまで読んでの選挙妨害だったとすれば、彼らまたはその黒幕の意図が透けて見えるわ」。
選挙妨害は憲法否定の重罪だ
これにA子さんが反応。政策に興味を抱いた候補者の演説会を聞こうとしたという。ところが演説会場を教えてくれない。妨害者が付きまとっているので計画できないのだと。
「選挙運動に名を借りた民主主義破壊工作ではないか。こんなことを好き勝手にやらせて民主的法治国家もないものだ」と手厳しい。
国会での悪質選挙妨害を禁じる法律制定の動きを伝えるとA子さん、ボルテージが上がった。
「新たに取締法を作るということは、現行法では今回の妨害者の行為を適法と認めることじゃないか(ⅱ)。冗談じゃないよ。犯罪は犯罪。傷害罪程度では対応が甘い。彼らは民主主義である公正な選挙を否定している。社会の敵であり、殺人などよりも重刑でなければおかしい。それに見合った処罰が必要だ。国民の処罰感情にも照らして、現行法の中で適用可能な処罰条項を探し出すのが、警察、検察の任務でしょうよ(ⅲ)。さしあたり『民主制統治の基本秩序を壊乱することを目的とする集団行動』容疑で逮捕して、刑事裁判にかけることだろう」。
該当罰条があったのか。菜々子とB子さんが目を見合わせていると、A子さんがスマホで検索した刑法典を見せた。刑法77条にたしかにその文言、記述がある。量刑では、未遂を含めて首謀者は死刑、不和随行して参加した最軽量者で3年以下の禁固。罪名は〝内乱罪〟とある。
(ⅰ)『第236夜 上高地でハイキング』。2023年7月号
(ⅱ)国会が大車輪で新処罰法を一夜で制定しても、「遡及処罰禁止」という民主主義法理により、新法を根拠に先般の行為を処罰することはできない。
(ⅲ)既存の処罰条項の解釈であるから法治主義の原則に違背しない。国家ボスのツルの一声で、法的根拠なく罪に問われるのが人治主義である。
(月刊『時評』2024年7月号掲載)