2024/10/07
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
行楽帰り?
「疲れたあ~」「ビール飲ませて~」と口々に言いながら久寿乃葉名物60度の階段を登ってきた女性二人連れはYさんとJさん。古都鎌倉の帰りだという。
コロナの禁足が解けて、名所は観光客で大賑わいという。人混みにもまれて疲れただろうが、気持ちは若返っただろう。この二人、いずれも高齢者ではあるが、前期高齢者成りたてのJさんに対し、Yさんは後期高齢者の中でもさらに後期。20歳の差はあるはずだが、いつも連れ立ってくる。前に聞いたところでは、Jさんは売れない(本人の弁)作家で、Yさんは零細(本人の弁)出版社の社長。端折って言えば作家と編集者の関係。
あいにくカウンター席はグループ客で満杯。菜々子はこちらの相手で手一杯。二人にはお座敷に入ってもらい、ビール瓶2本のほかに大きめの徳利をあてがった。スマホで撮った写真を見せ合っているから、しばらくは二人で盛り上がるだろう。
この部屋に住みたい
手が空いたのでお代わりの徳利を手に二人のところに赴いた。
「私、この部屋に住みたい」。Yさんが握るスマホに映っているのはリゾートマンション風の室内、その窓からの風景、さらに大きなお風呂やビリヤード室などの共用施設。鎌倉近郊の海岸地域にある老人専用マンションだという。
Jさんが説明する。彼女の母親がこの老人ホームで暮らしていたが、年初めに亡くなった。一般の有料老人ホームは〝終身利用型〟だから、当人の死亡で居住権がなくなる。ところがJさんの母親の場合は〝分譲型〟だったので、権利が相続される。施設から「今後はあなたが利用料を払ってくださいね」と改めて請求され、母親から「お前にはこの部屋を残すからね」と言われていたことを思い出したのだという。
「でもねえ」とJさん。「この施設に入れば〝上げ膳、据え膳〟。それが嬉しいと思うのはまだ20年近く先のこと。それまで権利を保持しようとすれば、管理費その他を払い続けなければならない。それがけっこう高くて月に十数万円。これが今の家計費に上乗せになるのはきつい。それで泣く泣く売っちゃおうかと…」
コロナ前は月に数度、定期的に母親を訪ねていた。ロビーにある喫茶室のおばさんなど施設の職員とは顔馴染みだ。母を連れ出してリゾート風の海岸地域を散歩し、近在飲食店の常連にもなった。売る前にもう一度、なじみの光景を目に入れておこうと思い立った。
「お願い、付き合って」と言われれば「分かったわ」となるのは人情でしょう。ここからはYさんが継いだ。出版業での経験を活かし、適正価格をJさんに助言してあげれば喜んでくれるだろう。それに久々に八幡宮や大仏を訪れる機会になる…。
「でもこの目で部屋や施設、周囲の環境を見たら、自分が住みたくなった。ただし相場金額と自分の財力が折り合わない…」
分譲なのに貸出しできない
あなた社長でしょう!菜々子の言葉の前にYさんが釈明した。彼女は長年、難病の夫を看病し、あらかたの財産を処分してきた。そして夫は1年前に死亡した。気落ちもあって出版社の経営権を社員に譲った。だから今は年金での暮らし。老人マンションの月々の管理費や利用料は払えそうだが、分譲所有権を買い取るまでの資金はない。
Jさんから借りて住めばと助言したが、それは規約で禁止されているのだそうだ。
「Yさんに住んでもらえば私も大助かり。Yさんが亡くなる頃には私がYさんの年齢になり、ここに住みたくなっているはず。それまでの間の貸し借りでお互い助かる」
菜々子は乏しい知識を絞る。その規約ってだれが作っているの?ここは分譲マンションだから、法律によって所有権者による管理組合が存在するはず。その組合が定めるのが管理規約。そこに賃貸禁止条項があるのだとすれば、Jさんは組合員資格者として規約改正を提案できるはず。
「そういえば〝管理組合総会案内〟が自宅に届いていた」とJさん。
複雑なのは、ここがマンションであると同時に、有料老人ホームでもあること。多分ホーム経営会社が、マンション管理の受託会社を兼ねている。老人ホームには入居者に対するサービスの権利義務契約があり、その内容を定めた入居者規約があるはず。そこにも「入居者が勝手に他人を連れ込んではならない」との禁止事項があるのだろう。
「分譲マンションの所有者の権利擁護と老人ホーム入居者管理の上での矛盾、相反することがあり得る。ただし一律の賃貸禁止は、財産権保護に重点を置くわが国の法制の骨格に照らして問題ありなのではないか」
菜々子の法律論に二人は目を白黒。タネを明かせば、先日図書館でやっていた終活関連市民講座で似たような話を聞いたばかりで、それを受け売りした次第。知らない二人は「菜々子はタダものではない」と襟を正している様子。
買戻しという手はないか
この老人マンションには介護専用施設棟が用意されていて、認知症を含む重度要介護者は別途費用を負担してそちらに移り住む決まりになっている。するとその人の持ち部屋は自動的に空き室になるが、管理費は払い続けなければならない。そういう部屋がけっこう生じているようだとJさん。権利者、施設双方にとり、好ましくない状態だ。
こうした場合、マンション管理組合員の権利をだれが行使しているのだろう。入居者の過半が重度認知症という極端な事態を想定すれば、組合議決が成り立たないこともあるのではないか。家族のだれかが代理行使するなどの仕組みになっているのだろうか。
母親が介護施設棟にいた最後の数年間に「貴殿に総会への代理出席を願いたい」といった連絡を受けた記憶はないそうだ。もっともここ数年はコロナで面会自体が制約されていたから、総会に入居者以外を呼ばなかったということかもしれない。
特別施設棟入所で生ずる負担増で母親の年金では払いきれなくなった。不足分は娘であるJさんが支払うことになる。「見舞いを兼ねて持参する」と申し出たのだが、コロナを理由に銀行振り込みを強要された。「コロナに名を借りた訪問妨害だ」とJさんは涙を浮かべたが、ここでの本質とは別問題。
Jさんがマンション管理規約改正の提案をするとしても、「ああだ、こうだ」ですぐには実現しないだろう。手っ取り早い方法はないか。Yさんが手を挙げた。
「私には子どもがいないから死後に部屋の権利を残す相手がいない。一方、Jさんは私の後で母親の形見の部屋に住みたいという。だったら、今回私がJさんから買い取り、私が死んだらJさんが買い戻す契約ⅰはできないかしら。あらかじめ前後2回の売買価格を同額と定めておけば、現実に金銭をやりとりしなくてもいいはずだわ」
なるほどとJさんは頷いている。彼女は今すぐ現金が必要なわけではない。求めているのは母親から引き継いだ部屋にかかる管理費負担。とりあえず、だれかが居住して管理費を払ってくれればよいのだ。
自宅処分と併せて一本の方法
この老人マンションとは別にJさんにはもう一つ課題がある。同居している息子を独り立ちさせるべく「頭金を応援してやるから自分で家を持て」と言い続け、息子もようやくその気になってきた。ただしその頭金に自分の老後貯金をはたくのは冒険が過ぎる。それが母親からの相続マンションを売ろうと考えた理由の一つでもある。
「そういうことならJさんに私の都内のマンションを買ってもらいたいわ。知った仲同士だから、不動産屋を介して手数料を払いたくないもの。ただしそのためにはお母さんのマンションに私が住めるようになることが条件だけど」とYさん。
二人が菜々子の顔を見た。「若い(相対的の意味と思える)菜々子には思いつく知恵があるだろう」と催促された。期待されても飲み屋の女将風情に驚くようなアイデアはありませんよ。でも期待されたからには、なにか言わなければ…。
昔、客の一人から聞いた契約方式を思い出した。「ややこしいからよく聞いてね」と前置きしてプランを紹介した。
「Jさんの老人マンション(A)とYさんのマンション(B)を交換ⅱするのはどう?Aは買戻し特約付きだから当然Bより安い。差額をJさんからYさんに払うが、それを即金ではなく、Yさんの存命期待年数で割った金額を月々〝終身定期金ⅲ〟で支払う」
Jさんの月負担は数万円に納まり、Yさんには老人マンションの管理費や利用料の足しになる。Jさんの息子も自立できて〝三方よし〟。不動産の変更登記は素人でもできるし、なによりも不動産屋に仲介費用を払う必要がない。
「母の部屋の管理料をYさんが払ってくれ、私は将来の居住権を確保できるのね」とJさん。
Yさんの死亡で買戻しが効力を生じる。その後の管理費負担はJさんに移るが、Yさんへの終身定期金支払いも同時に終了するから、Jさんの負担増は打ち消される。さらにJさんが老人マンションに移り住めば、今の自宅を売って老後資金に余裕ができる。
にっこりしたのはYさんも同じ。死後にはなにも残さない。でも遺体の火葬義務とその焼骨は残る。「その処理はあなたに頼むわ。風光明媚な墓地での樹木葬がいい。これを契約内容に加えよう…」
カウンター席からお酒のお代わりの声がかかった。菜々子はお座敷を後にした。
ⅰ 民法579条。不動産の売主は、売買契約と同時にした買戻しの特約により、買主が支払った代金及び契約の費用を返還して、売買の解除をすることができる。
ⅱ 民法586条。交換は、当事者が互いに金銭の所有権以外の財産権を移転することを約することによって、その効力を生ずる。
ⅲ 民法689条。終身定期金契約は、当事者の一方が、自己、相手方又は第三者の死亡に至るまで、定期に金銭その他の物を相手方又は第三者に給付することを約することによって、その効力を生じる。
(月刊『時評』2023年9月号掲載)