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森田 実の「国の実力、地方に存(あ)り」㉔

地元農産物のブランド化を実現し、さらなる6次産業化を目指す 茨城県行方市の鈴木周也市長が展望する市民一体型行政

周年で出荷できる、行方かんしょ(提供:行方市)
周年で出荷できる、行方かんしょ(提供:行方市)

「真剣さが男をつくり、勤勉さが天才をつくる」(フォンターネ=19世紀ドイツの詩人)

行方かんしょの周年出荷で有名ブランドに

 2005年平成の大合併において行方郡の旧3町(麻生町・北浦町・玉造町)が合併して誕生した行方市。奈良時代に編纂された「常陸国風土記」に、この地を訪れた倭武尊が景色や土地の形状の美しさを称え、〝行細(なめくわし)の国〟と自ら命名されたと記述されるほど、古くから豊穣の地として伝えられ、この故事が地名の「行方(なめがた)」の由来にもなっている。現在は3万2000人余りの住民を擁する、都市近郊農業の中心地だ。

 近年、各地で「やきいもフェス」「さつまいも博」なるイベントが開催され、若い女性を中心に多くの来場者が訪れるなど、大変な人気を博している。サツマイモの生産高・品質共に全国トップクラスの行方市にとって、今こそ地元産農産物を発信する好機であろう、と鈴木周也市長に水を向けると、「いや、実は私どもの地元JAが現在の焼き芋ブームの火付け役なんです」と、自信に満ちた表情で答えが返ってきた。

 もともと同市は霞ケ浦、北浦という水利に恵まれた洪積台地で、かつては葉タバコの産地として知られているが、現在は100品目を超える農畜水産物が生産される第一次産業王国。その中でもサツマイモ(行方かんしょ)は昭和50年代後半から紅あずまの栽培が広がり、現在では市内に約1000ヘクタール以上の畑、400軒以上の生産農家があり、中には年間100トン以上を生産する農家もあるという。この、年間を通じて安定多収できるところに同市の強みがある。

 昔からサツマイモはでんぷんの原料として栽培されていたが、品種改良により生食用としての栽培が拡大した。また、JAなめがた(現・JAなめがたしおさい)が利用用途を「焼き芋」とする戦略を発案したことで、焼き芋向けの品種改良や商品開発が進んでいった。さらに同JAは焼き芋機を開発、スーパー店頭での焼き芋販売を展開し、その美味しさを消費者に広めていく一方、市はブランド化に注力。生産者、JA、市が三位一体となって産地としての認知度を高めたことで、サツマイモ加工を主力とする大手食品会社を市内に誘致するまでに至った。また各地でのサツマイモの消費宣伝やPR、菓子・焼酎などの6次加工に精力的に取り組んだ努力が実り、紅あずまや紅はるかなどの〝行方かんしょ〟は、ここ3年ほどで急速に売り上げを伸ばしている。「各品種それぞれ特色があります。また、圃場との相性もあります。圃場ごとに適した品種を栽培しつつ、収穫後は一定の温度、湿度で貯蔵することで糖度の高いサツマイモの周年出荷を可能としました。夏場でも焼き芋が食べられる仕組みを作った、という次第です」。生産農家にとって、周年出荷が可能というアドバンテージは非常に大きい。年1回の収穫が基本だったサツマイモを周年で市場に送れることで、限定されていた農家の収入機会が年間を通し均霑化するからだ。「農業活性化を図るには農家の所得向上を目指すところから始まります。後継者不足の課題の一つとして所得面がネックとなっているので、農産物の知名度と売り上げを向上させていけば、仕事としての将来性を見込んで次世代の後継者も就業してくれるのではないかと考えました。その結果、ここへきて祖父母の畑を孫が引き継ぐという〝隔世継承〟が徐々に見られるようになっています」。

 そして現在、海外にも販路を拡大、東南アジアを中心に年間約1000トン輸出しているという。この精力的な輸出事業に対し、3年連続で農林水産大臣が地元JAを視察に訪れている。さらにサツマイモにけん引され他の葉物野菜類の認知度も向上し、出荷も順調に推移している。次なる目標は原材料を家庭でより手軽に調理できるよう、一定の加工を行った形で各家庭に届けられる方策を、今仕掛けているとのことだ。

〝無いものねだりより、有るもの探し〟

 また二つの湖に面するだけあって漁業も盛ん。徳川家に公儀御用魚として献上されたワカサギをはじめ、現在霞ケ浦での生産量が全国第2位を誇るシラウオなどの漁業も主要産業だ。鈴木市長は2年前から、ICTを活用した水産物のブランド化を進めている。シラウオの高鮮度な商品づくりに向け、AI(人工知能)による客観的な判断基準に基づいた等級システムの構築に取り組んでいる。現在は試験的な取り組みだが、将来的には高位ランクされた新鮮なシラウオは首都圏の星付きレストランや高級ホテル等での取引を見込んでいる。漁業の活性化は同時に高付加価値化と常に同一基調を成している。

 もともと鈴木市長の高祖父が行方市で初めて佃煮生産を始めたとのこと。そして市長自身も東京農業大学を卒業後、JA関連団体に17年間勤務した後に市議に転じたほど、農林漁業に対する思い入れは人一倍強い。「高祖父の代に佃煮を始める以前は、小さい魚は商用に向かないため廃棄されていたそうです。それを佃煮にすることで新たな産物を商品化しました。まさに6次産業化の原型です。私が政界に転じてからも、農業生産力はもちろん、6次産業化の活性化を常に念頭に置いてきました」。昨年10月に母校・東京農業大学生物産業学部で行った特別講義「6次産業化がまちを変える!~地域産業の活性化のために~」にも鈴木市長の思いが強く込められている。

 だが、6次産業化による地域活性化の理念は容易に理解されなかった。都市開発が進む近隣自治体と比較して「行方には何も無い」と諦めに近い声が多かったという。そのため鈴木市長は、〝無いものねだりより、有るもの探し〟を掲げ、豊かな農地こそ行方の最大のポテンシャルであること、現に多くの農産物を、首都圏を中心に全国に供給している実力があることについて再発見を促し、郷土愛を喚起させるとともに、農産物のブランド化を図って生産者の体力、経済力を向上させていくことに意を尽くした。前述のサツマイモのブランド化をはじめ、「3期目にして、ようやく実を結ぶ所まで到達しました」と手ごたえを得ている。

市民への情報発信は「なめがたエリアテレビ」で

 そして現在、鈴木市長は市政における、五つの重点プロジェクトを掲げている。①働く場の拡大プロジェクト、②健康で文化的なまちプロジェクト、③住みやすい地域プロジェクト、④みんなで育むプロジェクト、⑤情報発信で日本一プロジェクト、である。上記四つが、2016年の「総合戦略」策定時に市民3000人に対し無作為アンケートを取って抽出した重点課題となる。

 この「総合戦略」を取りまとめるにあたり、市民参加型の「なめがた市民100人委員会」をつくったという。前述の市民3000人に対するアンケート配布時に、委員会参加に向けて挙手を募ったところ、約85名の賛同が得られたという。一般的に、行政に対し一言モノ申したい市民は、要求一辺倒に傾く傾向にあるが、逆に市政の戦略に引き入れることによって課題解決に向けた方策を共に考える体制を構築したと言えよう。文字通り市民と一緒に〝行方市のより良い未来〟に向けて、中身の濃い議論を重ねた結果、策定された「総合戦略」は非常にコンパクトかつ平易で、まさに市民が自ら積極的に関わった自分目線の計画となっている。以後、「総合戦略」改定時に新たな100人委員会を募り、KPIの設定を行いながら次なる戦略を練り直している。「市民を巻き込むのではなく、市民がやろうとしていることに対して行政が巻き込まれている、という感覚の方が実態に近い」と話す鈴木市長の言葉からは、能動的な住民自治のありようを体現した自信が窺えた。

 一方、鈴木市長の個人的観点に基づき取り入れたのが⑤の情報発信に関するプロジェクトだ。「東日本大震災後、市民にどのように各種情報を伝達するか、という点に注力してきました。また行方市に住んでいることに誇りが持てるよう、市民自ら情報を外に発信していく必要があります」。その思いが電波に乗って表れた。2016年10月から始まった市域のテレビ、防災対応型エリア放送「なめがたエリアテレビ」の開局だ。関東では初となる、市内全域を視聴範囲とするエリア放送で、市からは主に防災情報や広報を、一方で平常時はさまざまな市民参加型情報番組を放映している。市内のイベント情報や学校行事の案内、各種団体による講座の案内など、まさに市民による市民のための情報だ。受信料は無料、携帯電話でも視聴できる。総務省に掛け合い、地上デジタル放送のホワイトスペースを確保し、既設の防災無線に送信アンテナを置局させることでコストも安価に仕上げたという。茨城県は都道府県で唯一、県域のテレビ局が無い。そこへ市域テレビを開設したことが、市民にとっていかに情報受発信の強い味方になるか想像に難くない。こうした独自のテレビを開設した自治体は行方市で3例目とのことだが、実際に独自のテレビを開設して番組を放映しているのを見るのは私にとっても初めてのことだ。「市制施行後まだ歴史が浅いため、市としての一体感を高めるためにも、市域テレビを通じた市民間の情報コミュニケーションは非常に重要」との鈴木市長の指摘に強く同意する。

 また、市内に自前で光回線を400キロメートル敷設している。これにより市内三つの分庁舎をはじめ各公民館、市内各小中学校をつなぐ市独自のネットワークを構築しているという。

 世界全体が近来ないほど食料の安定供給に対する危機感を有している。やはり人間生活の根幹は食料であり、それを生み出すのは農業である。鈴木市長が追求する6次産業化による地域活性は、むしろ食料安全保障を先取りして未来の暮らしを担保する行政の基本と言えるだろう。一次産業を疎かにしては二次、三次産業の存続も心許ない。終戦当時、中学生だった私を含め誰もが食料難を経験したが、逆に言うと、食べるものさえあれば明日を生きる活力を得られたものだ。サツマイモで文字通り命をつないだ同世代人も多いはず。今こそ日本人は、その原点に戻り都市近郊生産地の重要性を再認識すべきだろう。そして、都市近郊の一大食糧基地として、同市はこれからも力強く、多くの農畜水産物を生み出し続けるに違いない。

 一方、行方市はJ1リーグ・鹿島アントラーズのホームタウンでもある。個人的にジーコの大ファンである私は、彼がアントラーズのクラブアドバイザーを務めていることを大変うれしく思う。独創的かつ実行力を伴う鈴木市長の解説はどれも魅力あふれる内容ばかりだった。

 鈴木周也行方市長を紹介してくれたのは、長年の親友の岡野龍太郎氏(作家・ジャーナリスト)と参議院議員(茨城県選出)の小沼巧氏(立憲民主党)である。岡野氏は茨城県出身で、今も茨城県に住んでいる茨城県の生き字引のような博学の士である。

『時評』で隔月に執筆している本稿「国の実力地方に在り」の目的は、地方の草の根から日本を建て直そうと全力で地方政治に取り組んでいる「日本の宝」のような地方政治家を、全国民に知らせることにある。

 私は、岡野、小沼両氏に茨城県の地方政治家の調査と研究を依頼したところ、両氏は鈴木周也行方市長を紹介してくれた。事前に鈴木周也市長については文献研究していたが、実際にお会いした鈴木周也市長は、事前の予想をはるかに越えるすぐれた政治家だと感じた。

 全国各地に鈴木周也市長のような非凡な政治家が輩出されれば、日本の再興は可能だと感じた。

 親友の岡野龍太郎氏は、私と「時評」編集部長の二人を、著名な潮来市の「鰻 清水屋」に招いてくれた。清水屋の鰻は格別に美味で楽しい昼食を御馳走になった。岡野さん、ありがとう。

 清水屋は安永3(1774)年創業の老舗である。創業から245年以上の江戸時代から伝わる秘伝の味には圧倒された。東京から2時間で行くことができるので、通いたいと思っている。

 清水屋のオーナーの名は「ヒューストン直子」さん。9代目の女将で、すばらしい淑女である。清水屋の長女として生まれたが、米国人と結婚し、家族とともに米国で幸せな生活を送っていた。

 高齢になった父親が、後継者不在のため閉店を検討していることを知り、直子女史は、日本の伝統の味を守るため、家族の了解の上単身帰国し、ウナギ料理を修行し、清水屋を継承した。

 岡野、小沼、ヒューストン直子、鈴木周也の4氏に会い、茨城県人の偉大さを発見した。

(月刊『時評』2023年1月号掲載)

森田 実(もりた・みのる)評論家。1932年、静岡県伊東市生まれ。
森田 実(もりた・みのる)評論家。1932年、静岡県伊東市生まれ。