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森田 実の「国の実力、地方に存(あ)り」⑯

和歌山県の国際親善・日米友好の偉大な歴史遺産―アメリカ村(美浜町三尾)と龍神村殿原

美浜町(アメリカ村)の洋風住宅。(提供:和歌山県)
美浜町(アメリカ村)の洋風住宅。(提供:和歌山県)

「故きを温ねて新しきを知る(温故知新)」(孔子)

カナダ移民の父・工野儀兵衛とアメリカ村

 和歌山県が誕生してから今年(2021年)で150年になる。この間、和歌山県は、国際親善に貢献した数多くの偉人が活躍した。なかでも、「稲むらの火」で知られる濱口梧陵、明治時代に外務大臣として諸外国との間の不平等条約の改正に尽力した陸奥宗光、世界的権威の科学雑誌「ネイチャー」に数多く寄稿し、世界の第一線の学者から賞賛された南方熊楠が特に著名である。

 濱口梧陵の「稲むらの火」の11月5日は和歌山県出身の政治家・二階俊博自民党幹事長の努力によって、「世界津波の日」となり、濱口梧陵の名は全世界に知られるにいたった。

 濱口梧陵、陸奥宗光、南方熊楠のほかに、もう一人、偉大な国際人がいた。「カナダ移民の父」工野儀兵衛である。和歌山の「アメリカ村(三尾村=現在の美浜町三尾地区)」の生みの親でもある。

 三尾村は、江戸時代には漁業で栄えた村だった。進取の気性に富む三尾村の漁師は、関東を含む広い海域で活躍していた。三尾村は耕地面積がほとんどない地形のため、漁業に活路を求めたのだった。

 しかし、江戸末期から明治初期にかけて、漁場をめぐる争いが起き、三尾村は敗北したため、村民の生活は極度に困窮した。

 この状況下で、立ち上がったのが、のちに「カナダ移民の父」となった工野儀兵衛である。

 工野儀兵衛は家業の建設業を継ぎ、大工の棟梁となり、故郷三尾村の将来を考えて防潮堤工事を請け負おうとしたが失敗した。防潮堤工事も延期された。

 儀兵衛はこの苦境の打開を目指してカナダへの渡航を決意した。

 儀兵衛はカナダへの渡航の準備のため、横浜に出た。横浜で働きながら、カナダを含むアメリカ大陸の漁業と農業の情報を集め分析し、カナダのブリティッシュ・コロンビアへの渡航を決めた。

 儀兵衛は横浜港からカナダへの船の中でコックの手伝いをしたり、得意の大工の技術を駆使して船の補修工事などを行い、船の運航に貢献した。人のためによく働くものは皆から信頼を得る。

 当時、カナダにはすでに日本からの移民はいた。漁業、農業、木工場の仕事に従事する者が多かった。

 儀兵衛は自身の弟や親類、三尾村の人々にカナダへの移民をすすめた。儀兵衛は旅館経営にも乗り出した。

 カナダの賃金は高かった。三尾村からの移民は、寝食を忘れるほどよく働き、よく稼ぎ、そのほとんどを郷里に送金した。この送金のおかげで、三尾村は裕福な村に生まれ変わった。

 稼ぎを終えて帰国した者は、カナダ風の家屋を建造し、カナダ風の生活様式を持ち込み、村内に普及させた。三尾村は洋風のエキゾチックな地に変貌した。当時の日本人にとって、カナダもアメリカも違いはなく、三尾村は「アメリカ村」と呼ばれるようになった。三尾村はその後合併によって「美浜町三尾地区」に変わった。

 今日まで工野儀兵衛は日本とカナダにおいて像が造られ、顕彰されてきたが、最近新たな顕彰が行われた。

 読売新聞は2021(令和3)年6月12日には「アメリカ村に象徴立つ」と題する記事を配信した。

 〈明治時代以降、多くのカナダ移民を送り出し、「アメリカ村」として知られる美浜町三尾地区に、カナダ先住民族の彫刻家が制作したトーテムポールと、「カナダ移民の父」と呼ばれる三尾村出身の工野儀兵衛(1854~1917年)の胸像が設置された。(中略)

 2019年、日本カナダ商工会議所(カナダ)のサミー高橋会長が過疎化に悩む三尾地区の現状を知り、「地域の観光資源に」と、本場のトーテムポールの寄贈を提案した。儀兵衛のひ孫の高井利夫さん(72)(兵庫県姫路市)が賛同し、理事長を務めるNPO法人「国際協力推進協議会」の資金で実現した。

 高井さん自ら費用を出した胸像は、銅製で高さ約70センチ。50歳代ぐらいの写真をもとに作られ、口を真一文字に結んだ精悍な顔立ちをしている。〉

 工野儀兵衛ら三尾村からの移民はよく働き、カナダ社会の発展のために貢献し、日米開戦の前年の1940(昭和15)年には2000人以上に達した。

 現在、三尾村ゆかりの日本からの移民の子孫は、西部のブリティッシュ・コロンビア州に約2300人、東部のトロントには約2700人在住しているという。移民3世、4世である。皆カナダ国民である。

 三尾地区とカナダ在住の移民の子孫との結びつきは強い。その要因の一つは、三尾村からカナダへ移民した人々は、子どもが小学校の年齢になると、日本に帰国させ、日本の教育を受けさせた。こうした努力の結果、カナダへ移民した人々と日本との結びつきは強く維持された。

 日本とカナダとの草の根レベルの友情は強力である。第2次世界大戦の不幸な時代を越えて、今、日本とカナダとの友好関係は新たな再活性期を迎えようとしている。アメリカ村は再び輝きはじめている。アメリカ村は、コロナ後の和歌山観光の目玉になると私は予想している。コロナが一段落したら私自身、アメリカ村へ行くつもりである。

 和歌山県日高郡美浜町は最近全国の自治体の注目を集めた。和歌山県下初めての女性町長が誕生したのである。美浜町のホームページには「町長ご挨拶」がある。薮内美和子町長はこう語りかけている。

 〈美浜町民の皆様の温かいご支持、ご支援を頂戴しまして県下初の女性首長として平成31年3月4日に就任しました籔内美和子でございます。「強く」「優しく」「美しい」まち美浜をスローガンとして、以下のまちづくりに取り組みます。

・一人の犠牲者も出さない災害に強いまちづくり

・子育て、高齢者の暮らしを応援する優しいまちへ

・煙樹ヶ浜などの美しいまちを守り住民の健康や産業振興に〉

 日本の発展の鍵は男女同権の実現にある。薮内美和子町長のもとでアメリカ村がさらに輝きを増すことを祈る。

龍神村殿原の1945年5月の奇蹟

 和歌山県龍神村に「B29搭乗員慰霊碑」がある。この慰霊碑は、第2次大戦末期の1945(昭和20)年5月5日に、日本空軍によって撃墜され、和歌山県龍神村に墜落して炎上し、犠牲となった米兵士を、戦時中に手厚く葬り、慰霊し、建造したものである。

 第2次大戦中、しかも末期に、日本人が戦死した米兵士を手厚く葬り、慰霊するという事は、当時を知る者からすると驚くべきことである。まさに奇蹟である。

 1945年5月当時、私は中学生だった。軍部がすすめた本土決戦にそなえた陣地増築の土木工事に学徒動員されていた。

 その頃は、米空軍が完全に制空権をにぎっていて、日本への爆撃はしたい放題という有様だったが、時に撃墜された米軍機もあった。撃墜された若い搭乗員が後ろ手に縛られて憲兵隊によって連行される場面に出会ったことがあった。多くの群衆が集まったが、一人の老婦人が「私の息子はアメリカに殺された。その男を殺せ」と叫んだ。群衆の中には憲兵隊員に引きずられている若い米兵のあわれな姿を見て同情した者もいたかもしれないが、そんな同情を表すことなどできる状況ではなかった。ほとんどの人々の目は米兵に対し憎悪に燃えているように感じられた。日本中に憎悪と狂気が満ちていた。戦争とはそういうものだ。

 しかし、龍神村殿原の人々は、撃墜されてすべてを失った米兵に同情し、11人の搭乗員のうち生存していた4名に食事を与え、死者は礼節をもって手厚く弔った。おそらく、3カ月後に戦争が終わるまでの間、龍神村殿原の人々は、憲兵隊から厳しい追及を受けたのではないかと私は想像する。戦時中にもかかわらず龍神村殿原の人々は、純粋博愛主義を貫いた。

 1945年5月から76年の歳月が流れたが、この間、龍神村殿原の人々は、毎年B29搭乗員を慰霊し続けた。

6月5日に行われた慰霊祭。二階氏とヤング氏の交流で実現した。(提供:日高新報社)
6月5日に行われた慰霊祭。二階氏とヤング氏の交流で実現した。(提供:日高新報社)

 去る2021(令和3)年6月5日、6日、ヤング米国臨時代理大使、二階俊博自由民主党幹事長、小泉龍司自由民主党国際局長、真砂充敏田辺市長、地元殿原の安達克典田辺市議会議員、殿原区の郷土史家・古久保健氏らが慰霊碑に献花し、B29搭乗員を慰霊した。

 この時、ヤング米国臨時代理大使の案内役をつとめた二階俊博自由民主党幹事長は、10日後の6月15日号の『わかやま新報』にこの慰霊祭のことを述べている。長い引用をお許しいただきたい。

 〈去る、6月5日・6日の両日、私はジョセフ・ヤング駐日米国臨時代理大使ご夫妻を和歌山県に案内致しました。私とヤング大使は、これまで日ごろから「日米同盟の深化」や「外交の諸課題」について、定期的に意見交換を行ってまいりました。昨年、ヤング大使と会談を行った際、私は第二次世界大戦中、和歌山県龍神村(現田辺市)の殿原地区にあった、ある史実を紹介しました。殿原は私の母、(旧姓:古久保)菊枝が生まれ育った地でもありました。昭和20年5月5日。サイパンを飛び立ったB29爆撃機は広島の呉を目指すものの、天候不良により目標地点を紀伊半島に変更、その時、当該機は日本軍戦闘機に撃墜。龍神村殿原付近の山中に墜落。記録ではアメリカ軍の若き乗員11名のうち7名が死亡。一方、4名は生存したと記されています。その際、龍神村殿原地区の皆さまが実に人間愛にあふれた介抱・埋葬・供養を行い、終戦から70年以上経過した今も毎年5月に慰霊祭が執り行われています。当時を知る人の話では、地元民の皆さまは極めて貴重だった白米を生存兵に分け与えたり、亡くなった兵士を埋葬したりと献身的に対応されたそうです。また、終戦を迎えるより前の6月には搭乗兵の慰霊碑を建立し供養を営んだとのことです。私はこの歴史の事実をひとりでも多くのアメリカ人に知っていただきたいという思いから、ヤング大使に紹介しました。大使はその場で龍神村を訪問したいとの希望を述べられました。先月、大使から電話を頂き、「この度、任期を終えて帰国することになった。殿原訪問という二階幹事長との約束を果たして帰りたい」との話を改めて頂戴し、今回の慰霊・献花が実現しました。(中略)大使は「戦争中にもかかわらずこの村の人は搭乗兵に優しくしてくれた。日本人が持つ深い思いやりの心は今でもアメリカ人を感動させる。今後も日米間の友情を深めるため努力を続けていきたい」と述べられました。(中略)私も、先祖から同じ殿原の血を受け継ぐものとして、「世界平和」実現に全身全霊を尽くすことを固く決意したいと思います。〉

 第2次世界大戦の末期に、和歌山県龍神村殿原地区の人々が示した最高の人間愛を広く伝え続けるだけではなく、死亡したB29搭乗員の遺族を探すため努力し、ついに死亡者の妹を探し出し、1945年5月5日の真実を伝えるために訪米した殿原の郷土史家・古久保健氏の努力は特筆すべきものである。古久保健氏の著書『轟音――その後――』(日本機関紙出版センター、2016年6月刊)は感動的書物である。古久保健氏のようなすぐれた郷土史家の献身的な努力によって、草の根の国際親善が実現しているのである。古久保健氏の平和と国際親善のための多大な努力は高く賞賛されるべきである。

 「アメリカ村」と「龍神村殿原の奇蹟」は、世界とりわけとくに北米大陸に向かって知らせる努力をすべきだと思う。

 龍神村殿原の人々の純粋な人類愛にもとづく行動を広く米国民に知らせることができれば、日米両国民の真の友情がさらに増進されるであろう。

 アメリカ村の130年の歴史の中で形成された日本とカナダとの友好関係が広く知らされるならば、日本とカナダ人との友情はより固いものになるであろう。

 いまは、世界も日本も、コロナ禍のさなかで混乱しているが、人類はやがてコロナ禍を克服できると私は思っている。ポストコロナ時代が到来した時、米国人とカナダ人が、龍神村殿原の「B29慰霊碑」と「アメリカ村」を日本の新名所として訪問してくれることを期待したい。そして日本人の根本精神が「和を以って貴しと為す」(17条の憲法)にあることを知ってもらい、さらに友情を深めることができるだろう。

(月刊『時評』2021年9月号掲載)

森田 実(もりた・みのる)評論家。1932年、静岡県伊東市生まれ。
森田 実(もりた・みのる)評論家。1932年、静岡県伊東市生まれ。