2022/02/02
首都圏大地震発生説への対応
―――いつ頃、どのような分野についての対策だったのですか。
保田 あれは1971年のことです。当時私は旧・大蔵省主計局主計官補佐として公共事業を担当していたのですが、その頃、関東大震災クラスの大型地震が近く首都圏を襲うとの説が流れ、それへの対策を急がされたものでした。東京大学の著名な地震学の泰斗と言われる大先生も、間もなく関東大震災クラスの大型地震が発生するだろうと警鐘を発しておられました。ただ、私がその大先生に対しその根拠を尋ねても、過去の地震発生の歴史からの推論の域を出なかったと記憶しています。そして実際には、現在に至るも大型地震は発生していません。むろん、発生していなくて幸いですし、予測が外れるに越したことは無いのですが……。さらに言えばその後も、富士山が近く噴火するとの騒ぎもありましたが、幸いこちらも風説だけに終り現在に至っています。
―――むしろそれ以後、阪神・淡路大震災や東日本大震災など、全国各地で大型の地震が相次ぎました。
保田 そうですネ。それにつれて地震の発生メカニズムなどに関する研究なども進み、また地震防災に対する国民的意識も高まり、発災後の速やかな情報発信や避難・減災への取り組み、復旧・復興体制なども整備されてきたと思います。しかし、世界有数の地震大国であるわが国においても、地震を予知するまでには残念ながら至っておりません。いつどこでどのように発生するか予見できない自然事象だけに、予算をはじめ国でまとまった事前対策を立てるのが極めて難しい命題なのです。
何より、事前に予測を立ててそれを発表しようものなら、外れたとき、空振りに終わったとき、社会・経済に与えるダメージは計り知れないものとなるおそれがあります。それだけに事前情報や、初期段階での対策というものも、高い確度と根拠を伴う想定が求められるのです。
それは自然災害だけでなく、今回のような未知の感染症についても同様で、何らかの性質を有した感染症が突如発生する可能性はあるとしても、それを予見することは困難ですし、また事前に予算を措置することも、万全の防止対策を講じておくことも現実的には難しいと言わざるを得ません。そして、いざ感染症の発生が認識されても、自粛・隔離政策を打ち出すことは、社会・経済活動に大きな影響を及ぼします。
―――それ故に、残念ながら、各国とも当初は万全の対策を打ち出すことなく、動向についてしばらく様子をうかがうといったところにとどまっていたように感じられます。
保田 確かに、感染症がどのくらいの感染力をもって広がるのか、性質が明らかにならないうちに想定を立てるのは、まさに地震の発生や規模を事前予測するのにある意味近く、かつ経済活動とのバランスを保ちながら被害の抑止に努めるのはなかなか困難だと言えますね。まして、地震災害と異なり、日本では近年、国民生活に影響を及ぼすような感染症の発生がほとんどありませんでしたからネ。
防災に向けたインフラと同様に
―――首都圏での大型地震は結局発生しませんでしたが、ほぼ同時期に米国西海岸で大きな地震があったそうですね。
保田 1971年2月にロサンゼルスを襲うサンフェルナンド地震が発生しました。死者62名、負傷者1000名以上と伝えられています。ちょうどその頃、日本でも大地震発生に対する意識の高まりがあったことから、日本は現地に政府調査団を派遣したのですが、当時、公共事業予算を担当していた関係で私も駆り出されました。
―――被災後の現地を視察されたと。
保田 印象に残っていたのは、ロス郊外のダムがあわや決壊寸前で踏みとどまっていたことです。日本で一般的に見られるコンクリート主体のダムではなく、土質遮水壁を中心に、前後に石を積んでそれを保護する構造のダムで、日本ではごくわずかしかありません。もし決壊していたら大惨事に発展するところでしたが、本当に危機一髪でした。
―――東日本大震災以後、日本でもインフラがもつ防災機能について、見直す意識が国民に広がったように思われます。
保田 大自然のもたらす危機に対する予知・予測・予見は非常に難しく、それに対する備えもまた然りです。ただ、前述のように地震をはじめ、自然災害発生後の対応については、われわれ自身が経験を積んだこと、またIT技術の進展などもあり、国・自治体における迅速かつ的確な事後対策が整ってきたと思います。であれば、今回のコロナ禍を奇貨として、危機管理は災害面だけでなくこのような保健衛生、医療・看護の面でも緊急態勢の充実と見直しが求められるのではないでしょうか。目下のところは、それが最も現実的な対応ですので、国全体がその点に向けて最善を尽くすことを望みたいものですネ。
(月刊『時評』2020年6月号掲載)
保田 博(やすだ ひろし)
昭和7年5月14日生まれ、広島県出身。東京大学法学部卒業。32年大蔵省入省、51年総理大臣秘書官、56年大臣官房文書課長、58年主計局次長、61年経済企画庁長官官房長、63年大蔵省大臣官房長、平成2年主計局長、3年事務次官。6年日本輸出入銀行総裁、12年国際協力銀行総裁、14年日本投資保護基金理事長、16年資本市場振興財団理事長。