2024/10/07
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
リゾート地で引退生活
人生百年時代になるというのに、職業生活を65歳で終えなければならない。当人はまだ元気だから働きたいと思っても、会社のほうから「年金をもらえる年齢になったのだから、後進に道を譲ってくださいよ」と肩を叩かれるのだ。
「その年金額も年々削られる。余命が10年やそこらであれば預貯金を崩してやりくりできるが、30年以上ともなるとお手上げだよ」というのが平均的な声だろう。そうした中で見られるようになったのが、定年引退を機に都会を引き払い、諸物価が安い田舎で第二の人生を始めるという傾向だ。子どもができなかった者、あるいは子どもが結婚して家を出て行った夫婦によく見られる。
「要介護になった場合を想定して老人ホームを探してみたが、手の届く入居費用のところはたいがい人里離れた田舎になる。それなら元気なうちから田舎に住んで地域に溶け込む努力をしたほうがよい」。テレビで専門家がそうしたコメントをしていた記憶がある。ただし一口に田舎といってもいろいろだ。どういう場所で何をして過ごすのかを前もってよく検討、研究し、先達から十分な予備知識を得る努力をすることが肝要だ。今回はその事前準備が足りなかった事例。
有名な別荘地に定住
「この汗を見てくれよ。東京はまったく熱帯だぜ」
Dさんはカバンを放り投げるやいなや、カウンター席の椅子にへたりこんだ。そのいでたちを見れば、季節にそぐわない冬用のジャケットに厚手のズボン。しかもネクタイまで締めている。
「ビールの前に上着とネクタイを脱ぎなさいよ。まるで南極帰りの恰好だわ。出がけに奥方に注意されなかったの?」
「だって家を出るときの気温は5度もなく、駅まで震えながら歩いたんだぜ。コートも着て出たが、東京ではとても着てられないで手に持っている」。「あちらは寒いのね。菜々子も避暑用に一部屋欲しいわ」と声に出たが、むろん久寿乃葉の売り上げでは実現性は限りなく低く、夢のまた夢である。
Dさんは会社引退を機に、田舎への移住を決断した一人。祖父時代に建てた都内の小さな戸建て住宅でずっと暮らしてきたのだが、数年前には両親が亡くなった。子どもたちはといえば、「ドアはガタピシ。窓からは隙間風の家なんかはダメ」といずれもオール電化、オートロック、24時間管理人常駐のマンションに居を構えてしまっている。ということで初老の夫婦だけの二人暮らしになっており、「こんな古い家は土地ごと処分して、流行りの高層マンションに住み替えましょうよ」と奥方から提案があったのだとか。専門業者に見積もりを出したもらったところ、都内でも都心とはいいがたいDさんの土地の売り値は思ったほど高くならない。築70年の家屋に至っては除却費用が必要とかでマイナス評価である。他方、奥方所望の高層マンションは1億円近く、退職金全部を足さなければ手が出ない。
そこで閃いたのが避暑地に保有しているリゾートマンションへの住み替えだった。Dさんの父親は土地と家だけでなく、国債などの金融資産も残してくれた。デフレ状態が長引いており、金融資産では利子がつかない。国家財政の破綻で超インフレになるとの見通しもあるとして、Dさんは相続金融資産をリゾートマンションに換えたのだ。
Dさんは奥方に告げた。「考えてみたのだが高齢者に別荘はもったいない。別荘マンションに住み着くことにして東京の家を処分すれば、売却金がそっくり老後資金に加わるぜ」。
「早まらないほうがいいのでは」と奥方は渋ったが、東京の家も別荘を買った資金もどちらのオレの親からの遺産であり、お前に口をはさむ権利はないと押し切った。夫の給料であれば、妻の内助の功のたまものでもあるから、「私に半分の権利がある」と言われてしまうが、親の遺産となれば夫婦折半の論理には縛られない。
予備知識不足で支障が起きる
こうしてDさん夫婦は移住することになった。計画が決まると実行は電光石火。これがサラリーマン時代のDさんの方式。やり手営業部長時代の方式で、瞬く間に転居を終えてしまった。奥方にすれば長年の主婦の行動様式に沿い、引っ越し前に隣近所になる人たちにていねいに挨拶をして、近隣の状況、公共施設の場所や使い勝手、親しくすべき主要人物などを調べ上げ、万事遺漏のないように手はずを整えてから転居することにしたかった。しかしDさんが勝手に進めることへの不満もあって、これまでの転勤時のような積極行動をしなかったという。
その結果がどうなったか。Dさんの引っ越しは新年早々。東京人からすれば、いきなりの厳寒体験である。現に入居早々にかなりの降雪があった。スーパーで買い物中だったDさんの自動車は帰り道でスリップして道路の側溝に車輪を落とし、レッカー車に来てもらう騒ぎになった。
「この地方ではタイヤを替えなきゃダメですよ」と注意されて、ラジアルタイヤの存在を初めて知ったという。「寒冷地では夏用、冬用の二種類のタイヤを用意しなくてはならない。それにチェーンや雪かき用のスコップも車に積んで置くべきだって」。Dさんは新知識を得たと披露したが、その程度のことは引っ越す前に調べておくべきだよと菜々子は心内でつぶやいた。
家が水浸しになった
この分ではDさん、ほかにも失敗談がありそう。聞き出して他のお客様との話題にしてやろう。菜々子のいたずら心が騒ぐ。
「標高千メートルを超える高原地帯だから、冬の外気温は半端ではない。氷点下も珍しくないほど冷える。東京から持って行った石油ストーブをどんどん燃やすのだが、外気との差がありすぎるのか、意外に温まらないんだ」とDさん。
「ちょっと待ってよ。新築のリゾートマンションなのでしょう。床暖房とかエアコンを設置してないの?」と菜々子。
「どちらも分譲時に設置してあったさ。だけど夏にしか行ったことがないから使ったことがない。それにエアコンは電力、床暖房ではプロパンガスを使用する。料金がかさむように思えて、どうしても石油ストーブに頼ることになる」
「そんなに料金差があるかなあ」との菜々子の声を無視してDさんが続ける。
「しばらくすると窓や壁がびっしょり濡れてきた。慌てて雑巾で拭き取ったが、じきにバケツにいっぱいになるほどの量だ。拭くのを手抜きすると、水滴が垂れてきて床に流れるようになる。玄関のたたきなど、鉄製のドアから湧き出す水で池のようになっており、壁の隅はカビで黒ずんでいる」
いわゆる結露という現象だろう。室内外の温度差が大きいと、室内の水蒸気が接触面で冷やされ、液化して水に変わる。Dさんは東京では石油ストーブで暖を取っていたが、結露を体験していないという。子どもさんたちが嫌っていたガタピシのドアと隙間風の窓のお陰で、結果的に換気が十分に行なわれていたということだろう。
「新築マンションなら換気用の小穴があるでしょう。それに24時間換気用の小型モーターが回っているはずよ」と菜々子。Dさんの答えは、換気口を封印し、換気扇の電源プラグを抜いているという。せっかくの備え付き装置を活用しないのでは、結露が生じるのも当然だ。ここで「欠陥住宅ではないか」と騒いだのでは、無知丸出しで恥の上塗りになる。
無知は怖い
「ところでマンションの窓ガラスやサッシはどうなっていたの? 寒冷地なのに単板ガラスとかアルミのサッシということであれば、設計不良と文句を言えるかもしれないわよ」
「サッシとは窓枠のことだよね。触っても冷たくなかったからアルミではないと思う」。木製でもないようだから、塩ビなどの樹脂サッシということなのだろう。また窓ガラスを横から見ると分厚く、二重になっていたというから、ガス入りの本格的な寒冷地用の窓である。この分では壁にもしっかり断熱材が入っているに違いない。床暖房とエアコンをメインの暖房にすれば、そしてまた換気をしっかりすることで、人間の体や煮炊きなどから発生する水蒸気を室外に追い出して結露の発生を防げるはずだ。菜々子も木賃アパートからマンションに移り住んだ当初は結露に悩まされた。だが管理人さんから石油ストーブを止めるよう言われて以来、問題は解決している。「高気密高断熱住宅の室内で石油を燃やすなんて常識外です。石油1リットルの燃焼で1リットルの水が産出されることは高校の化学の授業で習ったでしょう」と指摘されて返す言葉がなかった。このことには触れずに、結露は今でも続いているのかとDさんに質問する。
「そうなんだよ。毎日、水滴をふき取る作業はけっこう面倒なものでね。なにかの本でヨーロッパの寒冷地では窓ガラスが三重になっていると読んだ。それで地元の工務店に頼んで、今の窓の内側にもう一枚窓を作る工事をした。費用が50万円かかったがね」
それで結露しなくなればよいが、これまでの話では効果は期待薄だろう。窓の開閉が不便になるという不都合もありそうだ。結露によって壁内部が湿気るなどマンションの構造に被害が出そうだし、カビやダニの発生による健康被害も心配。それに電気・ガスと石油との価格差で50万円を取り戻すなんてDさんの生存期間中では不可能に思えるなあ。
(月刊『時評』2019年7月号掲載)