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森田浩之「ヒトの知能とキカイの知能」⑮

人間の最後の砦

 このコラムではいつも人工知能の限界について書いているが、これはAIをヒトの知能に匹敵させようという無謀な学問的探求を批評しているだけであって、画像や音声の認識にいたっては、もう実用化段階と考えてよい。

 しかし学者の中には「AIが人間を支配する」という愚かな議論をしたがる人がいる。こういう極論を吟味するのがこれまでの目的であったが、AIが人間を超えるかどうかを知るためには、まずヒトの知能について知らねばならない。そして人間の知性の究極的な姿が芸術であるため、しばしば音楽などを扱ってきた。

 芸術を小説・音楽・絵画に限定するなら、実は最も機械に馴染み深いのは音楽である。音楽はそもそも五線紙に音符を連ねるように、一音一音が区切られており、機械としては扱いやすい。さらに20世紀はじめごろまでは「調性」というルールがあり、それをプログラム化すれば、コンピューターは簡単に処理できる(無調性にもそれなりのルールはあるが)。

 次の難関は言語だが、これも単語と文法というルールを書き込んでおけば、機械は比較的容易に扱える。もちろんコンピューターは、小説のように文章から「にじみ出る」ストーリーや感情は理解しづらいが、言語のルールから大きく外れていなければ、不可能ではない。

 この点、おそらく絵画が一番の未踏の境地ではないか。私は絵描きではないが、これほど良い意味でルールのない芸術は珍しい。だからこそ人間の創造性が直接的に表れる媒体と言えよう。

 ここで語る資格を示すために、恥ずかしい話を披露しよう。かつてパリを訪れた時、一日中滞在できた6日間のうち、開館から閉館までルーブル、オルセー、ポンピドーセンターに2日間ずつ入り浸っていた。今でも自慢できることと言えば、オープン直後で無人のオルセーにて、ゴッホの「自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)」と20分もにらめっこしたことであり、ポンピドーでマネの「オランピア」と心行くまで対峙したことである(本来はオルセー所蔵)。ロンドンではテート・モダンのロスコ・ルームでミューラル(壁画の意味だが、実際はでっかいキャンバス)に囲まれて何時間も瞑想にふけっていたものである。

 私は長年モネが好きで、数メートル級の「睡蓮」の前で無心になることが最も豊かな時間の使い方だと思っていたが、最近ゴッホに傾倒しており、私のパソコンの壁紙を「糸杉のある麦畑」(メトロポリタン美術館所蔵)にしている(ちなみにスマートフォンの壁紙はデュフィ)。

 そこで問い――AIは絵を描けるか。もちろん、できる。しかし人間のように「無」から創ることはできない。とはいえ、人間も「無」から創造しているのだろうか。AI研究の大半は画像や音声認識などの実用化のためだが、AIの哲学的考察の面白いところは、キカイの知能を知ることがヒトの知能を知ることにつながることだ。さて、人間は「無」から創造しているのか。私は「ノー」だと思う。

 ロンドンでナショナルギャラリーに毎週のように出没していた頃、美大の学生とおぼしき若者が名画を模写している姿をよく見た(日本では禁止されている――愚かなルールだ!)。彼らは名画を自らの手で復元することで偉大な先人の技を受け継ごうとする。学生は手法に関しては伝統を身に付け、自分らしく変形させていく。さらに題材に関しても、無から有が生まれるのではなく、過去の画家たちが見てきた物を新たな視点で描き直す。

 結局AIがしていることも同じである。機械学習の場合、過去の名画を大量に読み込ませて、パターンを発見させる。「AIって、そんなにすごいの?」と思われるかもしれないが、所詮、優れたアルゴリズムを開発し、それをプログラム化するのは人間で、結局のところ、高度なAIは天才レベルのコンピューターサイエンティストにしか書くことはできない。しかし一度でき上がれば、人間には理解できないけれど、機械はその絵描きのパターン(なんらかの規則性)、例えばゴッホの「クセ」を見つけることができる。

 そして、ここも人間と同じように、無から題材が湧いてくるわけではない。糸杉のある麦畑の写真を「ゴッホ風」プログラムに処理させると、その写真がゴッホ的な絵としてディスプレーに映し出される。これは人間の創造的営みと同じ手順で描かれたものだから、人間と同じレベルのクリエイティビティーと考えてよい。その後でそれを「真正」の絵画と捉えるかどうかは受け手の問題であり、デイヴィッド・コープによる「バッハ・スタイル」のカンタータを「偽物」とするかどうかと同じである。

 いずれにせよ、できるか/できないか、と聞かれるならば、AIも絵は描ける。そしてそれは名人以下だが、凡人以上であることは確かだ。あくまで強調したいのは、それは「キカイ」の偉業ではなく、アルゴリズムを開発したAIプログラマー(つまり「ヒト」)の偉業だということである。

(月刊『時評』2022年8月号掲載)

森田浩之(もりた・ひろゆき) 1966年生。東日本国際大学客員教授。
森田浩之(もりた・ひろゆき) 1966年生。東日本国際大学客員教授。