2024/10/07
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
年金は酒の肴にもってこい?
コロナでの人流規制が解かれ、深川かいわいにも人出が戻ってきている。お店がにぎわえば飛び交う情報量は増える。こちらの客から得た情報を、あちらの客に伝播する。飲み屋の集客要素は、お酒と料理だけではない。良質の情報も重要なのだ。
カウンターに並んでいるのは都内で年金事務所に勤務する先輩と後輩。郷里が同じ鹿児島ということで久寿乃葉に足を運んでくれる。それだけでもありがたいが、加えて国民共通の関心事である年金制度に関する〝正しい知識〟を得ることができるのだ。
「国民年金保険料の収納率が80%超えの快挙だったそうね」と話題を振ってみた。
「そうなんですよ」と喰いついてきたのは若い方のEさん。
「保険料収納率が60%台に落ち込み、『年金機構は何をやっているんだ』と叩かれていた10年前に比べれば大躍進。昨令和4年度の最終収納率は80・75%ですからね。マスコミも見直したのではないでしょうかⅰ」
年配のKさんは慎重だった。菜々子に年金保険料についての解説を始めた。
「世間は年金額が『多い、少ない』と批評しますが、その財源についての関心は極めて低い。年金の本質はその財政構造です。それがどれだけ理解されているか。その点を突き詰めれば、収納率は100%でなければならないことになるⅱ」
国民皆年金とは
「先輩、理念と現実は別ですよ。『保険料を納付しておかないと後で年金額が少ないと後悔するよ』と脅しても『たまった未納額を振り込むのは面倒だ』と開き直られる日々。年金機構の本部もその前提で『収納率80%は歴史的快挙である』と発表したのでしょう」
本店が立てた計画通りに進まないと鞭で叩かれ、お尻を蹴っ飛ばされるのは出先の支店や事務所。Eさんの抗弁に対し、「それでは聞くが」と前置きしたKさん。「収納率が上がれば保険料収納額も増えているはずだが、その点の実績はどうか?」。Eさんが自分の事務所の事業報告数値を思い出そうとするのを制してKさんは続けた。
「国民年金保険料にはさまざまな免除の仕組みが設けられている。人生は山あり谷ありだから手元不如意な時期もある。20歳から59歳までの40年すなわち480月の間、キチンキチンと定額の保険料を払えるとは限らない。『今月はちょっと待って』ということはあるだろう。それに対応するのが保険料の免除や特例納付の仕組みだ」
「そんなことは分かっています」とEさん。「前年度の所得状況から免除要件に該当する者にはターンアラウンドⅲ方式を導入するなど、保険料納付義務者へのきめ細かい対応を始めたではないですか」
「保険料未納者を増やさない点では進歩なのだが、その結果、免除者が増え、保険料の収納総額は減っている。保険料収納率の計算においては、免除該当者を分母から除外することで生じる見せかけの側面を見落としてはいけない」とKさん。菜々子のために簡単な数値を例示してくれた。被保険者が100人いて積極的保険料納付者が50人だと、収納率は50%である。未納50人のうち強制執行を含めて30人に保険料を納付させれば収納率は80%になる。しかしこれとは別に収納率を上げる方法があるというのだ。未納50人のうち20人を免除者にすれば、保険料納付義務者が80人に減じるから、納付者50人のままでも収納率は80%を超える。
「免除申請が簡単になることで保険料納付者までもが免除者に転換しても、納付率は逆に改善する数字マジックが可能になるわけね」。菜々子にも問題の本質がわかってきた。
保険料の追納
年金保険料は二年で時効になり、それ以降は追徴を受けることはない。ただしそれで終わらないのが一般の税金と違うところ。保険料納付義務は現役期の40年、480月分であり、そのうち保険料納付がされていない月分の年金はつかない。
「保険料の〝免除〟は〝滞納〟とは違います。滞納者は満額年金をもらえませんが、免除者は納期限から10年以内に〝追納〟することで、満額年金を確保できます」。Eさんは胸を張ったのだが、保険料の追納という仕組みをどれだけの国民が知っているだろう。Kさんが指摘するのはその点だ。法律上の位置づけも「保険者である厚生労働大臣の承認を得て追納できる」と極めて消極的であり、なによりも日本年金機構自体が「保険料を納められないので免除申請した者が、自ら追納に来るのは期待薄」の方針といい、追納に関する整理された統計もない。
「免除者が追納するメリットを感じていない」とKさん。40年間免除者は保険料納付ゼロで、満額年金の半分をもらえるのだ。基礎年金の財源の2分の1が国庫負担されているのが理由だというが、釈然としない。
「政府財政は1000兆円の借金でアップアップの状態なのに、どうして年金への国庫負担を続けるのかしら。保険料という自己財源があるのにさらに一般財政をつぎ込み続けることの意味はなによ」
菜々子ならずとも心ある国民はそう思うだろう。政府の一般財政のかなりの部分は今も国債依存である。国債とは今年集めるべき税金を将来世代に先送りすることにほかならない。「年金は世代間の支え合い」というのが政府キャンペーンであり、一般的に今の老齢世代を若い次世代が支える仕組みと受け取っている。言い換えれば親世代を子の世代が支える。これが国民年金保険料だ。ところが国債となれば、借り換え、借り換えで、実際に返済負担するのは何世代先になるかわからない。何百年も先のある日、時の財務大臣が「令和という20世代前の年金のツケのために新税導入が必要になった」と訴えたらどうなるか。
「でも今さら国庫負担をやめたらたちまち基礎年金の額は半分になりますよ」とEさん。それは困るけれど、先々の世代に迷惑をかけ続けていいのだろうか。
「そもそも基礎年金は長生き者への対策のはず。支給開始年齢を80歳とか90歳にずらせば受給対象者が何分の1にも減って年金額を増やせる。保険料財源だけでも〝食べていける年金〟が実現するわ。そうなれば保険料納付意欲は逆に高まるのではないか」
KさんもEさんも同意したが、年金機構の上層部の認識が問われるところだ。
年金受給の繰り下げ
原則的支給開始年齢は65歳。しかし自分はまだ若い。そういう者は〝受給時期繰下げ〟で年金額を増やすことができる。これまで最長5年だったが、先般10年に延長された。75歳まで遅らせれば年金額は1・84倍になる。そのうちさらに延長されて「90歳から5倍増年金を受給」なんてことが可能になるかもしれない。強制引退がない自営業者の場合、けっこう魅力的な仕組みに思える。
「でも実務的には問題含みです」とKさん。どういうことか。65歳の時点で〝繰下げ〟の意思表示をすることになっていない。年金受給開始の請求をしないでおいて、例えば70歳時点で、「今から繰下げ増額年金を受け取る」と「65歳に遡って5年分は一括受給する」の選択が可能なのだ。長生きしそうであれば前者を、老い先短いと自認すれば後者といったイイトコ取りができ、年金財政上中立なのかの疑問があるという。
他制度への影響もあるとEさん。特に後者の一括受給をした場合、過去5年間のその人の所得額が遡って増えたことになる。年金以外の収入もあったはずだから、それと加えての所得税や住民税の再計算が必要になり、場合によっては税の追徴を受けるなど思いがけない〝災難〟に遭う者が生じることがあるという。年金事務所にもその種の相談があるようだが、「他制度のことは答えない」ことになっているとか。
なんとも無責任に聞こえるが、Eさんの機嫌を損ねないよう口にはしなかった。この点、Kさんはもっと開けっぴろげ。
「同じ社会保険である国民健康保険料も遡って増額、追徴しなければならないはずですが、保険料の時効を理由に実施していないと思います。さらに病院受診時の一部負担割合が変更になるケースでは、病院は当人に追加支払いを求め、同額を国民健康保険に診療報酬の一部として返還することになるはずですが、実務的にやれるはずがありません」
繰下げ受給の選択利得者の陰で一般の国民健康保険加入者がしわ寄せを受ける構図。
「一人ひとりにすれば大した損失ではありませんよ」。菜々子の怒りを察知したEさんがなだめにかかったけれど、この姿勢はいただけない。年金額は毎年度、わずか数円でも改定が行われる。その律儀さの片方で、その年金受給者が加入する国民健康保険料では、払うべきでなかった診療報酬の回収が実務上の理由で行われていないのだ。結果として健康保険料の不当使用が放置されている。
もう一つ疑問がわいた。
「今年65歳になる全員が繰下げ意向で受給開始しない選択をすれば、今年度の年金制度は大黒字になるわよね。ただし負担の先送りに過ぎず、10年先に一斉繰下げ受給開始で大赤字になることが約束されている。そうであれば繰下げによる今年度未支給分を別途留保しておくべきだけど、年金会計にそういう項目は用意されているのかしら?」
Kさん、Eさんとも、問いには答えず押し黙ってしまった。仕方ない。追及はこの程度にして、郷里鹿児島に話題を変えよう。二人に芋焼酎のグラスを渡した。
ⅰ もっとも東京での収納率は76・1%と低い。また事務所間格差もあり、Kさんの事務所は75・3%だが、Eさんの事務所は66・6%と10%近い違いがある。
ⅱ 日本の基礎年金は現役時に無職、無所得であった者にも支給される、世界でも稀有な仕組み。それゆえに低所得者などにいかにして保険料を納付させるかの課題を抱える。世帯主や配偶者に連帯納付義務を課しているのはその対策の一つ。
ⅲ 自治体の税務情報などを年金機構が活用し、機構の側から要件該当者に免除申請を強く促す仕組み。免除制度の要件を満たす者が滞納者に陥ることを防止する効果がある。
(月刊『時評』2023年10月号掲載)