2024/10/07
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
システム導入率高まらず
ニュースではマイナーの扱いだったけれど、国民生活の面ではかなり重要なはず。健康保険の資格審査確認システムがそれである。飲み屋の女将風情がどうして関心を持っているのかですって?なんという不見識。私たちの健康保険制度の運用効率化が進めば、保険料を引き下げ、税金の投入を減らし、新規の治療法や薬が保険で使える。半面、集約された個人情報が抜き取られ、脅迫材料に使われる可能性がある。
ニュースの趣旨は以下のようなことだった。「保険医療機関や保険薬局での受給資格確認がオンラインで行えるようになったが、その導入状況が芳しくないことから、政府・厚生労働省が導入加速化プロジェクトを立ち上げた」。導入済みは2022年2月時点で1割強、導入完了時期まで残り1年ちょっと。よほど奮起が必要ということなのだろう。
オンライン資格確認の必要性
「わが国は国民皆保険なので、公的治療を受けられない人はいないのです」。政府の偉い人はそういうふうに説明するけれど、いかに誤解を生んでいるかの認識が欠けている。これに頷いたのが元お役人のNさん。
「現役時代は共済組合の保険に加入していたが、退職したら脱退させられて区役所の国民健保に加入手続きをしなければならなかった。菜々子ママと同じ保険証になったねと見せ合ったが、再就職が決まったらまた加入保険制度が変わり、保険証も切り替えられた。そのたびに保険料も変わる。独立財政運営の"制度集合システム"に過ぎない」
そんなことも知らずに「健康保険財政の長期予測システム」のプロと威張っていたわけかと冷やかすのは、囲碁クラブ仲間、飲み仲間であるHさん。公的病院の事務長経験があり、現役時代には業界では辣腕ぶりで知られていた。といっても当人の主張だが。
「病院は基本的にどんな患者も受け入れる。ボクは『保険証の有効性が確認できない患者は診療を拒否すべきだ』と何度も主張したけれど、これだけは院長が認めない。医師法に診療の応召義務があるからというのだが、他人の保険証での受診を見抜けず、結果的に詐欺の片棒を担ぐことの方が、保険医療機関としての責務違反なのだと思うのだがね」
何度も聞く話だから今では菜々子も理解できるが、初めてのときはチンプンカンプン。わが国の医療は保険主義。保険に加入して保険料を納付していなければ受診資格がない。これがイギリスや北欧の国民保健サービスと違うところ。そして加入すべき保険が、職種や居住地で異なったりする。さらに始末が悪いのが、加入資格がなくなっても保険証の回収が事実上は行われないから、無効保険証が多数存在する。
診療報酬とりはぐれ
「オレも書斎の引き出しに過去の保険証が何枚もあるぜ」とNさん。ほんとうは返さなければならないことに気がついて、元の職場に電話したら、「今さら面倒くさい事務をさせないでください」と叱られたとか。
そうした無効の保険証が売買されているフシもあるとHさん。家族で1枚の紙製保険証から、各人ごとのプラスチック板保険証に切り替えられているが、どういうわけかICチップが組みこまれず、顔写真も刷り込まれていない。
「顔写真がプリントされていればなりすましを見破れるが、生年月日と当人を見比べて『あなた本人ではないでしょう』なんて言えないぜ。差別発言、人権問題にされてしまう」
「オレだったら、他人の保険証を使ったりせず、偽造の保険証を作って売るがね」とNさん。「クレジットカードに比べれば、技術的には雑作もない。偽造がばれるのは、その保険証を元に作られた診療報酬の請求が健康保険の保険者に出されてから。偽造保険証を使った患者が捕まっても、製造元にたどり着くまでに、国外への逃亡時間はたっぷりある」
「あなた、ほんとうに元お役人だったの?」。モラル感の欠如ぶりに呆れた。
「そういった輩が横行するとだれが被害を受けるか。健康保険の保険者は受給者のなかに無資格者が紛れ込んでいないか、請求書を1枚ずつチェックする。無資格者への診療費を払う理由はないとして、報酬を支払ってくれないわけだ。『病院の方でしっかりチェックしないのが悪いのだから』と。理屈ではそうだけれど、先のような事情で、病院の受付での無資格者選別には限界がある」。
マイナカードとの連動
政府がマイナカード普及を進めている。健康保険証の機能をマイナカードに切り替えてしまえば、顔写真もICチップも付いている。オンライン資格確認のためには、マイナカード普及がカギになるわけねと菜々子。それにはNさんが、元お役人らしい議論を展開した。「そのマイナカードの普及が進まない。来年の3月までに全員がマイナカードを取得するなど、今の進捗度では無理だよ」
さらにもう一つの問題があるとHさん。「マイナカードの情報の読み取り装置を診療所などが設置しなければならない。費用的には大した額ではないと思うけれど、個人運営の小さな診療所などでは装置の導入に抵抗があるというのだ」
それほどの金欠状態医院があるのか疑問ではあるが、費用を惜しみたい気持ちはわかる。菜々子の久寿乃葉など、いまだにレジスター導入費用を惜しみ、それをお客様サービスに回しているのだから。
マイナカード読み取りなどができる装置を国が無償で提供し、さらに取り扱う職員の研修などの事務費用の半額を補助することになっていて、918億円が配られる。
「それは話が逆だろう」。Nさんが口を挟む。
「マイナカードなどからの情報を直接読み取ることにすれば、事務職員が保険証から転記する作業がなくなる。加えて偽保険証使用を防止することで診療報酬取りはぐれが減る。補助金を要求するなど筋違いも甚だしい。期限の来年3月までにすべての医療機関が自費で設備投資をする。ついてはそれまでに対応しないところに対しては、非協力に対するペナルティとして診療報酬額の2割ほどカットをすることでバランスをとるべきだ」
無資格者を閉め出せるか
資格確認の第一目的は無資格者の締め出しだ。そのためには「保険証を出さない者にはクレジットカードなどで自費診療代金の支払い保証がない限り、診療しない」ことの徹底が必要。応召義務の間違った解釈を正すこととHさん。
それができたとしても保険者による資格管理がリアルタイムでできていなければ問題は残るとNさん。再就職先で前任者との関係がいろいろあり、出勤を始めたのが4月20日から。温情あふれる職場で「今月分の給料を満額お支払いするため、4月1日付の採用に書類操作しておきますね」と告げられた。Nさんに文句があろうはずがない。ただ、歯が痛んでいたNさんは、実は4月5日に前の国民健保保険証で受診していた。健康保険法では、加入資格は雇用された日からであるから、4月5日の受診分も遡り摘要になった健康保険組合が診療報酬を支払うことになるはずだ。保険者間の金銭やり取りとそれにともなう当事者の書類作業が必要になるはずだが、どこからも何も言ってこなかった。
社会保険の適用は月単位ではないのかと菜々子。だって保険料は月単位で計算されるもの。この点ではHさんが詳しい。
「多くの人が誤解している。保険料は月単位だが、資格の得喪は日の単位で行われる。だけど病院の窓口では、そんなことをいちいちやらない。たまに保険者から指摘され、診療報酬を減額されるが、泣き寝入りだね」
新システムの弊害懸念
資格確認の問題は、保険証に顔写真を入れるだけで大きく改善するはずで、それならマイナカードの普及を待たず、保険者サイドですぐにできる。なぜこれまでやっていない?
「単なるお役所的な事務改善への本能的反発かしら」。これは菜々子の皮肉。
Hさんは別の理由を挙げた。
「事務効率だけではない大きな目的があるのさ。健康に関連する個人情報を国民規模で収集できればどうなるか。同じ病気の手術歴を分析して技術の高度化につなげるとか、薬の処方と治癒効果を突き合わせることで、投薬の適正化ができる。健康や医療にかかる情報はビッグデータといって、だれにとっても喉から手が出る代物だ。国民の健康を改善し、健康保険の運用効率化につながる要素はきわめて大きい。レントゲン写真も共有でき、放射線被ばく量も減る」
「将来的に健康保険料の引き下げが可能になる。ひょっとして健康保険財政の将来は実はバラ色ということになるのかな。1922年の健康保険制度創設以来、赤字や財政破綻危機との闘いだった。百年にして状況改善か。ただ実感はないが」とNさん。
しかし問題もあるとHさん。「全国の医療機関がコンピューターで常時つながることのリスクが大きい。奈良県の市民病院が導入した電子カルテシステムがサイバー攻撃を受け、担当事務員が責任感から自殺する事件があっただろう。ネットでのつながりが大きくなれば、脆弱な個所からハッカーは進入して、情報を根こそぎ持っていく。有力政治家の持病など外交の脅しに使えるから外国政府のスパイには垂涎の的かもしれない。わが国の医療は健康保険制度が動かしているのだから、システム全体のサーバー攻撃への対応力を健康保険が保全する覚悟と行動が必要だ」
(月刊『時評』2022年8月号掲載)