2024/10/07
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。
世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
ミンクのコートが着られなくなる?
「女将、たいへんだぞ。ミンクがコロナウイルスで全滅し、ご婦人用の高級コートがなくなってしまうかもしれない」
ドタドタと階段を上がり、椅子に腰かけるなりHさんが発した第一声。菜々子は根っからの庶民派。冬はウールのセーターを重ね着する。ミンクのコートなどというセレブのお衣装には縁も関心もない。
「そのウールだって羊にコロナが感染すればどうなるかわからないぞ」
昼間に聴講した講座で、いまだに衰えを見せない新型コロナウイルスのヒトから動物への感染事例が紹介されたのだという。アメリカのミンク飼育場で数千匹バタバタと死んだ。獣医学の専門家が調査したところ、コロナウイルスの症状を示していた3人の従業者のいずれかからミンクに感染したとみられるという。
「ちょっと待ってよ。ヒトから動物への感染は起きないのではなかった?」との菜々子のツッコミには、「だって講師がそう言うのだから」と受け売りを白状した。
菜々子のような客商売ではお客様からの耳学問で得る知識が多い。おカネをもらいつつ、情報もいただく。「ふんふん、それで」の誘いのタイミング次第で、お客様のお酒は進み、吐き出す言葉が増える。今宵はHさんが講座で学んできたことをチャッカリもらい受けることにしよう。講演内容を話してちょうだいと促す。Hさんも菜々子に聞かせることで復習になり、記憶を確認することができると考えたようだ。会社の費用で参加した研修講座だから、報告書を書き、同僚・上司の前で発表しなければならないのだ。
そもそもコロナウイルスとは
武漢発の新型ウイルスは発生から1年になるが、終結の目処は立たないようだ。世界での感染者は4000万人近くになり、死亡者も100万人を超えている。Hさんはノートを開いて講師の話をなぞる。
「今回のパンデミック騒ぎを引き起こしているウイルスが、なぜコロナウイルスと呼ばれるか分かりますか?」
Hさんが菜々子の顔を覗き込む。「知らないわよ」と菜々子。
「知らなかったのがボクだけでなくてよかったよ。講師がこちらを向いたので、慌てて顔を伏せ、視線をそらした」とHさん。隣席の受講者が勢いよく手を挙げ、「コロナウイルスの膜には特徴的な突起物があり、それが太陽の光冠(コロナ)に似ていることから名づけられた」と答えた。
講師は満足して、太陽のコロナとウイルスのスライド写真をスクリーンに映し出したが、さほど似ているとは思えなかったとHさん。
「みなさん、太陽の直径は140万キロメートル。地球の直径の直径が1・2万キロメートルですから、大きさは約100倍ですね。ではコロナウイルスですが、直径は10ナノメートル。ヒトの細胞の直径は6から25マイクロメートルですから、600から2500分の1の小ささになります」
極小であることは分かるが、肉眼で見えることはない。電子顕微鏡の画像なのだという。これだけ小さいと自分で増殖する能力を持たない。つまりウイルスは遺伝子情報が詰まった核酸(DNAまたはRNA)なのであり、①門細胞構造をとらない、② エネルギーを消費しない、③ 何かの細胞に寄生しなければ増殖できない、④ 条件を整えれば氷や塩のように「結晶化」(長期間生存)する特徴がある。これで生物と言えるのか。そういう議論もされるそうだ。
特異の種に寄生する
「ではウイルスはどのようにして増殖するのか」とHさん。この部分はしっかり聞いてきたようだ。ウイルスが感染する相手生物を宿主と言うが、気道等からその体内に入り込んだウイルスはカギ、カギ穴の要領で特定細胞に取り付き、細胞内に入り込む。これを感染というのだが、ウイルスの核酸はその細胞の増殖システムを丸ごと乗っ取り、自らの核酸を猛烈な勢いで複製させる。そして細胞内が子ウイルスでいっぱいになると、細胞を破壊して体内に撒き散らす。それらが体内の別細胞に取り付いては破壊するようになれば、感染者の体調に異変症状が現れる。また感染者が吐く息とともに体外に排出され、別のヒトの体内に取り込まれると新たな感染者を発生させることになる。
「でも人によって免疫状態などは違うから、感染しても症状が出ない人もいれば、他人が排出したウイルスを吸い込んでも感染しない人もいるのよね」と菜々子。
呑み込みがいいねえとHさんに褒められた。飲み屋の女将は理解力に優れた聞き手でないと務まらないのだ。福祉の現場の実践家である社会福祉士や精神保健福祉士は、資格取得の条件として長時間の実習が課せられるそうだが、スナックなどでの接客時間を実習時間の一部としてカウントすることはできないものだろうか。
本題に戻ろう。ウイルスはそれぞれ感染する先の動物種が決まっている。コロナウイルスの場合も、犬、牛、猫など取り付く先の種ごとに別タイプになっており、遺伝情報も形状も異なる。もちろんヒトに固有のコロナウイルスもある。長年ヒトと共存関係にあるため、感染しても重篤な症状を呈することはまれで、抗体ができるとその後、当分の間、ウイルスの種別によっては二度と、再感染しない。また感染者と濃厚接触してコロナウイルスを大量に浴びても、体調良好で細胞内に取り込まず、感染に至らないことも少なくない。このためヒトのコロナウイルスは通常、「ただの風邪」として怖れられることもない。これは他の動物種のコロナウイルスでも基本的に同じことであろうと考えられている。
ウイルスが変異する
受講者たちが安堵の表情を浮かべたのを確認して、「では武漢ウイルスをなぜ恐れるのですか?」と講師。講師の視線を感じたHさんは慌てて下を向き、ノートを録っている振りをしたが、そばまでやってきた講師にマイクを渡された。「なんて答えたの?」と興味津々で応答ぶりを聞き出そうとする菜々子。
「細胞内でウイルス遺伝子が複製される過程でコピーミスが生じる。それらは欠陥品で普通は細胞に取り付くことができない。しかしごくまれに、別種の動物の細胞にも相性がよいウイルスが作成され、それがたまたまその種のある個体にうまく取り入るチャンスをつかむことがある」とHさんは答えたのだとか。講師は大きく頷いて次の受講者に向かった。
その確率は高いと思いますか。まさか、きわめて低いはずだ。でもあり得ないことではない。だが、それが今回生じた。元の宿主はコウモリではないかとされているが、確定的な証拠はないようだ。過去には重症急性呼吸器症候群コロナウイルス(SARS)ではコウモリ、中東呼吸器症候群コロナウイルス(MERS)ではヒトコブラクダのコロナウイルスが、種の壁を越えてヒトに感染したとされている。
ではこうしてヒトに取り付いた新型ウイルスは、自動的にヒト間で相互感染する能力を獲得するのか。「それも確率的には低いのではないですか」と後ろの席の受講者が発言した。講師は1月初旬時点の厚労省HPを示したが、そこには「武漢では数十人の新型コロナ感染者が出ているが、医療者への感染事例やヒトからヒトへの感染事例は報告されていない」と記されていたそうだ。「でもその後の経緯は周知のことですよね」と講師。
種を超えての感染力獲得?
新型コロナはヒト固有のウイルスの地位を獲得している。国や地域によって感染力や症状に重等度に大きな差がみられることから、さらに変異が進んでいくつものタイプに分化しているとも言われている。そうなるとヒト固有のウイルスに転化した武漢発ウイルスが、さらに別の動物種への感染力を持つことが考えられることになる。
「その具体事例がミンクへの感染事故ということなの?」
「そういうことになるようだ」とHさん。ペットの犬、猫への感染報告はごくわすかだがあるという。そうした中でのミンクへの感染だが、群れの中での感染速度は非常に早く、しかも症状が重篤で翌日にはほとんどが死んでしまっている。同業者は自家農場への伝播防止努力をしており、世界中のミンクが全滅ということにならないことを祈ると講師。
その通りなのだが、さらに進んでミンク以外の動物種、例えば羊に重篤な呼吸器障害を起こす新型に変異する可能性もあるのではないか。それが冒頭のHさんの発言になるわけだ。このように種をまたがって自在に感染領域を広げる新種変異ウイルスがいくつも登場すれば、ヒト相手に講じる防疫対策は無力になってしまう。
仮に有効なワクチンが開発され、世界中のヒトへの定期接種が成功してウイルス撲滅を宣言できたとしても、ヒトの抗体がなくなる頃を見計らって、野生の動物内で逼塞していたウイルスが再びヒトに感染してパンデミックに至ることになるからだ。
コロナ対策の今後
そうした可能性は著しく低いだろうが、絶対にあり得ないと断定することもできないだろうと講師は総括したそうだ。予防ワクチン開発を各国、各企業が競っている。しかし変異を繰り返すウイルスを相手に有効なワクチン開発は可能なのだろうか。また短兵急な開発では副作用の防止がおろそかにならないだろうか。
「わが国の最大の問題は子どもが生まれないことだ。コロナ予防ワクチンに飛びついて子どもに接種したところ、その副作用として半数が生息能力を失うといったことにでもなれば、それこそ国家消滅になります」とHさん。
菜々子の素人考えだが、ウイルス感染者は近縁種のウイルスには同時感染しにくいということはないのだろうか。もしそうならコロナ感染でインフルエンザを防止でき、逆にインフルエンザワクチン接種でコロナも防げることになる。
(月刊『時評』2020年12月号掲載)