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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第232夜】

エアコンなしの冬 ウクライナ市民に連帯を!

pixabayより
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私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

久寿乃葉とかけて

 ドスッ、ミシミシ。ドスッ、ミシミシ。ドスッ、ミシミシ。…。急こう配階段を登ってくる足音がする。久寿乃葉の玄関は道路に面した一階にあるが、お店は二階。ウグイス張りの階段を登り切り、踵を右に転じて菜々子とお客様は〝ご対面〟となる。

「だれだろう?」。菜々子の脳が高速回転。過去の顧客リストから足音で検索するのだ。トントントンとリズミカルに駆け上がる音もあれば、ドタッ、ドタッと手すりを支えにあえぎつつ登ってくる音もある。その日の体調、感情が分かれば、提供する話題、お出しするお酒の銘柄を調整する。菜々子流のおもてなし。

 やはりNさんだった。何年ぶりだろう。顔の肉付きは前回と同じ。髪が後退して額が広くなった感はある。声は変わらないバリトンだ。

「それにしてもこの部屋寒いなあ」。この人、室温にうるさい。

「この部屋、暑くないか」。たしかカウンター席にお尻を下すなりそう言ったことがある。思い出した。あの日は残暑が厳しいにもかかわらず、エアコンが故障していたのだ。「暑くてたまらん」とビールを喉に流し込み、それがいっそうの大汗になっていた。ご当人覚えているだろうか。

 とっさになぞなぞを振る。「久寿乃葉とかけて今年の冬のウクライナと解きます。その心はなんだ?」

 いきなりなんだよとブツブツ言っていたNさんだが、顔をあげ指を鳴らした。「暖房がない!」

「ピンポーン。大正解。お熱いのをどうぞ」。ビールでは冷えるから、最初から熱燗にした。

エアコンがない

「またエアコンが故障したのかい」。Nさん前回(といっても7年ほども昔)のことを覚えていた。事情が違うのは、前回は冷房がない騒ぎだったのに対し、今回は暖房がない。また前回は故障だったのに対し、今回はエアコンが撤去されていること。つまりエアコンは恒久的に効かない。

 どうして?Nさんはけげんな顔をしている。今どきエアコンがないお店などあるものかと表情が問うている。そうなのだ。菜々子だって冷暖房が効いているほうがいい。エアコンを撤去したのには大家さんとの複雑な事情があるのだ。超簡単に整理すれば、大家さんは家の構造に影響するような工事に反対といい、菜々子は借主には便利に暮らす権利があると思う。そして建物が戦後の資材不足時代の建築で耐震性能がない。大家さんと膝を割って話せばと仲介の労を申し出る人もいるが、今はまだメンツの段階。我慢比べをしているのだ。そのしわ寄せをお客さまが受けている。

「やせ我慢しないで妥協しなさいよ」。そういう声も重々承知。でも菜々子本人はさほど寒くない。カウンターの内側にはガスコンロの炎があるもの。

「今週は寒波かんぱだぜ。エアコン費用をカンパしようか」。Nさん、お尻ポケットから財布を取り出すしぐさをした。「かんぱ」の言葉遊びで悦に入っているが、そういうのを〝寒くなるギャグ〟と言うのです。

ウクライナ人は耐えている

Nさんが話題を変えた。「さっきのなぞなぞだが、ウクライナ人は電力なしの冬を過ごしている。緯度がかなり南に位置する東京で〝寒い〟なんて言うのは罰が当たるな」

そうなのだ。昨年2月末に始まったロシアの侵攻はいまだに続いている。当初の「三日で首都キーウを落とされ、プーチンの傀儡政権ができるのだろう」との悲観シナリオは、ウクライナの人々の強固な抵抗で跳ね返されたけれど、いまだ国土のかなりの部分にロシア軍が居座っている。完全に追い出すには2年、3年かかるだろう。

 そのロシア軍がやっていることは住民を拷問する。強姦する。後ろ手に縛って頭に銃弾を撃ち込む。万余の子どもをさらってロシアに連れ帰る。これは戦闘員として養成訓練するためらしい。昔、オスマントルコ帝国は、異教徒の子どもを奪って来て洗脳し、皇帝直属の親衛隊兵士に育てあげた。親兄弟の愛から切り離されて育つため、忠誠の対象は皇帝だけとなり、命を投げ出すから使いやすかった。「現代ロシア皇帝気分のプーチンはイスタンブールのオスマン帝国皇帝を真似ているのだろう」。Nさんは歴史通だった。

 ロシア軍が占領地でやっているのは犯罪行為だらけ。それにワグネルという民間軍事会社。これはどう見たってプーチンの私兵集団。おまけに構成員の多くが、本来獄につながれていなければならない殺人などの重罪人。犯罪者を先頭に攻め込むのはレーニンやスターリン仕込みの戦法で、プーチンはそれを受け継いでいる。Nさんはソ連共産党や中国共産党がいかに非人道的で幾千万人もの人を死に追いやったかの〝黒史〟を語り始めた。

 そうした歴史の裏側は菜々子も知らないではない。しかし共産主義者のプロパガンダに染まっているのか、まったく受け付けない人が一定数いるのも事実だ。そうした人もウクライナで起きていることを見聞きすれば、現実に目覚めるのではないか。

 Nさんが拳を握った。「ロシアは電力や水道などの生活インフラにミサイルを撃ち込んでいる。軍人であれば〝武士道〟とか〝騎士道〟への心がけがあるものだ。乃木大将の水師営でのロシアの敗将軍ステッセルへの思いやりを思い出せばよい。それに対するスターリンの返答はシベリア抑留。恩を仇で返すとはこういうことだ」

 Nさん、ウクライナに戻そうよ。

「そうだった。国際法で防衛戦争は認められている。その認められた戦争でも戦闘に無関係の市民への攻撃は許されない。発電所や送電施設を破壊するなど、戦争ではなくてテロ行為。ウクライナのゼレンスキー大統領が『ロシアはテロ国家である』と批判しているのは当然だ。『義を見てせざるは勇なきなり』という。ウクライナは旧ソ連時代の専制国家から西欧型民主主義に変わったという経緯もある。わが日本国民はもっと連帯を示すべきだ」

 Nさんは昼間、港区の青山に行っていたという。「カナダ大使館の前を通りかかったら『カナダはウクライナと連帯する』と宣言文が貼ってあった。日本は旗幟鮮明にせよとの呼びかけに思えて恥ずかしかった」

 カナダは緯度が高く、冬は厳寒だ。ウクライナの人々は電力が途絶え、エアコンなしで震えているのをカナダの人々は正視できないのだろう。国民がそう思うなら、政府はその思いを実行に移す責任がある。それが民主主義。

「その点、わが国政府は腰が引けている」。Nさん、熱燗で体が温まったか、饒舌になってきた。「発電装置の支援などは当然必要だが、それは来年冬までに間に合わせるとして、当座の用として〝使い捨てホッカイロ〟をそれこそ山のように送ってはどうか」

 大砲や戦車を送って戦場での優位を確立して、ロシア軍の士気を削ぐのが重要なことは論を待たない。同時に、市民が寒さで病気になったりしないこと、講和を望む弱気が出ないようにすることが肝要だ。「冬の屋外での必需品だぜ」とNさんはアンダーウエアをめくり、ホッカイロを取り出した。

「朝からしているがまだ暖かい。ウクライナの人々が毎日使えるだけ自衛隊の輸送機で送ってはどうか。1機に何十万個積めるかなあ。携帯コンロ用のガスボンベもいいのではないか。煮炊きだけでなく、暖房にも照明にも使える…」

外交戦略

 日本は遠方だから支援物資を送るにも軽い物がよいとNさん。でもそれで武器弾薬を送らない言い訳にはならない。韓国はすでに軍事品の支援を始めているとの話もある。「なぜ日本は逃げるのか。ロシアが怖くて民主主義国の仲間を見捨てるのか」と問われる日が来るのではないか。

「日本は軍事ではなく外交力で頑張るべきだと主張する国内政党もあるわよ」。その言葉にNさんが反応した。

「わが日本は国連中心主義。そのことは憲法からもうかがわれる」と、カバンから本を取り出した。題名がずばり『民主主義』。昭和23年に文部省が作成して全国の中高生に配った教科書の復刻版だという。その一節を読み聞かせてくれた。

 国際連合は第一次世界大戦後の国際連盟の失敗を教訓にしており、安全保障理事会の決定で平和破壊者に対して〝武力制裁〟することになっており、それへの兵力提供は加盟国の神聖な義務。憲法9条がいかなる軍事力ももてないとの解釈に拘泥するのであれば、条文を改正するか、国連を脱退するかの二者択一の自縄自縛になる。

 フーンと頷く菜々子を無視してNさんは続けた。この本での重要部分は次の下りだ。安全保障理事会では五大国の拒否権があり、これが国連を機能不全に陥らせている。民主主義とは議を尽くしたら多数決で決めるのがルールなのだから〝拒否権〟は筋が通らない。国連創設時の力関係への忖度という妥協だったのだから、早急に改める必要がある。その場合、武力制裁など重要案件は国連総会で3分の2以上といった多数で決することにすればよい。

「昭和23年といえば戦後まもなくでまだ連合軍の占領下にあった時代でしょう。GHQの検閲にも負けずに生徒に民主主義の本質を理解させようと教科書を作った文部省はみあげたものだわ」

「その先輩たちの熱意が受け継がれていたら、日本の外交官の活躍で国連の安全保障理事会では拒否権使用ができなくなっていただろう。そうすればウクライナ支援やロシア制裁は容易だし、さすがのプーチンも侵攻しなかっただろう」とNさん。

「今年夏のG7サミットの開催地は広島市。岸田総理は各国首脳を原爆資料館に連れていくのよね。国連の機能不全打開策を提案し、核軍縮で世界を引っ張ることを誓い合い、世界を真の平和に導いてほしいわね」

 夜が更け、熱燗でも温まらない。家に帰って暖かいお風呂に入れる幸せに感謝しよう。

(月刊『時評』2023年3月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。