前漢時代の「烈女伝」(劉向)に、孟母三遷の故事が記されている。
孟子の母は、墓場のそばに住んでいたが、孟子が葬式のまねをして遊ぶので、市場の近くに転居した。今度は孟子が商人をまねて商売ごっこをするので、学校のそばに転居した。すると礼儀作法をまねるようになったので、これこそ教育に最適の場所だとして定住したという。
ここでは、子どもが商売のまねごとをすることは、教育上、よろしくないとされている。この故事が長らく伝えられてきた意味は決して軽くはない。
しかし、現在の日本では、子ども相手の「起業家教育」が盛んになりつつある。
例えば、中小企業庁では、「経営サポート」の一つとして「将来的に創業者となる人材を輩出し、開業率向上に繋げるため、起業家に必要とされるマインド(チャレンジ精神、探求心等)と資質・能力(情報収集・分析力、リーダーシップ等)を有する人材を育成するための若年層向け起業家教育を推進します」という(同庁ホームページ)。
また、東京都でも、「これからの産業を担う若い世代を含めた幅広い層が起業を目指すよう、すそ野を広げるための取り組みとして、都内小中学校の起業家教育導入に対する支援」として、相談窓口を設けた上で、「起業家教育プログラム策定・実施支援」を小中学校向けに実施している。
こうした政策は、社会や職業の在り方が大きく変化する中で、子どもたちに未来を切り開いていく力を持たせる狙いがあるとも言われている。
しかし、実際に行われていることは、子どもたちによる「商売ごっこ」になっていないだろうか。子どもにビジネスプランを作らせて、その優劣を競うといったことも実際に行われている。
もちろん、子ども相手の「起業家教育」なるものも、さまざまな経験の機会を与える趣旨にとどまるならよいだろう。
例えば、文部科学省は、「一人一人が主体的に自己の進路を選択・決定できる能力を高め、社会的・職業的自立を促すキャリア教育」の一環として「起業家教育」を理解しているようだ(同省ホームページ)。
しかし、中小企業庁にせよ、東京都にせよ、公然と「起業家教育」を政策的に進める目的は、「創業者となる人材を輩出」することであり、「若い世代を含めた幅広い層が起業を目指す」ことだと喧伝している。
しかし、子どもたちが将来において起業していくこと自体を目的とした「起業家教育」政策は、考え直すべきではないか。
第一に、そもそも起業だけが子どもが目指すべき道ではないが、百歩譲って起業を目指すにしても、「起業家教育」で多くの起業を成功させることはできない。
小学生、中学生、高校生といった子どもを相手に、どのような「起業家教育」をすれば起業家に必要なマインドや能力を涵養できるというのか。
特に、変化が大きくロールモデルに乏しい現代において、実効的な「起業家教育」のプログラムが用意できるとは思えない。
実際に、わが国や世界を代表する起業家を見渡しても、そうした「起業家教育」が奏功したという話を聞いたことがない。
成功した起業家を分析した結果、子どもの頃の「起業家教育」が重要だというエビデンスはないのだ。あえて言えば、成功した起業家の「共通項」は「地頭の強さ」と「運の良さ」だ。
起業促進という課題に対して(驚くべきことに「開業率」という数値自体が政策効果の判断基準とされている。ちなみに、この「開業率」は事業所での雇用関係の成立をもって開業とするもので、事業主一人での開業はカウントされない)、そもそも自らはリスクを負って起業しない公務員が考え出した「起業家教育」政策で、多くの子どもを振り回してはならないだろう。
第二に、変化の大きな時代を「生き抜く力」は、「商売ごっこ」からは生まれず、むしろ骨太な「教養」から生まれる。
バブル経済崩壊後、産業界は「即戦力」となる人材育成を大学に求め、東京大学などごく一部を除いて教養部が廃止された。
その結果は、複雑に変化していく状況への対応能力の乏しい若者の増加であって、むしろ企業の期待に背くものであったと指摘されている。
そもそも、新卒採用で「即戦力」を期待するような信頼性も将来性もないビジネスの声を政策に反映させて、「教養教育」を軽んじたことが深刻な間違いだ。
第三に、金儲けを最優先とするかのような教育は、「人間が人間であることの価値」を見失わせるおそれすらある。
英語では「リベラル・アーツ」となる「教養」は、まさしく「自由」であるための技術であって、人間が人間であるために必要なものだ。それは、金儲けとは次元の異なる価値に通じるものである。
そうした「教養」を基礎として、カネのためではなく、私たちの何らかの課題を解決するための起業を行う人材こそ、私たちが求めるべきものであろう。
このところの若年者向け「起業家教育」ブームは、近視眼的な「貧すれば鈍する」の典型的政策ではないか。
将来が見通しにくい時代だからこそ、若者には「起業家教育」ではなく「教養教育」の機会をもっと与えるべきだ。
(月刊『時評』2022年3月号掲載)