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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第203夜】

弁護士業は厚生年金非適用

写真ACより
写真ACより

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

弁護士が弁護士会を訴える

 うだるような暑さ。日が落ちた直後の7時台はまだ熱気が街中にこもっている。

 「冷房が効いた事務所にとどまっていたい。ママのところに行くのはもう少し後にするよ」

 電話の主Mさんは、大手法律事務所の弁護士先生。人気ドラマ“SUITS”登場の特異キャラクター蟹江弁護士に体系が極似している。ただMさんに叱られないように付け加えるが、性格はまったく似ていない。パワハラにもセクハラにも縁がない(女性から見ての)好人物である。

 外気から午後の熱が消え、室内のエアコンが性能を存分に発揮し始めたのを図ったかのように、Mさんが体形にふさわしいミシミシという階段音とともに来店した。珍しく女性連れだ。スリムでどうみても体重はMさんの半分以下。

 「こういう女性が好みだったのか」。菜々子が興味津々の表情をしていたのを見とがめる口調で「ママ、誤解しないで下さいよ。この人はうちの事務所の社労士(社会保険労務士)のKさん。同僚であって、ママが邪推するような関係ではありません」

 Kさんがお辞儀をする際、頬が赤らんだのを菜々子は見逃さない。

 「屋外が涼しくなるのを待っている間、事務所でこの件で議論していたのです」

 Mさんが新聞記事のコピーを広げた。「神奈川弁護士会 社保逃れか」とある。記事には弁護士会の会員が、会の運営の違法性を問題視して訴訟を提起したとある。弁護士は法律問題に代理人として訴訟参加するのだが、本件では、弁護士が原告当人であり、その人が属する弁護士会(会長は当然弁護士)が被告である。

弁護士会について

 世の中に「先生」と尊称付きで呼びかけられる職業はあまたあるが、そのうちで別格は医師と並んで弁護士だろう。保健衛生部門では医師はオールマイティ。個別の国家資格を持たなくても、たいがいのことは医師免状があれば扱える。例えばX線検査機にはレントゲン技師が必要で、看護師が撮影するのは違法だが、医師は許される。

 弁護士も同様で、Kさんの専門領域である社会保険の適用業務も、弁護士であれば社労士資格なしでも受任してよい。では、技師や社労士の存在意義はなにかということになるのだが、Kさんが「コストの関係ですよ。私たち社労士と弁護士とでは、時給換算がまったく違いますもの」と遠慮すれば、「いえいえ、餅は餅屋と言いまして専門分野の勉強量が違います。手続き面など社労士さんにはかないません」とMさんが持ち上げる。

 なかなかの名コンビぶりだ。ともあれMさんの事務所では、弁護士のほかに社労士や税理士も抱えている。アメリカの法曹ドラマでは大手事務所(ファームというらしい)では探偵も常駐するが、六法全書と判例知識だけでは、法律問題を処理できないからだろう。

 医師と弁護士の違いはもう一つ。医師会は政治力を行使して診療報酬のごね得をすることもあるが、医師会加入はあくまでも個々の医師の任意。職場に労働組合が結成されても、参加強制が許されないが、それと同じなのだ。これに対して弁護士会は強制加入。非加入者は弁護士業務をすることができない。“SUITS”で主役の甲斐弁護士に対して、事実を秘匿して証人を侮辱尋問する反倫理行為をしたとして、敗訴側が弁護士資格はく奪の懲戒請求を弁護士会に起こすと仄めかされるシーンがあった(東京地区8月10日放送)が、強制加入であることに基づく弁護士会の権威を象徴する。医療費をどれだけ分捕るかという経済利益が会の最大の誘因である医師会(かつて医師会のことを欲張り村の村長の集まりと喝破した日本医師会長がいた)との違いと言えるだろう。

厚生年金加入が問題に

 神奈川県弁護士会を揺るがす訴訟だが、揉めているのが弁護士会長の厚生年金加入の是非という。改めて事件の概要を整理してみよう。

 先日の都知事選では日本弁護士会長経歴を持つ人が立候補していた(結果は落選)が、現職時の業務はかなりの心身負担を伴うらしい。同業弁護士の資格はく奪といった案件まで抱えるとなると、確かに思い悩むことも多いだろう。なにより業務が多くて、会長就任期間中は自身の弁護士業務は開店休業状態に近くなるとMさん。

 「町内会長やマンション管理組合理事長も重要な職責ですが、従事する時間の面では比較になりません」

 神奈川県弁護士会長の月報酬は30万円とのことだが、決して高いとはいえないという。社労士Kさんは独立開業時代に中小企業数社の顧問をしていたが、そうした業界団体の会長に選出された社長はめったに団体の事務所に顔を出さず、業務は専務理事に任せきり。よって会長は無報酬であったという。会長職にもいろいろあるということだ。

 本題に戻ろう。弁護士会長は基本的に1年交代。月30万円の報酬を受け取る。では会長は厚生年金に加入すべきか。ポイントは次の通りになりますと、Kさん。社労士だけに厚生年金保険法の条文をそらんじている。

弁護士業は厚生年金非適用

 厚生年金はブルーカラー労働者の老後生活保障手段として始まった。歳のせいで作業効率が落ちてくれば、雇用契約を打ち切られる。それでは老後の生活が成り立たない。そこで同じ労働者同士、保険料を積み立てて助け合おう。それに企業も協力して、保険料の半額を負担する。この財政負担することで、定年理由の解雇が正当化されることになる。

 始めてみるとなかなか都合がよい。そこで適用業態を広げることになる。イ.工場労働者の次はロ.建設作業員、ハ.鉱山、ニ.発電・送電、ホ.運送業務、へ.貨物積み下ろし、ト.廃棄物処理、チ.販売・セールス、リ.金融・保険、ヌ.保管や賃貸業務、ル.周旋業務、ヲ.広告宣伝、ワ.教育研究、カ.治療、ヨ.通信報道、タ.社会福祉事業まで拡大したところでストップしている(厚生年金保険法6条)。これら業種で、しかも常時5人以上の雇用労働者がいる事業所のみが厚生年金適用事業所なのだ。

 「ママ、知っていましたか」。Kさんが尋ねるが、もちろん菜々子は知らない。ただ弁護士事務所が非適用業種であることは理解できた。久寿乃葉のような料飲業も同じだ。

 「でも1986年から重要な適用拡大規定が導入されました」とKさん。このあたりになるとMさんは、「専門家にはかなわない」といった素振りで、もっぱらビールと肴の摂取に没頭している。

 「法人形態であれば、業種を問わず、かつ雇用労働者が一人でもいれば、すべて適用事業所になったのです。弁護士会は弁護士法によって法人格を有していますから、神奈川県弁護士会も適用事業所、事務職員は厚生年金加入者です。そのうえで委任契約の会長が、法文の適用事業所に『使用される者』に該当するかが問われることなります」

論点はどこだ

 ぼんくら菜々子にも次第にわかってきた。雇用保険や労災保険では雇用関係にない者は保険の給付対象ではない。雇用労働者の保護救済が目的だから、社長など経営者は除外される。これに対し、厚生年金や健康保険では、従業員と一緒に働く零細企業経営者は言うに及ばず、大企業の社長さんまでもが対象になって保護を受ける。その違いが、厚生年金や健康保険が「雇用される者」ではなく「使用される者」としていることに由来する。

 これからすれば弁護士会の会長が、ほぼ連日事務所に詰めていれば、当然厚生年金加入者になる。そこで当地の年金事務所の指導が入った。ところが当の会長にしてみれば、厚生年金に加入するメリットが感じられない。Mさんが割り込むきっかけを見つけた。

 「わが法律事務所は法人化(弁護士法人という制度が弁護士法にある)していますから、Kさんの説明どおり代表弁護士以下、全員が厚生年金に加入しています。わが事務所の代表が弁護士会の会長に選任されても、厚生年金への新規加入問題は生じません」

 加えてKさん。「個人事務所の弁護士さんが会長になったとしても、任期は1年交代です。加入と脱退の手続きを繰り返すのはけっこう面倒くさいですよ」

 厚生年金加入は当人にとってメリットが大きいというのが、厚生年金の設計思想。したがって非適用事業所の任意適用手続きはあるが、任意脱退は認められない。そうであれば「メリットがないからできるものなら非加入のままにしておいて」と考える気持ちは分かるとKさん。これに対して「法律は法律、その脱法を試みるのはとんでもない」というのが訴訟提起した会員弁護士の主張だろう。

 ちなみに神奈川県弁護士会は規約を改正して、①会長職を無報酬に改め、代わりに②退任後に顧問料の形で支払うことにした。①では報酬支払いがなく、②では使用の実態がない。よって厚生年金未加入で通るが、実態を総合すれば脱法色が色濃い。そしてこの問題が上部団体である日本弁護士会にも及んでくる気配があるのだとMさん。

 さてどうしたものか。Kさんの意見は簡明だった。わが国は国民皆年金。国民年金(基礎年金)は全国民に及び、法定年齢の全期間すべてで被保険者になる。

 「このうち自らの労働による稼得収入がある期間を厚生年金への二重加入にすればいいのよ。稼ぐのは雇用関係に限られない。自営業だって立派な労働でしょう。農業、大工さん、個人タクシー、便利屋さん…。探せば業態はいくらでも出てくる。働き方に貴賤はない。それは社会政策立法の適用においても同じであるべきだわ」

 では従業員なし、一人で切り盛りしている久寿乃葉も適用事業所になるのか。

 「適用事業所という考えが古いのよ。菜々子ママは自分の労働で稼いでいる。よってママ個人がそのまま厚生年金にも二重加入する」

 仕組みと制度運用がどうなるのか。菜々子とMさんの質問を先取りして「この本にすべて書いてある」。バッグから『国民保険を創設せよ』(時評社)を取り出した。

(月刊『時評』2020年10月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。