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菜々子の一刀両断ってわけにはいかないか……【第198夜】

新型肺炎騒ぎ

写真ACより
写真ACより

私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。

マスクが売り切れ

 道行く人が皆マスク姿。おかげで薬局ではマスクが売り切れ状態。ドラッグストアで大量買いしたのを5倍以上の値をつけてネット販売する不心得者がいるとテレビでコメンテーターが憤慨していたが、悪徳商法が成り立つのはその値段でも飛びつく買い手がいるから。オイルショックの際のトイレットペーパー、災害断水時の飲料ペットボトル…。人間っていつまでたっても群集心理でパニックに陥る点で進歩がないような…。

 菜々子の記憶から1月31日の久寿乃葉でのやり取りを再現してみよう。カウンター席に陣取るのは会計税理事務所のIさんを中心に助手のDさんとHさん。菜々子が税申告でお世話になり、Iさんたちは客として久寿乃葉の売り上げに協力してくれる関係である。

 口火を切ったのはIさん。「中国の武漢で発生した新型肺炎の感染者が1万人規模に広がり、死者も200人を超えたという。世界中がパニックに陥っているようだよ(※1)」

 「無理ありませんよ。マスコミが煽るのですから。ひとたび感染したら有効な治療法がなくて死に至りかねないといった論調でしょう。私だって慌ててマスクを買いに走りますよ。でも売り切れでした」とDさん。丸顔のかわいい女性だ。

 「机の引き出しを探したら、ボクが去年使ったマスクが出てきましてね」。Hさんがポケットから変色した古いマスクを取り出してヒラヒラさせた。

 「やめなさいよ。その布きれの中で病毒カビが繁殖しているかもしれないじゃないの。それで口を覆うなんて。その方がよほど危ないわ」と、DさんはHさんの手から奪い取ってゴミ箱に捨てた。

 「何するんだよ」。Hさんは抗議したものの、さすがにゴミ箱から拾い上げなかった。

 「仕方ないわね」。菜々子は3人に常備のマスクを配った。「帰りの電車内で使いなさい」

新型肺炎の危険度

 今回の新型肺炎の危険度はどの程度のものなのだろう。

 「日本政府は武漢で暮らしている数百人規模の日本人を連れ帰るために特別機を飛ばした。そのことからすると危険度が極めて高いと判断していることになるかな」とIさん。

 だが部下の方は少し冷めているようだ。まずDさんだが「政治的パフォーマンスでしょう。考えればわかりそうなものですが、空気感染するウイルスなのだから狭い空間に長時間すし詰めになっているのが一番まずい。旅客機での移動はまさにその条件に適合するわ。政府は迎えの飛行機を飛ばして、わざわざ感染者を増やしている」

 これにHさんも同調。「感染したくないなら現地の自分の家に籠っているのが一番だと思う。そもそもこのウイルスは感染力が弱く、万一感染しても、症状が重症化する確率は高くないそうだから。日本政府が中国の医療レベルを信用できないと考えるのであれば、医療スタッフを派遣すればよい。人数対比で費用は100分の1で済みます」

 「だが貴国の医療レベルを信用できないとは、外交的に言いにくいのではないかね」とIさんが隣国政権への気配り発言。

 「このウイルス狂想曲、やがては収まり世間は忘れるだろう。しかし個々の人間にとっては、感染せず、重症にならず、死なずに乗り切ることが最重要。そう考えれば、感染しているかもしれない人たちをわざわざ集合させて、狭い機内空間でウイルスの移し合いをさせる意図がわかりません」

 「日本国内での感染が最初に発見された観光バスの運転手は、中国人観光ツアーと何日も一緒にいました。この件で人からの感染が明るみになった時点で、武漢へのチャーター機派遣を中止すべきでした。政府部内でそうした意見がなかったらしいことが残念です」

 怖い病気と騒ぐ割には、感染者数は少ない。武漢の人口は1千万人を超える。現時点の感染者1万人は、割合的には1000分の1である。宝くじより低い確率なのだ。

日本での大流行はあるか

 「今は1万人でも、これから急激に感染者が増えるかもしれないぞ」とIさん。折悪く、中国は春節の休暇時期に入り、出稼ぎ労働者は田舎の出身地に戻る。武漢では交通遮断措置が取られたが、数百万人が出た後だったという。彼らが帰郷先で家族、親戚に移し始めると収集がつかなくなる。

 またこの時期、富裕者は外国旅行に出かける。その人気の先が日本である。政府は感染者を入国させないと宣言するが、このウイルスの潜伏期間は2週間もある。水際で食い止めることは現実的に不可能だ。それやこれやを考えると、ウイルスを持ち込んだ時点で、国内での感染拡大はもはや防ぎようがないという結論になるのではないか。

 「国内でも感染者がポツリポツリ発見されつつある」。Iさんは肩を落とした。

 だが、そこまで悲観することはない。人類史上幾度も大きな伝染病の流行があった。しかしどの流行も長続きせず、次第に収まっていく。いろいろ理由はあろうが、感染症の場合、人々がその病原体に対する免疫力を獲得する要因が大きい。免疫を持つ人が多くなれば、その病原体の伝染力は収まっていく。ペスト、天然痘、結核…。

 これまでの死者数は200人とされている。感染者数1万人に比べて格段に少ない。このことをどう考えるか。

 「世の中にはエボラ出血熱のように罹ってしまったら手の施しようがないという怖い感染症もありますが、それらに比べれば、今回の新型肺炎は恐れるに足りません」。

 Dさんの説明はこうだ。感染症は体力がない者からは容赦なく命を奪うが、栄養十分の健康人では感染しても重症化しない。また医療体制が整っている地域では感染拡大は生じにくいはずで、国民国家の経済力は感染症抑え込みにおいても有効なのである。

 「もちろん感染しないことが重要ですから、個人的にはマスクをして歩き、人混みを避け、十分な休養と栄養で体力を涵養しておくことが必要です」とHさんが付言した。

危機対応の在り方

 世の中にはさまざまなリスクがある。今回のような新タイプの感染症の出現もその一つであろう。だが今回の新型肺炎流行への対処はどう評価できるのだろうか。

 「発生源である中国に対する遠慮が過ぎるのではないでしょうか」とHさん。

 「食用にしていた野生動物からの感染が出発点とされています。その真偽は不明ですが(※2)、それぞれの動物種は固有の病原体と共存しています。本来であれば他の種には感染しないのが原則です。ゲテモノ食いの習慣を改めるように国際社会はもっと強く諫言すべきだと思います」。昔なら“よくある風土病”で済まされていた感染症も、交通発達の現代では瞬く間に広範囲に広まってしまう。

 「それ以上に中国の情報統制を挙げるべきでしょう。新型肺炎が流行の兆しを見せても、中国の当局は情報を隠したままでしたし、報道機関も知らせようとしませんでした。これに伴う初動の遅れが蔓延を助長する結果になりました(※3)」。Hさんの分析である。

 「ママはどう考える」。Iさんから質問を振られた。

 「そうねえ」と一呼吸置き、考えをまとめる。「中国政府が武漢という都市全体を封鎖してしまい、在留日本人は身動きできなくなった。その対策として迎えのチャーター機を派遣したのでしょうが、方法として的確だったのでしょうか。武漢にとどまるべきではないと判断したとしても、中国の他都市への避難措置ではダメだったのでしょうか」

 Iさん、Dさん、Hさんの視線が、それはどういう意味だと問うている。

 「日本政府は武漢以外からの中国人観光客の入国を禁止しませんでした。中国の他地域は大丈夫との中国政府の判断を支持しているということでしょうから、北京か上海かに一時移転する便宜を中国政府に要請するのが政治的、外交的に妥当だったのではないかしら」

 チャーター機を飛ばした費用は全額政府が負担することになり、対象者の個人負担はいっさい求めないことになったようである。国外で心細い思いでいた同胞を温かく迎えるという配慮に拍手する者は多いことだろう。だけど帰国した人たちが受けている扱いはどうか。2週間程度は外部との接触を断って感染の有無を診るとのことで、房総半島の南端まで移送されての監禁状態。人権上いかがなものかと思ってしまう。

 「どのみち隔離するなら、風光明媚な場所にしてあげてはどうなのかしらね。無人の尖閣諸島にテント村を作って、自衛隊の衛生班といっしょにキャンプ生活を満喫してもらうとか。領有権問題での日本の立場を国際的にアピールすることになり、政治的意味もある」。Dさんの発言は冗談だったのか、それとも…。

 ところで同胞の国内迎え入れへの優しい心配りができる政府ならば、もっと優先度が高いチャーター機の送り先があるのではないか。北朝鮮に略奪されたまま半世紀近くにもなろうとしている百人単位の拉致被害者である。順序から言って、こちらの優先度が何倍も高いはず。しかるに野党もマスコミもそうした論評をしないのはなぜか。

 「これが現代日本の政治だよ」。Iさんが締めくくって、この話題は閉じられた。

2020オリ・パラリンピック

 3月末になって東京オリンピックの延期が総理とIOCとの間で合意された。1年後の来年7月23日が開会式だそうだ。たしかに武漢肺炎の世界中への蔓延状況に鑑みれば、世界がこぞっての今夏の大会は難しかろう。だが不確定要素が大きく、その処理にとまどっているうちに各国の思惑が絡み合って再延期となる公算がけっこう高いのではないか。

 菜々子が思うに、ここは思い切って12年間の延期としてはどうか。既に開催地が決まっているパリ(2024年)、ロサンゼルス(2028年)の次を東京とIOCが無条件決定するのだ。そして開催費用の半分程度を中国政府が反省と謝罪を込めて負担する。実現度はともかく、この程度の主張をできる胆力ある総理大臣をこの国に戴きたいものだ。この次にIさんたちが来店した際に提案してみよう。

(月刊『時評』2020年5月号掲載)

寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。
寺内香澄(てらうち・かすみ)(有)総合社会政策研究所。ショートストーリー作家としても活躍。単行本として『さわやか福祉問答』(ぎょうせい)。

※1:2か月後の3月末では蔓延の拠点は欧米諸国に移っているようにみえる。 ※2:1月31日時点では主要であったが、現時点(3月31日)では否定説が多いようだ。 ※3:ウイルス封じ込めに名を借りた人民の一挙手一投足の監視記録が強化されていることから、周到な意図的蔓延だったとの説もある。