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森田浩之「ヒトの知能とキカイの知能」⑩

現実理解のためのAI

 コロナの感染者が急増して国中が大騒ぎだが、なぜこれほど拡大したのか。それは大半の人が「自分は大丈夫」と思ってきたからである。では、なぜ大半の人は「自分は大丈夫」と思ってきたのか。それは実際に大丈夫だったからである。

 誰もが知りえない事実を空想してみよう。ある晩、マスクなし会食は日本全国で何件あったか。そして、そのうち何件で感染者が発生したか。おそらく、ほとんどのマスクなし会食は何事もなく終わっただろう。だから「次も大丈夫」と思うのは、人間の自然な推論だ。

 本筋を続ける前に、感染拡大のメカニズムを考えよう。ウイルスの感染は、必ずしも感染者全員が別の人にウイルスをうつしてしまうわけではないが、10人感染したとして、そのうち3人が、それぞれ2人ずつ、別の人にウイルスをうつしたとすると、トータルで16人。さらにこのうち5人が、やはりそれぞれ2人ずつ、別の人にウイルスをうつしたとしよう。私などは、もうこの時点で、頭がパンクしている。

 面倒な計算はせずに概念的に考えれば、ウイルスの感染は「1+1+1+1+1……」の世界ではなく、「2×2×2×2×2……」の世界である。カッコよく書けば、前者は「X+Y+Z」の世界だが、後者は「Y=Xの2乗」の世界だ。掛け算の解が、もう一度同じ数字で掛けられるから、全国で1日数千人の感染者が数週間後に数万人になる。

 人間は「今まで~だったから、この後も~になる」というように考えがちだが、ここから面倒な話になる。「A」「B」を起こった事=現象とし、Aが「原因」でBが「結果」としよう。この文脈ではAは「マスクなし会食」で、Bは「何事も起こらず、感染しなかった」である。Bがわかっている時、Aはどれくらいの値になるのか。それがわかれば、「何も起こらなかった」会食に対するマスクなし会食全体がわかる。

 われわれが知りたいのは、Bがわかっている時のAの値。これを出すには、難解な計算が必要となる。記号で書くと「P(A¦B)」だが、これは結果が与えられた時の原因の確率で「事後確率」と呼ばれる。これを左辺において、次に右辺を考える。

 なんでそうなるの? という疑問は脇に置いて、左辺を出すためには、右辺側にあと3つ、記号が必要。一つは左辺を逆にしたもので「P(B¦A)」だが、これはAが与えられた時にBが得られる可能性を表す。これに「P(A)」を掛けるが、これは原因のことで「事前確率」と言う。そして「P(B¦A)×P(A)」を「P(B)」という結果が起こる確率で割ると、左辺の「P(A¦B)」が求められる。

 実際のところは、マスクなし会食全体も、「何も起こらなかった」マスクなし会食も数値化できないので、この式で答えは得られないが、これを人間の自然な推論と見なすことができたら、繰り返し起こってきた現象で、「次も大丈夫」という人間の心理が説明できる。

 これの意味するところは、Bの確率が上がることで、Aの確率がアップデートされること。ベイズの定理の専門家が聞いたら大笑いすることを書くが、「今夜も大丈夫だった」が増えていくと、マスクなし会食の回数が増えていくということだ(ただし、これはベイズの定理を「主観的」に解釈しており、哲学の認識論には「客観的」な解釈もある)。

 こんなことを考えてきたのは、人工知能の中に「ベイジアン・ニューラル・ネットワーク」というのがあり、その関連でベイズの定理をかじったことがあるからである。人工知能研究は通常、哲学や心理学、その他の思考・推論の研究から、それをプログラム化する方向に進んでいくが、今回は人工知能の知見が現実世界を理解するのに役立っている。

 同じ話を繰り返すと、人間は同じ現象を見続けることで、「次も同じ現象が起こる」と推測する。これと同じことがコンピューターで再現できれば、人工知能の出来上がり。ベイズの定理という統計学の手法を人工知能に応用したのがベイジアン・ニューラル・ネットワークだが、ニューラル・ネットワークは人間の脳をそのままコンピューターで模式化したものであり、プログラム上のセルは脳のニューロンに対応する。人間が何かを認識する際、一つの神経細胞が対象(例えば人の顔)を捉えるのではなく、無数の神経細胞が部分部分を掴まえつつ、頭全体で人の顔だと把握する。

 コンピューターのニューラル・ネットワークでも、個々のセルは画像の一部だけを切り取るが、それが全体で「顔」として認識されなかったら、個々のセルに戻されて、加重された値を微調整していく。ベイジアン・ニューラル・ネットワークはここに「不確実性」を加えることで、実際の人間思考に近づける。個々のセルに与えられる数値を「パラメーター」というが、これを「確率変数」にするわけだ。

 コロナを理解するのに、まさか人工知能の勉強が役に立つとは思わなかったが、私の仮説が正しければ、感染拡大を引き起こす人間の心理には、越え難い大きく分厚い壁があることがわかる。

(月刊『時評』2021年10月号掲載)

森田浩之(もりた・ひろゆき) 1966年生。東日本国際大学客員教授。
森田浩之(もりた・ひろゆき) 1966年生。東日本国際大学客員教授。