2024/10/07
私の名前は松下菜々子。深川門前仲町で久寿乃葉という小料理屋を営む。未婚、子なし。恋人募集中。世間の皆さんあるいはお店の常連のお客様同様、将来に不安を感じている。砂浜の真砂が尽きないように、私の老後不安にも底がない。同年代の客も同様と見えて、カウンター席でも座敷席でも、その種の会話が多いように見受ける。客の話に合わせるのは接待の基本。菜々子も、新聞、テレビ、図書館で、その種の勉強に怠りはない。
少子化が止まらない
「昨年生まれたベビーは92万人。統計を取り始めて以来の最低数だったそうだ」
声の主はSさん。娘さんが3人いて、それぞれが出産適齢期。お孫さんが現在5人だが、まだ増える可能性大だそうで、人口問題では一家言を持っている。
「そうだよな。日本の出生数が100万人を下回るなんてことはだれも想定したことがなかった。国家消滅を避けるための“絶対防止ライン”ともすべき数値だが、いとも簡単に底が抜けてしまった。“子どもを産み育てるのはしんどいから嫌だ、しかし年金は後世代からたっぷりもらいたい”というのは、論理的にも倫理的にも成り立たない。無責任な議論を許さない観点から、国会議員の立候補資格に“子ども2人以上”を法定してはどうかと思うね」
こちらはMさん。子どもは男女1人ずつ。男の子は未婚だが、女の子が頑張って3人産んでいる。国の総人口を維持するには、平均して子どもを2人、孫では4人以上作るのが最低条件になる。「オレはもう少しで合格だな」と胸を張った。
こういう議論になると菜々子は立場が弱い。「双子を生んで一挙に挽回するから今に見ていなさい」と言い返すには難しい歳になっている。さりとて養子を迎えるには児童相談所の壁がありそうだ。「夜のお仕事をしながら養子を育てられると思っているの?」と難色を示すだろう。
菜々子自身には子どもはいないが、甥、姪を可愛がってきた。それゆえ国の行く末を案じる気持ちは人後に落ちない。国民年金保険料も当然完納してきている。だがそれは前の世代の扶養に回る。自分世代の年金は、次の世代に負っている。子どもを育てなかった者は、基礎年金をもらう権利はないのではないか。そういう制度改正案が提案されたら、菜々子は素直に賛成するつもりである。
給付調整か拠出調整か
「国民年金保険料の掛け捨てを認めるのかい」と、SさんとMさんは驚いたが、菜々子は本気だ。国民年金が制度化された当時(昭和30年代)の日本では、人口過剰が叫ばれていた。前世代より、後世代の人数が多いのが当然であったから、賦課方式の年金(世代間扶養システム)は合理的であったのだ。むしろ子どもを作らない者こそ、人口過剰を防止する観点では“愛国的である”とも評価できた。したがって子育て実績は年金支給の要件とされなかったのだ。
だが、状況が様変わりして、世代を経るごとに国民の数が減っていく社会に移行してしまった。安倍内閣は人口維持のため“希望出生率1・8人”を打ち出したが、お膝元の国家官僚も与野党も感応度がよくない。人口減を所与の事実として受け入れようという論評が大半だ。国の指導層の気持ちがそうであれば、低出産の趨勢を変えられるはずもない。ならば社会政策の考え方を転換しなければならない。
菜々子の考えはこうだ。基礎年金には、国民の老後生活を国民連帯で支えようという趣旨が含まれる。これは変えない。ただ次世代人口が減る現実を踏まえ、支給開始年齢を65歳ではなく、平均寿命程度の85歳に改める。そうしておいて子育てへの貢献度が高い者には、これを前倒しする恩典を認めるのだ。子ども1人について5歳とすれば、二人育てた者は75歳、4人以上であれば今と同じ65歳からの支給になる。
「女性はともかく、男性での子育て評価はどうするのかい。離婚した場合など難しいだろう」とMさん。近頃の男は、細かい点にこだわる。
「政府が養育費の基準を決めておき、それを果たしていたらポイントが与えられる。果たしていない父親の分は、母親のポイントに振り替えられる。婚姻継続していても父親の子育て協力がなかった場合も同様にする。この結果、子ども2人の夫婦で、妻は基礎年金を65歳から受け取るが、夫は85歳までお預けというケースも生じる。これは夫の子育て関与へのインセンティブになるわよ」。
Sさんが、子ども嫌いな人などへの救済策を付け加えた。
「子育てをしないが基礎年金を早くからもらいたい人には、国民年金の増額納付を認めればよいのさ。倍額で10歳、3倍額で20歳早めることにして、子なしでも65歳からの受給が可能にするのはどうだ」
出産への国民意識はどうか
「基礎年金の支給開始年齢の調整の考え方や仕組みはわかった。それが国民にも受け入れられるとしよう。だが根本的な問題が残っている。果たして国民の多数が、もう1人あるいはもう2人の子どもを産み育てようとするかということだ」とMさん。
たしかにそうだ。「子どもを生むな」というのは政策的に実行できる。中国の一人っ子政策が好例だ。国民に産みたい気持ちがあっても、2人目の子を生むと目の玉が飛び出る罰金を課せられる。経済力がある世帯以外では子どもは1人で打ち止めにするから、総出生数が抑制されるのだ。
逆の「もっと生め」は、強制しようがない。独身税や子なし税が仮に制度化できたとしても、「私は子育てしたくないから喜んで税金を払う」という者が多い社会では、効き目はない。国民の間に「子どもを産み育てるのは常識」という機運がみなぎっていることが少子化対策の前提なのである。その点で「結婚したら子どもを3人以上産んでもらいたい」というお祝いスピーチが普通なのであって、それを人権侵害と騒ぎ立てる批判の方がファッショ的であり、糾弾されなければならない。
国民意識が正常化し、成人すれば結婚して子どもを作るのが当然という社会に戻るとしよう。その場合の問題はひと組の夫婦の平均子ども数が2人では足りないことだ。通常では各世代の夫婦は平均2人の子どもを産み育てれば、人口は安定する。ところが日本の場合、これまでの少子化の影響で、出産適齢期の若者が極度に少なくなっている。世界全体では人口千人当たり18人の子どもが生まれている。これを日本に当てはめると、年間230万人の出生数であるべきことになる。しかるに現実はその4割の90万人。
「国民の間にもっと子どもを生むべきだ、という声が高まったとしても、いっきょに出産数を倍増するのは不可能だろう」とMさん。
「産めない体質の者が1割、産みたくない者が1割、相手に恵まれず生む機会がない者が1割いるとすると、子どもを生むのは同世代の7割に過ぎない。つまりひと組のカップルで平均5人、6人を生み育てることになる。これはたいへんだぞ」とSさん。菜々子にもその計算は分かる。
多子世帯への優遇策
「少子化対策をしっかりやっています」と政府は説明し、何兆円もの資金を投じているが、政策の基本線がずれている。平均で子ども5人とか6人必要ということは、8人とか10人といった大家族をも想定しなければならないということにほかならない。その大家族にしっかり子育てをしてもらわなければならないのだ。まちがっても“多子による貧困再生産”の図式にしてはならない。兄弟姉妹の中でもまれ、勤勉体質に育ったことが社会に出て後の成功に礎になったという伝記を量産しなければならないのだ。そのためには多子世帯に余裕ある暮らしを保障する必要がある。
家族数に見合った広さの住まいを提供される。児童手当は子ども数に応じて累進増額される。所得税は免除される。育児休業中でも保育所を無料で優先利用できる。お手伝いさんが派遣される。ざっと挙げても、このくらいの優遇策は必要であろう。反面、子ども数が1人や2人の世帯への施策は縮減し、逆に税を重課することになる。冒頭の基礎年金の支給開始年齢調整などは、一連の施策の前触れになるだろう。
出産数の国際取引
「政策的にはいろいろ思いつくが、どれをとってもけっこうな財源が必要だ。それをどう工面するのかを合わせて考えなければ提案とは言えないだろう」とMさんは指摘する。
「子の数を基準に多子世帯は優遇する反面、少子・無子世帯を冷遇する。これならば財政中立のはずよ」と菜々子。財政再建も観点から、基準子ども数を2人ではなく、3人あるいは4人にすることも考えられよう。
「抵抗勢力がいるから無理とお役人は言うぜ。説得できるアイデアはあるのかい」
菜々子は思いつきを提案することにした。「外国政府に費用を出してもらうのはどうかしら」。SさんとMさんが、「えっ」という表情で見つめる。地球温暖化の原因とされる炭酸ガス排出量に関して、基準超過国は抑制国からは
“排出権”を買い取ることになっている。これを出産数にも適用するのだ。
世界人口は現在74億人。年間出生数がその2%に近い1・4億人で急膨張を続けている。出産基準を1%に設定して各国に遵守を要請する。10年ほどの予告期間経過後は、1%超の高出産率国は低出産から“出産権”を買いとることになる。日本の出産率は世界最低の0・7%。出産率が反転常用するまでの期間、巨額資金が舞い込むことになる。
「超過国の多くは開発途上国だろう。アフリカなどでは軒並み4%を超えている。出産権買取り資金がないから、先進国にその資金を援助せよと主張するのではないか」とMさん。
「そこが外交技術でしょう」と菜々子。「10年の余裕期間中に先進国からの援助で、しっかり避妊を普及すればいい。経過期間後、出産率超過国は経済援助の対象にならないことの国際取り決めが必要ね」
「人口調整の可否が世界平和を左右している。出生率抑制の成功国である日本に安全保障常任理事国になって指導してもらいたいと国連総会で決議させればいいのさ。つまり日本の低出生率を国際標準として認めさせるのだ」。菜々子に肩入れするSさんの言葉で、この議論はおしまい。
(月刊『時評』2019年2月号掲載)