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森田浩之「ヒトの知能とキカイの知能」⑥

状況認識を超えるパワー

 人工知能(AI)論議の問題は、人間の知能と機械の知能のどちらが「優れているのか」という単線的な比較をしていること。同一の尺度で比較するやり方である。ただ「違う」と言ってしまえばいいだろう。

 自動運転は認識部分にAIを用いて外で起こっていることを正確に読み取ることで適切な行動を取る。信号が青なら直進、前方が青でも右折信号が青になるまで待つ、一方通行の反対からは入らない、風で飛ばされたてきたゴミはやり過ごす、などである。

 レベル4が高速道路での完全自動化であるのに対して、レベル5は一般道での完全自動化だが、私はレベル間で4から5が一番の飛躍を必要とすると思っている。高速道路はほぼ「閉鎖システム」であるのに、一般道は「開放システム」だからである。前者ではどれほど膨大であろうと起こりうる事態の数に限りがあり、後者では想定される事態の種類が少なくても、特定の場面では予想外のことが起こる。問題は人間である。

 高速道路の場合も対するドライバーは人間だが、信号がない、標識が少ない、出入りが少ないという安定した環境であるため、人間の気まぐれが生じにくい。しかし一般道では、自分が今走っている道路に対して出入りが多いから、他の運転者の行動が予測できない。

 それ以上に問題なのが歩行者である。横断歩道の信号を守っている人でも、速度が違う、方向が違う、たまに戻ったりする。左折で待っている時、どのタイミングで進むかには長年の勘が必要だ。加えて厄介なのが横断歩道以外で、突然、道路を横切る人がいること。面白いことに、運転者が歩行者として横断する時は、車のスピードを考慮して、タイミングを見計らって車道に入ってくる。しかし困ったことだが、頭で描く自分のスピードと、実際の歩行スピードに大きな差がある高齢者が信号のないところで横断してくる。

 散歩好きな私が日々、車道を見て感じるのは、事故が起こっていないことが不思議だということである。それほど外の世界は危険な香りがする。

 この曲芸のような自動車と歩行者の社交ダンスをうまく調整しているのが人間の認識能力である。確かに人間も、機械と同様に、目に見えている人・信号・標識、聞こえているエンジン音やクラクションなどを手がかりにしている。しかし人間は知覚できる兆候だけで判断しているわけではない。見ているのは信号などだが、実際のところ、人間が対処しているのは他の人間である。

 自動運転車は通常の走行の場合は、車道上の白線に沿って進んでいる。それに加えて、人・信号・看板・ゴミ・鹿など個々の物体を認識して、その時々適切な行動を選択する。

 対する人間はまず〝ざくっ〟と事態を一掴みする。運転の際、最も重要なのは歩行者と他のドライバーの「意図」を読み取ることだから、ここで用いられるのが「相手の立場に自分を置く」という状況認識の方法である。これは個別の動作・信号を知覚する前提であり、それぞれの兆候を解釈するための文脈であり、気まぐれな行動に備える心構えである。

 人間の状況認識は総体を無意識で一瞬のうちに捉えるから、状況を言葉で表現するのは難しい。総体をそのままで認識するとは、例えて言えば、球体を球体のままで認識することである。

 言語は外的世界に存在する事物に対応する単語と、単語と単語を外的世界の秩序に則って整列させる文法からなるが、これは単線である。比喩を続けるならば、状況認識を言葉で表現するとは、球体の表面積を定規で計測するようなものである。たくさんの定規を当てても、平面と球面が接するところでは、必ず隙間が生じてしまう。

 コンピューターはプログラミング言語に司令されたことしかできない。このネガティブな言い方をポジティブなものに変えるならば、コンピューターはプログラムされたことでは、人間が敵わないほど、爆発的な能力を発揮する。プログラムは、人間の思考を一度言葉にし、それを数式に書き直して、さらにJava やPython などの形式言語に変換されたものである。どれほど精緻でも所詮、単線的。

 しかし私は「ネバー」(決して)は言わない主義である。AI認識による自動運転は可能かと尋ねられたら「イエス」と答える。というのもAIの歴史で成功した例を精査していくと、一見、人間の知能を模倣したように見えるものの、実は機械には不可能な人間の状況認識をコンピューター・パワーで補っていたからである。同じ比喩で言うと、球体の表面積を定規で測るのは困難だが、無数の定規を無限の回数、球面に当てていけば、いつかは球体を広げて平たくしたのと同じになる。地球儀と地図の関係だ。

 人間が言葉で状況を説明すると、くどくなり、不必要に長くなって聞き手は飽きてしまう。しかし機械の世界では情け容赦なく、単線を敷き詰めて立体を再現する。コンピューターにはそれだけのパワーがある。人間の器用さを機械が物量作戦で凌駕するということである。

(月刊『時評』2021年2月号掲載)

森田浩之(もりた・ひろゆき) 1966年生。東日本国際大学客員教授。
森田浩之(もりた・ひろゆき) 1966年生。東日本国際大学客員教授。